二十九話 (番外編)警視庁の迷はし神(一色千代子の事件簿三十七)
私、一色千代子は明応大学医学部法医学教室に立花一樹先生に会いに行った。前日に今日の夕方四時に来るよう頼まれていたからである。
ちなみに私と立花先生の関係は、『「五十年前のJK」アフターストーリーズ』を参照してほしい。今回の事件は、同作の『法医学実験連続殺人事件の再開』の直後に起こったものである。
私は予め教えられていた小会議室に入った。そこには立花先生のほかに二人の中年男性がいた。
「警視庁捜査一課の為永です」「同じく吉舎です」と二人があいさつした。
「彼女が一色さん。法医学教室の協力者で、今までにも数々の事件の捜査に協力してもらいました」と立花先生が私を紹介した。
「この二人がある殺人事件について僕たちの見解を聞きたいというんだ。先に司法解剖の記録の写しをもらって、検討していたところだよ」と私に言った。
「どんな事件ですか?」
私の問いに為永刑事が説明を始めた。あるアパートの自室で二十四歳の女性、杉田寿子が刺殺された。右胸を包丁で刺され、刃先が心臓まで達していたということで、死因は心臓刺創だった。玄関ドアが開いたままで、杉田は玄関側の台所と奥の和室の間で、胸に包丁が刺さったままうつ伏せで倒れていて、床に血だまりができていた。会社から帰るときに着ていた服のままで、帰宅直後に刺されたものと考えられた。
「まず我々が疑ったのが隣に住んでいる二十二歳の男性、高嵜 薫だ。こいつは定職に就かず一日中ベースギターを弾いていて、杉田さんからしょっちゅう文句を言われていた。左手に軍手をはめてベースギターを弾いているらしいが、軍手のもう片方が現場に落ちていて、指先が血に染まっていた」
「現場から指紋が検出されなかったので、我々は高嵜を任意でしょっぴき、自供させようとしていたら、広報課長から待ったがかかったんだ」と吉舎刑事。
「広報課長?・・・警視庁の広報課長が異議を唱えたんですか?」と私は聞き返した。
「犯人逮捕の発表をする予定で広報課長と詰めていたんだが、高嵜を犯人にする根拠がないとぬかしてきたんだ」
「根拠とは?」
「血がついた手袋を我々は凶器の包丁に指紋を残さないために犯人が右手にはめ、被害者の背後から手を伸ばして右胸に刺したんじゃないかと考えたんだが、広報課長が軍手の手首部分の裏にも表にも血がついていないのがおかしいと言ったんだ。犯人がはめていた軍手に血がついたとすると、中の指にも血がつく。その状態で普通に軍手をはずすと、手首部分の内側に血がつくだろうし、手首部分を持って反転させてはずすと、手首部分の内側に血はつかないが、その場合は軍手が裏返しになるはずだと言うんだ。確かに現場で発見された軍手は裏返しにはなっていなかった」
「なるほど。一理ありますね」
「最初に軍手を裏返しにしてはめたとすれば矛盾しないが、とにかく他の関係者も詳しく調べた方がいい、そして立花先生たちに相談した方がいいと言われたのだ」
「僕は警視庁の広報課長と面識はないけど、一色さんは知ってるかい?」と立花先生が私に聞いた。
「いいえ」と私は答えた。いつも事件の相談に来るのは島本刑事で、警視庁の人たちと直接関わったことはなかった。
「事件の関係者はほかにおられるのですか?」と私は刑事さんたちに聞いた。
「被害者の隣人・・・高嵜とは反対側の隣に住む二十八歳の岩井 幸という女性がいる。この女性が杉田と高嵜が騒音でもめていたと教えてくれたんだ」と為永刑事が答えた。
「事件が起こったときに岩井さんは何をしていたのですか?」
「自室で掃除機をかけていて、隣室の異変には気づかなかったと言っている」
「掃除機?・・・会社から帰宅した頃にですか?それこそ騒音で文句を言われそうなものですが」
「広報課長もそう指摘していたが、被害者とは良好な関係を築いていて、大目に見てもらっていたと言っていた」
「岩井さんは隣に住んでいること以外、被害者とは何の接点も・・・過去の確執などはなかったのですか?」
「調べた範囲では、岩井も高嵜も、隣に住んでいること以外、過去も現在も被害者との接点はなかった」
「なるほど。・・・騒音だけで人殺しまでするとは考えにくい。その意味からすると両隣の住人も、騒音問題でもめていたとしても殺人の動機は薄いというわけですね」
「そうだ。だから君たちには高嵜が犯人であることを示す手がかりをもらいたいと考えている」
「被害者の杉田さん自身は、他の人ともめたことはないのですか?」
「当初の捜査では何も浮かび上がらなかった。・・・ところが今回もう一度調べてみたら、男女関係でもめたことがあった」
「それはどういうもめごとですか?」
「被害者が勤務する会社の取引先で、婚約者がいる男性に被害者がちょっかいを出した。・・・男性の名は谷本裕紀、その婚約者の名は長野千尋で同じ会社に勤めている。二人とも二十代後半だ」
「そのもめごとは円満に収まったのですか?」
「先方の会社でいろいろもめたそうで、谷本と長野は婚約解消、谷本は地方の支社に飛ばされ、杉田との関係も切れたが、二人とも杉田を恨んでいるような言動があったらしい」
「なるほど。・・・騒音問題よりも根が深そうですね」
「この二人のアリバイを調べたところ、谷本は事件当日は会社で残業していて、杉田のアパートに来ることは不可能だった。長野は定時に退社したが、七時から友人とレストランで食事をしていた。友人とレストランのウエイトレスの証言も得ている」
「まったく関係のない犯人が帰宅途中の杉田さんの後を追い、ドアを開けたところを襲ったという可能性はありますか?」
「室内を漁った痕跡がないので、その可能性は低いと考えているし、高嵜本人が、アパートの廊下には誰もいなかったし、誰かが逃げて行った足音も聞こえなかったと言っているんだ」
「高嵜さんが犯人なら、誰かが逃げて行った足音を聞いたと嘘の証言をすれば捜査を攪乱できるのに、正直に答えたのですか?」
「最初に聞いたときに言った証言で、高嵜はまさか自分が容疑者になると思ってなかったから、嘘をつかなかっただけじゃないか?」と為永刑事が言った。
「立花先生は司法解剖の鑑定書を読まれて何か気がついたことはありませんでしたか?」と私は今度は立花先生に聞いた。
「右胸の刺創の傷口はひとつで、その大きさは凶器の包丁の刃のサイズと同程度だけど、右第六肋骨に突き刺さった後に、第六肋骨の上の右第五肋間から包丁が入って心臓をひと突きしている。つまり二回刺した痕跡があるね」
「犯人が右胸に刺して、肋骨に当たったので、軽く引いてからもう一度刺したということですか?」
「それが、傷口と肋骨に刺さった痕はほぼ同じ位置で、水平方向に刺したようだけど、心臓に刺さった傷は斜め上に突き上げるように刺さっているんだ。包丁を握った手を少し下げてから二回目を刺したと考えられなくもないけど、ちょっと刺した方向が違い過ぎるかな」
「と言われると、どういう状況が考えられますか?」
「まず誰かが右胸を包丁で刺す。肋骨に当たって止まるが、服と皮膚と乳房の組織を貫いているので犯人が手を離しても包丁は胸に刺さったままだった。いや、柄の方が垂れ下がる感じになるかな?その状態で前に転倒すると、床に当たって包丁の柄が押されて深く刺さる。・・・断定はできないけど、こういう状況も考えられる」
「なるほど。それだと犯人像が絞られてきますね」と私は言った。
「犯人は高嵜さんの軍手を持っていた可能性があります。凶器の包丁は持参せず、杉田さんの台所にあった包丁を使っている。これは自分の包丁を使うと、血痕が残って犯行がばれるのを恐れたためでしょう。血のついた包丁を水で洗っても、完全に血の痕跡を消すことはできませんから。そして杉田さんの包丁に自分の指紋を残さないために、高嵜さんの軍手をはめたのでしょう」
「ベンチジン試験を行えば、包丁を洗ったとしても血がついていた部分が検出できる。それだけでは凶器と断定できないけど、人血検査や血液型検査が可能なら、凶器と特定することができるだろうね」と立花先生。
「となると、どういう犯人像になるのかな?」と為永刑事が聞いた。
「まず、犯人は高嵜さんではありません。高嵜さんが犯人なら、自分の軍手を現場に残して行くはずがありません」
「うっかり落としたのかもしれないぞ」と為永刑事が異議を唱えた。
「それはうっかりすぎますね。わざわざ犯罪現場で軍手を脱がなくても、自分の部屋に戻って脱げばいいでしょうし」
「軍手に血がついたから、自分の部屋に持って帰りたくなかったのかもしれないぞ」
「最初に包丁を杉田さんに刺したときには、包丁は心臓まで刺さりませんでした。その場合は大量の血が噴き出すということはありませんよね、立花先生?」
「その通りだね。多少の血は出るかもしれないが、服を着たままだから返り血はほとんどなかっただろう。軍手には血がつかない」
「そして杉田さんの部屋にある包丁を使って凶行に及んだ。これは杉田さんの部屋に疑われることなく入ることができ、しかも包丁を借りることができる人物、つまり見知った女性の可能性が高いと思われます」
「女性?話に出てきた女性は、隣人の岩井さんと、婚約を破棄させられた長野さんしかいないけど?」
「この二人しかいないとすれば、婚約破棄で恨みを買った長野さんにはアリバイがあるので、実行犯である可能性は低いでしょうね」
「じゃあ、岩井さんが犯人と言うのか?動機は?」と吉舎刑事が聞き返した。
「今までの話を聞いただけでは動機まではわかりません。ただ、高嵜さんの証言を信用するなら、犯人は岩井さんしかあり得ません」
「なぜだ?」と首をひねる為永刑事と吉舎刑事。
「アパートの共用廊下が鉄製だと、走れば足音がけっこう響きます。高嵜さんは悲鳴を聞いた後、しばらく耳を澄ませていたそうですが、そのような足音は聞いていません。ということは、犯人はアパートから出ていないということになります」
「高嵜が犯人でなければ岩井が一番怪しいか・・・」
「一色さん、君が考えた犯行時の状況を教えてくれ」と立花先生が言った。
「まず、杉田さんが帰宅します。ドアが閉まる音を聞いてすぐに隣室の岩井さんが杉田さんを訪問します。手みやげを持って。そして杉田さんに包丁を貸してほしいと頼むのです」
「手みやげなら、杉田さんが受け取ってお礼を言っておしまいじゃないのか?なぜそこで包丁を借りる必要があるんだ?必要がなければ怪しまれるだろう」
「それは例えばですね、ロールケーキを一本持って行って、『切り分けるから一緒に食べましょう』とか言うんです。杉田さんが『ありがとう』と言って包丁を出すと、岩井さんはロールケーキを置き、杉田さんに背中を向けて手元を隠しながら右手に軍手をはめ、柄についたかもしれない自分の指紋をハンカチか何かで拭き取ってから、突然振り返って杉田さんを包丁で刺したのです。・・・杉田さんは右手で包丁を手渡したので、右胸が岩井さんに近くにあったのでしょう。ですから、利き手に関係なく、杉田さんの右胸に包丁が刺さったのだと思われます」
「しかし包丁は肋骨に当たって深く刺さらなかった・・・」
「驚いた杉田さんは部屋の奥に逃げようと向きを変えます。そのとき、足がもつれるなどして前のめりに転倒すると・・・」
「勢いよく転倒した杉田さんに刺さっていた包丁の柄が床に当たって、右胸に深く押し込まれた、ということか」と立花先生が言った。
「犯人の岩井さんは、高嵜さんの犯行と見せかけるため軍手を脱いで床に落とした。たまたま床の血だまりに触れて、指先が血に染まったのでしょう」
「そしてそっと自室に帰り、掃除機をかけて気づかないふりをしたということか」
「辻褄は合うが、証拠がない。動機もわからない」と渋る為永刑事。
「杉田さんが自分で転倒したとすると、それは岩井さんにも意外なことだったのでしょう。倒れ、床に血だまりが広がるのを見て、岩井さんは動転したはずです。・・・あ、そうか!」と私は思わず叫んだ。
「どうしたんだい、一色さん?」と聞く立花先生。
「岩井さんが高嵜さんの軍手を現場に残したとすると、高嵜さんに罪をなすり付けようとしたはずです。しかし高嵜さんが隣の自室にいなければ、罪をなすりつけることはできません。高嵜さんが自室にいることは、高嵜さんの部屋からベースを弾く音が聞こえていることで確認できます。しかし犯行時に高嵜さんがベースを弾いていなかったら、杉田さんが悲鳴を上げたのに気がついて演奏をやめたのではないかと普通は考えるでしょう。高嵜さんが様子を見に出て来る前に岩井さんは自室に戻って身を隠さないといけません」
「つまり、岩井さんは後のことを考えず、あわてて自室に戻ったというわけか」
「そうです。杉田さんが本当に死亡したのか確かめる間もなく、自室に戻ったのでしょう。そしてアリバイ工作のつもりか、自分ちの掃除機の電源を入れます。そして高嵜さんが倒れている杉田さんに気づいて、電話をかけるためにあわててアパートを出て行ったときの足音を耳にすると、高嵜さんが帰って来る前に杉田さんの部屋に戻って、杉田さんの死亡を確認するとともに、自分の痕跡を消したはずです」
「痕跡とは何だ?」と為永刑事が聞いてきた。
「持って来たロールケーキの回収です。ロールケーキとその包み紙などが残っていれば、どの店で買ったかがわかり、そこに岩井さんが買いに行ったことを警察が調べ上げるかもしれませんから」
「となると、もう証拠は残っていないというわけか。今さら岩井がどこかの店で事件当日にロールケーキを買ったと調べ上げても、事件との関係が証明できない」
「ロールケーキを切ろうとした痕跡、つまり、まな板や包装紙の一部などが現場にありませんでしたか?」
「そう言えば・・・」と為永刑事は言って捜査情報を書き込んだ手帳を開いた。
「まな板は台所の流しの横に置いてあった。もともとそこにまな板と包丁が起きっぱなしになっていて、それを見つけた高嵜が包丁を取ったと思っていたが・・・」
「為永さん、確か流しに羊羹を包む銀紙の端が落ちていましたよね?銀紙のほかの部分も羊羹自体もどこにもなかったので妙だと思っていましたが、岩井が持って来たのはロールケーキでなく、羊羹だったのでは!?」と吉舎刑事が叫んだ。
登場人物
一色千代子 明応大学文学部二年生。藤野美知子の女子高時代の同級生。
立花一樹 明応大学医学部法医学教室の医師、法医学者。
為永大輔 警視庁捜査一課の刑事。中年男性。
吉舎憲昭 警視庁捜査一課の刑事。中年男性。
杉田寿子 二十四歳の会社員。殺人事件の被害者。
高嵜 薫 杉田寿子の隣人。二十二歳のベーシスト。殺人事件の容疑者。
島本長治 警視庁下の警察署の刑事課強行犯係の中年刑事。
岩井 幸 杉田寿子の隣人。二十八歳の会社員。
谷本裕紀 杉田が懸想した取引先の会社員。二十代後半。
長野千尋 谷本の元婚約者。二十代後半。
洋菓子情報
スイスロール(日本初の市販ロールケーキ)/山崎製パン(1958年頃発売)
虎屋の羊菱/1635年には発売していたとの記録あり。




