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三十話 警視庁の迷はし神(解決編)

秋花しゅうか女子短大に警視庁広報課の御手洗みたらいさんがまたやって来た。俺、藤野美知子の下宿に電話がないので毎回ご足労をかけてしまう。


俺は御手洗みたらいさんと一緒にまた駅近くの喫茶店に入った。


「藤野さんの助言のおかげで無事に真犯人が捕まったよ。感謝してもしきれない」とコーヒーを頼んだ後ですぐに御手洗みたらいさんが言った。


「短大の図書室においてある新聞の記事を読みました。岩井なんとかという人が犯人だと書いてありましたけど」


「右胸を刺されて死んだ杉田寿子すぎたひさこの隣人の女性だよ。ベースギターを弾いていた高嵜 薫(たかさきかおる)とは反対側の隣人だ」


「やっぱり犯人は女性でしたか」


「君に助言してもらったように明応大学法医学教室の立花先生と一色女史に捜査一課の刑事二人が相談しに行ったところ、すぐに有意義な助言をもらって再捜査し、岩井が犯人だという証拠を入手したようだ」


「それはよかったです。・・・で、どのような犯行状況だったのか、差し支えなければ話を聞きたいのですが」


「もちろんだよ。・・・被害者の杉田は高嵜が弾くベースの音にいつもイライラさせられていて、よく文句を言いに行っていた。これは事実なんだが、反対側の隣人の岩井も、藤野さんが指摘したように夜にときどき掃除機をかけていて、杉田が文句を言いに来たことが何度かあったらしい」


「そうでしょうね。・・・でも、その程度で相手を殺そうとするのでしょうか?」


「そこなんだけど、杉田は過去にもめ事を起こしていた。勤めている会社の取引先の男性社員に言い寄っていたんだが、その男性には当時婚約者がいてね、その婚約者が騒いだためにけっこう大きな騒動になって、結局婚約は破棄、男性社員は慰謝料を払った後、地方の支社に左遷させられたそうだ」


「それではその男女に恨まれたでしょうね?」


「そうだね。で、しばらく前に婚約者だった女性が岩井の部屋に押しかけて来たんだ」


「え?関係のない岩井さんの部屋ですか?」


「杉田の部屋と間違えて押しかけたらしい。ドアを開けた岩井にその女性がつかみかかったんだが、すぐに杉田じゃないことに気がついて泣き出したそうだ」


「それは、それは・・・」


「岩井には恨まれる覚えはないから、その女性をなだめるために部屋に上げて、お茶を出した。その女性は事情を話し、隣人の杉田に対する恨みつらみを岩井に打ち明けたそうだ」


「まさか、それで同情して杉田さんを刺したのですか?」


「さすがに同情だけでは人を殺さないだろう。話を聞いた岩井は、『私に百万円くれれば、あなたの代わりに杉田を殺してあげる』と持ちかけたそうだ」


「百万円?・・・けっこうな大金ですが、岩井さんはお金に困っていたのですか?」


「勤めていた会社は薄給で、生活するだけでかつかつだったそうだ。それに普段から杉田に対して反感を持っていたからだろう」


「百万円で殺人なんて、割に合わない気がしますが・・・」


「岩井には目算があったんだ。高嵜の軍手の片方がアパートの共用廊下に落ちていたのを何気なく拾っていて、取っておいたそうだ。それを使って自分よりも杉田ともめていた高嵜に容疑を向けようと考えたようだ」


「なるほど」


「岩井はその軍手を持って杉田の家を訪れ、杉田の台所にある包丁を使って杉田を刺そうと考えた。自分の包丁を使うと、自分の犯行だとばれるからね」


「そうですね」


「ここで藤野さんに紹介された一色女史が、杉田に包丁を出してもらうために切り分けなければならないお菓子を手みやげに持って行ったんじゃないかと指摘したんだ」


「なるほど。『お菓子を一緒に食べましょう。切り分けるから包丁を貸してね』と言えば、自然に包丁を手に入れられますね。でも、夜八時頃ですよね。杉田さんは夕食はどうしたのでしょうか?」


「どこかで食べて帰ったのか、簡単な食事をこれから作ろうとしていたか、どちらかだろうね」


「夕食の直後か直前にお菓子ですか?」


「甘いものは別腹というからね、杉田は気にしなかったのだろう」


「それで、何のお菓子でしたか?」


「虎屋の羊羹だった。岩井は、高嵜の部屋からベースを弾く音が聞こえるのを確認してから杉田の部屋を訪問した。中に入れてもらって杉田に包丁とまな板を出してもらった。自分で切ると岩井は言ったらしい。岩井は銀紙に包まれている一棹の羊羹の端を切りながら、杉田の様子を伺った。杉田から見えないように自分の体で隠しながら、右手に高嵜の軍手をはめ、布巾で包丁の柄の指紋を拭き取ってから、おもむろに振り返って包丁で杉田の右胸を刺したんだ」


「それで心臓を貫いたのですね?」


「いや、杉田が着ていた服の右胸部分を刺したんだが、あいにく肋骨に当たって深くは刺さらなかった。杉田は驚いて短く叫ぶとともに身の危険を感じ、奥の部屋に逃げ込もうとしたんだが、足がもつれたのかその場で前のめりに転倒してしまった。その結果、刺さっていた包丁の柄が床に当たって押し込まれ、杉田の心臓まで届いたんだ」


「うわぁ・・・」衝撃的な状況に俺は絶句した。


「岩井は右手にはめていた軍手を脱ぐと、杉田の胸から流れ出た血だまりにその軍手を捨てた。そのとき、岩井は高嵜の部屋からベースを弾く音が聞こえてないのに気づいたんだ」


「悲鳴に気づいて演奏をやめたのですか?」


「たまたま直前に水を飲むために演奏を中断していたそうだ。岩井は杉田が刺されたときに発した悲鳴を聞かれたと思い、音を立てないように気をつけながら急いで自室に帰った。そして掃除機のスイッチを入れてから外の様子を伺っていると、まもなく高嵜が共用廊下を走って行く足音が聞こえた。一一九番通報するためにね」


「岩井さんが杉田さんの部屋から出るところは高嵜さんに目撃されなかったのですね?」


「そうなんだ。高嵜はしばらく耳を澄ませてから、外へ出て杉田の部屋をのぞいたので、岩井が自室に逃げ帰る時間的余裕があったんだ」


「殺人なのか、事故死なのかわかりませんが、高嵜さんの軍手を現場に残したので犯行は成功したのですね?」


「いや、岩井はあわてていて、杉田の部屋の台所に羊羹を残したままだということを思い出した。それが残っていると、虎屋の羊羹を買った人が現場にいたことが警察に知られ、店で聞き込みをしたら、岩井が買ったことがすぐにばれることに気がついた」


「そこで、高嵜さんが戻って来る前にもう一度杉田さんの部屋に行って、羊羹を持ち帰ったのですね?」


「そうなんだが、あわてていたので、羊羹の端の銀紙包装をうっかり流しに落としていたことに気がつかなかった。一色女史の指摘で刑事が思い出し、その後、被害者の服の刺されたところにかすかに羊羹がついているのを鑑識が見つけ、犯行前に凶器の包丁で羊羹の端を切ったことがわかった。そして虎屋の羊羹を売っている店に岩井の顔写真を見せながら聞き込みをした結果、岩井が購入した裏付けが取れたんだ」


「婚約を破棄された女性からの百万円の受け取りは確認されたのですか?」


「ああ。杉田が死に、高嵜が警察で取り調べられているのを確認した上で女性に代金を支払うよう連絡した。女性がすぐに岩井の銀行口座に振込したのが記録から確認された。女性は婚約破棄の慰謝料を元婚約者から受け取っていたので、お金の手持ちがあったようだ。ちなみにその女性は、犯行日時に知人と会食し、アリバイを作っておくようにと岩井から事前に言われていたそうだ」


「用意周到ですね。・・・そして岩井さんは、もう少しで高嵜さんに罪を着せることができたのですね」


「そうなんだ。危ないところだったよ」


「ところで、杉田さんが自分で転倒して心臓に包丁が突き刺さったとのことですが、それでも殺人になるのですか?」


「殺そうとして包丁を刺したのは事実だから、傷害致死罪が問われるだろうね。弁護士は殺人未遂と主張するだろうが」


「婚約破棄された女性も罪に問われるのでしょうか?」


「その女性は実際にお金を払っているので、共謀して殺人を犯したとみなされたら同様に傷害致死罪が適用される。ただ、弁護士は『本当に殺人を犯すとは思っていなかった。犯行後、脅迫されたので仕方なくお金を払った』と、無罪を主張するかもしれない。裁判でどういう判決になるかは注目すべきところだね」


「なるほど。わかりました」


「いずれにしろ、藤野さんの助言がなかったら、犯人でない高嵜を逮捕してしまって、警視庁の大失態になるところだった。改めて感謝するよ」


そう言って御手洗みたらいさんは背広の内ポケットから封筒を取り出すと、俺に差し出してきた。


「これは少ないけど、僕からのお礼だよ」


「いえ、捜査に協力するのは市民の義務ですから、お気遣いは無用ですよ」


「いやいや、受け取ってくれたまえ。本来なら警視庁が藤野さんを表彰すべきところなんだが、僕が独断で一般市民に捜査情報を漏らしたことがばれたらお目玉を食らうからね、口止め料込みってことで」と御手洗みたらいさんが冗談めかして言った。


「一番お役に立ったのは一色さんでしょうが、せっかくですからありがたく頂戴します」と俺はお礼を言いながら封筒を受け取った。


「今後も何かあったらよろしく頼むよ」と御手洗みたらいさんに言われ、俺は苦笑いした。


「藤野さんは警視総監の秘書よりも、刑事部長の相談役になった方がいいかもね。刑事部長補佐とか」


「そんな大役、務まりませんよ」と俺は謙遜した。


「警視庁の一般職員募集の時期になったら案内を送るよ」と御手洗みたらいさんは言って、帰って行った。


喫茶店から短大に戻り、ついでに就職指導部に顔を出そうとしたら、その前の廊下で相良さんが俺を見つけて声をかけてきた。


「あ、ちょうど良かった、藤野さん!」


「また、どこかの会社からお呼びがかかったのですか?」いつもの展開だ。


「今日、相談に乗ってもらいたいのは私なの」


「何かあったのですか?」


「実はね、もらいものの虎屋の羊羹がなくなったの」


また、虎屋の羊羹か、と思いつつ、「どのようになくなったのですか?」と聞き返した。


「部長さんが羊羹を持って来られたの。みんなで食べなさいって。そこで私が給湯室へ持って行って、みんなのお茶を用意しつつ、羊羹を切り分けようとしたの。ところがちょっと目を離した隙に、羊羹の四割ほどがなくなっていたのよ」


「給湯室にはほかに誰かいましたか?」


「ほかの部署の女性職員が五人ほど入れ代わり立ち代わり出入りしていたわよ。みんな顔見知りだからあいさつを交わしたけど、あの人たちが盗んだとは思わないわ」


「え・・・と、その羊羹はどのくらいの長さですか?」


「二十四・五センチよ。ちゃんと定規で測ったんだから。就職指導部には私を含めて職員が九人いるから、二・七センチずつ八人分切り分け、残ったはしたを私の分にしようと考えたの。で、定規を当てて切り分けようとしたところにほかの部署の女性職員がひとり入って来たのよ」


二・七×八=二十一・六センチ。二十四・五-二十一・六=二・九センチが相良さんの取り分か。


「その女性職員におすそ分けしませんでしたか?」


「『虎屋の羊羹なの?おいしそうね』とのぞき込んでくるから、仕方なく『内緒よ』と言って一センチほど切ってあげたのよ。残りの四人にも同じように分けてあげていたら、食べたのは全部で五センチのはずなのに、羊羹の残りの長さが十四・五センチになっていたのよ。おかしくない?」


最初から十センチも減ってしまったのか。・・・それって。


「女性職員さんに一センチずつ分けたときに、自分も食べませんでしたか?」


「え?・・・ええ。ひとりで食べるのは気まずいじゃない?気を遣わせないように私も一緒に食べたのよ」


「じゃあ、女性職員ひとりにつき二センチずつなくなってしまうじゃありませんか?全部で十センチ減ったことになるので、計算は合っていますよ」


「そうなの?・・・残り十四・五センチを九人で分けると何センチずつになるのかしら?また計算しなおさないといけないわ」


「分け方は簡単ですよ。残った羊羹を半分に切り、それぞれをさらに半分に切り、さらに半分に切るんです。これで八等分になります」


「え?みんなで九人いるのよ。持って来た部長さんには羊羹を出さなくてもいいってこと?」


「いいえ。相良さんを除いた八人に一切れずつ出せばいいんです」


「私の分は?私は我慢しろって言うの?」


この人は本気なのか?と思ってしまった。


「相良さんはもう五センチ分ほど食べたじゃありませんか。もう十分でしょう」


ちなみに就職指導部の他の職員の取り分は、ひとり約一・八センチになる」


相良さんは納得しかねる顔をして、ぶつぶつ言いながら給湯室に戻って行った。


俺も反転して、帰宅することにした。・・・御手洗みたらいさんや相良さんとのやり取りで、無性に羊羹が食べたくなっていた。


しかし虎屋の羊羹は高級品だ。近くの駄菓子屋に子ども向けの羊羹が売られていたかな?と考えながら帰路についた。


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

御手洗達夫みたらいたつお 警視庁広報課長の中年男性。

岩井 幸(いわいさち) 杉田寿子の隣人。二十八歳の会社員。

杉田寿子すぎたひさこ 二十四歳の会社員。殺人事件の被害者。

高嵜 薫(たかさきかおる) 杉田寿子の隣人。二十二歳のベーシスト。

立花一樹たちばなかずき 明応大学医学部法医学教室の医師、法医学者。

一色千代子いっしきちよこ 明応大学文学部二年生。藤野美知子の女子高時代の同級生。

相良須美子さがらすみこ 秋花しゅうか女子大学就職指導部の事務員。


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