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二十八話 警視庁の迷はし神(美知子の妖怪捕物帳・参拾壱)

「ところで、藤野さんにはもうひとつ相談したいことがあるんだが・・・」と御手洗みたらいさんが言い出した。


「まさか、また別の犯罪事件じゃないでしょうね?」と俺が聞き返すと、


「実はそうなんだ。・・・いや、事件自体は容疑者がわかっているんだ」と御手洗みたらいさんが答えたとき、俺たちは帰宅するクラスメイトの視線を集めているのに気がついた。


「ここじゃなんだから、近くの喫茶店にでも入ろうか?」


「わかりました。荷物を取って来ますので、正門のところで待っていてください」


俺は御手洗みたらいさんと合流すると、最寄りの駅近くの純喫茶に入った。奥まった席に二人向かい合わせで座る。俺たちは二人ともホットコーヒーを頼んだ。


「さて、相談事なんだが」と御手洗みたらいさんはコーヒーに砂糖とミルクを入れて混ぜながら話し始めた。


「まず、事件の概要から話そう。個人名や事件名はぼかすけど、数か月前にある若い女性が殺された。その女性は会社員で、アパートにひとり住まいしていたんだが、帰宅直後に右胸を包丁で刺されて自室内で死亡した。帰宅直後と考えられたのは、会社から帰るときの服装のままだったからだ」


「事件が発見されたのはいつですか?」


「その直後だよ。隣に住んでいる男性が悲鳴と誰かが倒れたような物音を聞いたので部屋の外に出たところ、女性宅のドアが開いていた。男性が部屋の中をのぞきこんだら女性が血まみれで倒れていて、すぐに一一九番通報したと言っている。しかし女性は既に死亡しており、駆けつけた救急隊がすぐに警察に通報した」


「物取りか性犯罪者の犯行なのでしょうか?」


「いや、財布などの金品は残されたままで荒らされた形跡はないし、強姦されようとした痕跡もなかった。そこで恨みによる犯行じゃないかと刑事たちは考えた」


「なるほど」


「で、女性の交友関係を精力的に調べたんだが、恋人はいないし、仲の悪い友人・知人もいなかった。会社内でもトラブルはなく、まじめな社員だと思われていた」


「恨んでいる人がいなかったのですか?」


「いや、ひとりだけいた。発見者の男性だ。男性はときどき家でベースギターを弾いていて、被害者の女性によく文句を言われていたそうだ」


「騒音トラブルですか?」


「男性はフォークソングのバンドに入っていて、まもなく出演する予定だったので、文句を言われるのを覚悟で朝六時頃から夜九時頃までずっと練習をしていたそうだ」


「女性から何度も文句が来たので、練習の邪魔になる女性をその男性が排除しようとした、というのが動機ですか?その動機には無理がありませんか?」


「我々警察もそれで完全に納得したわけじゃなかったが、犯罪現場となった部屋に血まみれの軍手が片方だけ落ちていたんだ。指紋は検出できなかったが、もう片方の軍手が男性の部屋から発見された。そちらには血はついていなかったようだが」


「軍手ですか?」


「薄手の軍手で被害者の血がべったりと付いていた。凶器の包丁は女性宅にあったもので、柄からは犯人の指紋は検出されなかったので、この軍手をはめて包丁で刺したと捜査一課では考えている」


「先ほど被害者は右胸を刺されて死亡していたとおっしゃられましたが?」


「ああ、女性の胸の中央のやや右側を、右前方から左後方に向けて包丁で刺されていて、司法解剖したら心臓まで突き刺さっていた。これが死因だそうだ」


「犯人と被害者が対面していたとすれば、犯人は軍手をはめた左手で包丁を握って刺したのでしょうか?・・・その軍手は隣人男性のもので間違いないのですね?」


「隣人男性は弦を押さえる指を保護するために購入し、左手だけ軍手をつけてベースの練習をしていたそうだ。右手用の軍手は使っておらず、いつの間にかなくなったと言い訳しているが、女性宅で見つかったのと同じものだと本人も認めている」


「右手用ですか?」


「そうなんだ。だから捜査一課では、被害女性が隣人男性に文句を言いに行った後、自分の部屋に入ろうとしたときに右手に軍手をはめた男性が押し入り、背後から左手で女性の口を塞ぎ、玄関ドア横の台所に置いてあった女性の包丁を右手につかみ、女性の背後から右手を前に伸ばして女性の右胸を刺したんじゃないかと推理している。この殺し方だと犯人は右手にしか返り血を浴びないので、軍手をその場に捨てれば殺害の痕跡が残らない」


「それはおかしいですね」と俺が言ったら、「え?」と御手洗みたらいさんは驚いた。


「帰宅時に隣人男性が出て来たら若い女性なら警戒します。帰宅直後に文句を言いに行ったのかもしれませんが、怒った男性に後を追われないよう、速やかに自室に入ってドアの鍵を閉めますよ」


「それは・・・女性の虚を突いたのかもしれないんじゃないか?」


「その男性が凶器に指紋を残さないよう右手に軍手をはめたとすると、明らかに計画的ですよね。それなのに凶器の包丁を女性宅で入手しています。なぜそんな行き当たりばったりなことをしたのでしょうか?行動に矛盾がありますよ。第一、女性の口を塞ぎながらどうやって包丁を取ったのでしょうか?ドアのすぐそばの手が届くところに都合よく包丁が置いてあったのでしょうか?」


「そ、それは隣人男性が緊張して凶器を持って来るのを忘れ、無理矢理押し入って女性の口を塞いだら、たまたま近くに包丁があって・・・と、偶然が重なったのかもしれないよ」


「ほかに証拠があるならともかく、そんなガバガバな推理で犯人扱いされたらたまりませんよ。ほかに何か隣人男性が犯人だと示す証拠はあったのですか?」


「いや、被害女性宅に隣人男性の指紋や遺留物はなかった」


「第一、騒音トラブルでもめていたとしても、普通は文句を言った女性を殺害しようなんて考えないでしょう?」


「殺人犯が常識的な考えをするとは限らないよ。・・・捜査一課の刑事たちは現場で隣人男性が怪しいと考えた。いわゆる刑事の勘ってやつだね。決定的な証拠が乏しいので、任意で勾留して自白を得ようと取調べをしているところなんだ」


「この事件で刑事の勘が正しいかまだわかりません。それよりも最初に思いついたストーリーに固執して客観的な判断ができず、矛盾する証拠を無視するか曲解しそうで怖いです」


こんな捜査が日常的に行われているとしたら、捜査官は人を惑わすという迷はし神(まよわしがみ)に取り憑かれているのではないだろうか?


「ところで、広報課長である御手洗みたらいさんがこの事件についての意見をなぜ私に聞かれるのですか?」


「捜査一課の方ではその男性を逮捕して発表したいので、その準備を頼まれたんだ。しかし藤野さんが思ったように、もし真犯人が別にいて、後で発覚すれば警視庁の汚点になるからね、僕はもう少し慎重にと伝えた。同時に、藤野さんに相談すれば何か参考になることが聞けるかもと思ったんだ」


「なるほど。・・・被害女性とその男性がもめていることは誰が証言したのですか?」


「被害女性の隣の部屋・・・男性とは反対側に住む女性の証言なんだ。その女性は被害女性と懇意にしていて、騒音トラブルのことについても聞いていたらしい」


「その証言者の女性は事件が起こったときに自宅にいなかったのですか?男性の証言が事実なら、悲鳴と倒れた音がその女性にも聞こえたはずですが」


「事件が起こったと思われる時間には自室で掃除機をかけていて、騒音には気づかなかったそうだ」


「え?・・・被害女性が殺されたと思われるのは何時頃ですか?」


「夜八時頃だ」


「夜八時?掃除機をかけるには遅い時間に思われますが?・・・被害女性が生きていたら、この女性も掃除機の音がうるさいと文句を言われそうです」


「その女性もひとり暮らしで、帰宅してから掃除することがあるので、被害女性にはときどき手みやげを渡して謝罪していたというんだ。関係は良好だったと言っている」


「それがほんとうだとしたら、女性どうしですから被害女性の家に警戒されずに入れたのかもしれないですね。そして料理の手伝いをしつつ包丁の場所を確認したり・・・」


「ふ、藤野さんはその隣の女性が犯人だと言うのかい?」


「そこまではわかりません。ただ、隣人男性よりも犯行が容易だったでしょうねとしか言えません。いずれにしても、騒音トラブルで、騒音を出した方が殺人まで犯すのか、やっぱり納得しかねます。被害女性と両隣の住人との間に、ほかの接点はなかったのでしょうか?」


「隣人男性との接点はそのアパートに転居した後しかなさそうだった。もうひとりの女性については何も聞いていない」


「調べてないのかもしれませんね。・・・あと、右手用の軍手が殺害に使われたとおっしゃられましたが、軍手に左右の違いはありません。左手にはめていたのかもしれませんし、隣人男性がなくしたのは左手にはめて使っていた方の軍手で、最近は残った軍手を左手にはめて演奏していたのかもしれません」


「なるほど。・・・捜査一課の刑事たちには、安直に結論を出さず、慎重に捜査の手を広げるよう進言しておくよ」と言ってから御手洗みたらいさんの顔が曇った。


「・・・しかし、刑事たちが素直にこちらの言い分を認めてくれるかなあ?」


「もっと核心を突くような決め手が必要ですか?」


「そういうこと。刑事たちは偶然の積み重ねのような犯行状況でも、あり得ないことではないと言い張るかもしれないからね」


「そうかもしれませんね。なら、犯行時の状況、特に隣人男性の証言をもう少し詳しく教えてもらえますか?」


「わかった。報道用資料を作るために手帳にメモしてあるんだ」と言って御手洗みたらいさんは背広の内ポケットからメモ帳を出した。


「隣人男性はその日も一日中ベースの練習をしていた。夜八時頃にたまたま台所・・・玄関ドアのすぐ横にある流し台のところで水を飲んでいたら、隣の部屋のドアの鍵が開く音が聞こえた。男性はしばらく立ったままで聞き耳を立てていたそうだ」


「女性が帰宅したときには演奏していなかったのですね?」


「本人はそう言っている。刑事たちは嘘だと決めつけているが・・・。男性がベースを置いている奥の部屋にこっそりと移動するときにドアが開く音がもういちどして、話し声が聞こえたそうだ。誰が話していたのか、男性なのか女性なのかもわからなかったらしい」


「喧嘩していたような声でしたか?」


「普通の話し声のようだったと言っている。その直後、短い悲鳴と人が倒れるような音が聞こえたので、男性はおそるおそる玄関の外に出てアパートの共用廊下を見渡したそうだ」


「その男性は誰かを見ましたか?」


「いや、誰も見なかったと言っている。ただ、悲鳴が聞こえた後もしばらく聞き耳を立てていて、ドアの外に出たのは数分以上経ってからだそうだ」


「犯人が逃走する時間的余裕があったわけですね?」


「共用廊下は鉄製で、人が走れば足音が響くんだが、そんな音は聞こえなかったと男性は言っている」


「隣の隣に住む女性が掃除機をかけている音は聞こえていましたか?」


「男性が被害女性の部屋をのぞき込んだときにかすかに聞こえていたそうだ」


「被害女性の部屋をのぞき込んだときにすぐに被害女性が倒れているのに気がついたのですね?玄関ドアに触ったり、室内に入ったりはしてないのですね?」


「ああ。開いていたドアから中をのぞき込んだときに、女性が玄関そばの台所と奥の部屋の間でうつ伏せで倒れていて、床に血が広がっていたそうだ。一目で異常事態とわかり、すぐに近所の公衆電話まで一一九番通報しに走り去ったそうだ」


「うつ伏せだと凶器の包丁は見えなかったのでしょうか?軍手はどうでしたか?」


「包丁は見ていない、軍手には気づかなかったと言っている」


「警察が調べたとき、右胸に包丁が刺さったままでしたか?軍手はどこに落ちていましたか?」


「まず救急隊が駆けつけ、女性を抱き起こしたときに包丁が刺さったままだったと供述している。軍手は床に落ちていたが、女性の体の下か横か、はたまた別のところにあったのか、救急隊も覚えてなかった」


「軍手の状態は?」


「指先から指の付け根まで、軍手の表も裏も血がべっとり付いていて、表と裏が貼り付いていた。手首の部分には表面も内側も血が付いていなかった」


「軍手は裏返っていませんでしたか?裏になっていれば、指の部分が反転しているか、指先の縫い目や縫い代が見えたはずですが」


「写真を見たが、反転していたり、裏返っていたことはなかったと思う」


「それじゃあその軍手は包丁を刺すときに使われていませんね」


「え?なぜだい?」


「軍手を脱ぐときには、普通は軍手の指先を引っ張るなどして手を引き抜くので裏返りません。しかし指先から指の根元あたりまで返り血がべったりついていたとすると、内側に浸みて指にも血がつきますから、指先を引っ張って軍手を脱ぐと指についた血が軍手の手首部分の内側につきます。指先を引っ張らないなら、軍手をはめていない方の手で軍手の手首部分をつかみ、裏返すようにして軍手を剥ぎ取る必要があります」


「なるほど。唯一の証拠らしい軍手の証拠能力が疑わしいか・・・」


「今の私ではそれ以上の助言はできかねますので、事件解明が得意な人を紹介します」


「誰だい?」


「明応大学医学部法医学教室の立花先生と一色さんという女性です。私に聞くよりもっと的確に謎を解いてくれますよ」


「わかった。そのことも伝えておこう。今日は本当にありがとう」御手洗みたらいさんは頭を下げると、コーヒー代を払って帰って行った。


二、三日後、その一週間前に起こった女性刺殺事件について容疑者が逮捕されたとの報道があった。御手洗みたらいさんは最初「数か月前の事件」と言っていたが、それはどの事件かをはぐらかせるための嘘だったのだろう。


容疑者の名前は男性名とも女性名とも取れるもので、個人名を聞いていなかった俺には誰が逮捕されたのかわからなかった。今度一色に会ったら話を聞かせてもらおう。


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

御手洗達夫みたらいたつお 警視庁広報課長の中年男性。

立花一樹たちばなかずき 明応大学医学部法医学教室の医師、法医学者。

一色千代子いっしきちよこ 美知子の女子高時代の同級生。明応大学文学部二年生。


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いつも楽しく読ませていただいてます。 これからのご活躍を祈願しております。
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