二十七話 警視庁の闇
「た、大変です、課長!山本先輩が倒れました!」会議室に飛び込んできた弓原さんが叫んだ。
「何だって、山本くんが?すぐに行く!・・・嶋田さんは藤野さんとここにいてくれ!」御手洗さんはそう言い残すと弓原さんと一緒に慌ただしく会議室を出て行った。部屋に取り残される俺と嶋田さん。
「山本くんは弓原くんの二年先輩の課員なの。突然倒れたなんて、何か持病を持っていたのかしら?」と困惑する嶋田さん。
「それはともかく、藤野さんはさっき『弓原くんの気を引くための三田さんの狂言の可能性』とか言ってたわよね?あれはどういう意味?」
「それはそのままの意味ですけど。・・・要するに、弓原さんは三田さんに嫌われていると思っていますが、実際は逆で、三田さんは弓原さんに一目惚れをしていて、自分の方を振り向いてくれない弓原さんに変な現象が起こっていると相談することで仲良くなろうとしていると思ったのです」
「そうなの?普段からあの二人のことを見ているけど、とてもそうとは思えないわ」
「自分の水筒の蓋を弓原さんに渡して中の紅茶を飲んでもらおうとしたんですよね?自分が口をつけたであろうものを嫌いな人に渡して口をつけてと頼むでしょうか?」
「確かに、後で洗うにしてもちょっと嫌よね。それで本当は気があると思ったのね?」
「あくまで可能性のひとつです。私はお二人のことをよく知りませんから」
「それから御手洗課長に何か言いかけていたでしょう?何を言おうとしていたの?」
「はい。これも可能性のひとつで、どちらかと言うと可能性は低いと思いますが、三田さんは本当に弓原さんが嫌いで、それどころか恨んでいて、嫌がらせで紅茶に異物を混ぜて飲ませようとしたのではないかと考えました」
「・・・それは確かに可能性は低いわね。三田さんが弓原くんのことを生理的に嫌っているとしても、恨んで変なものを飲ませようとまでするのかしら?第一、水筒の紅茶は三田さん自身も飲むじゃない?」
「粉末状の薬物、あるいは毒物を蓋の中の紅茶に混ぜて手渡したのかもしれません」
「怖い話になってきたわね。でも、以前弓原くんが三田さんの紅茶を飲んだときには何も異変を感じなかったようだけど?」
「そのときはテストで、本当に飲んでもらえるか試しただけなのかも。うまくいったので、次回は本当に毒を混ぜて飲ませようとするのかもしれません」
「それでさっき弓原くんに『紅茶を口にしない方がいい』と言ったのね」
「はい。考え過ぎだとは思いますが」
そのとき弓原さんが会議室に入って来た。
「山本くんはどうだったの?」と嶋田さんが聞いた。
「じ、実は、話に聞いたところでは僕がこの部屋から帰る前に三田さんから預かっていた紅茶を、山本先輩が一気に飲んだそうです。とたんに血とともに紅茶を吐き出して、昏倒したんです!」
弓原さんの説明に俺と嶋田さんは顔を見合わせた。
「や、山本くんは大丈夫なの!?」
「すぐに医務室に運ばれ、それから救急車で病院に搬送されました!死なないと思いますが心配です!」
「御手洗課長は?病院に付き添ったの?」
「紅茶に毒が混入されている可能性が考えられたので、刑事と鑑識を呼んで調べてもらう手配をしてから病院に向かいました」
「そうなの・・・」嶋田さんは脱力したように言った。
「藤野さんが危惧した通りになったわね」と嶋田さんが言うと、弓原さんはわけのわからない顔をした。
「弓原さん、あなたは三田さんに恨まれるようなことを何かしましたか?」と俺は弓原さんに単刀直入に聞いた。
「え?僕ですか?・・・さっき言ったように初対面で三田さんに嫌われた気がしたので、こちらから積極的に関わるようなことは避けてきましたが」
「つまり、恨まれるようなことをした覚えはないのですね?」
「はい・・・」
「三田さん以外の人にひどく恨まれるようなことはありませんか?・・・不躾な質問ですが、心当たりがあればどうか正直にお答えください」
「何でそんなことを君に・・・」と弓原さんは言いかけたが、俺が御手洗さんに呼ばれてきたことを思い出したのか、俺をまっすぐ見て話し始めた。
「今まで他人にひどく恨まれるようなことをした覚えは一切ありません。三田さんを含めて。・・・ただ、五、六年前から家の玄関先に動物の死骸が置かれることがたまにあって、母が気味悪がっていました」
「あなたのお母さんか、お父さんが誰かに恨まれていたということは?」
「父のことはわかりませんが、母は『誰がこんなことをしているのかしら?子どもの悪戯?』と途方に暮れていたので、恨まれる心当たりはないように思います」
「そうですか。失礼なことを聞いて申し訳ありません」と俺は謝った。
「弓原くんはもう戻っていいけど、御手洗課長は藤野さんのことについて何か言ってなかった?」と嶋田さんが聞いた。
「いえ、課長もそれどころではなかったようで、何も聞いてません」
「わかったわ。ありがとう」嶋田さんがお礼を言うと弓原さんは頭を下げてから部屋を出て行った。
「あなたの悪い予想が当たったようね。・・・三田さんが毒入りの紅茶を弓原くんに手渡したのかしら?」
「それは何とも言えません。三田さんに毒を飲ませるために、誰か別の人が紅茶に入れたのかもしれません」
「そこは刑事さんに任せるしかないわね。一応本職だからね」
「そうですね。きっと犯人を見つけてくれることでしょう」
「・・・仮に三田さんが犯人として、なぜ弓原くんに毒を飲ませようとするのかしら?」と嶋田さんがさらに追求してきた。
「殺したいほどの恨みがないとすれば、金銭関係かもしれません」
「金銭関係?」
「例えば遺産とか。・・・弓原さんと三田さんの血縁関係を調べてみる必要があるのかもしれません」
「弓原くんと三田さんに血縁関係があると言うの?」
「弓原さんと三田さんの下の名前をお知りでしたら教えてください」
「三田さんは美しい都の子と書いて美都子と読むわ。弓原くんは確か、曉の都と書いて曉都だったかしら?」
「お二人ともお名前に都という漢字が入るのですね?」
「そうだけど」
「ひょっとしたら名付け親、例えば父親が同じ人なのかもしれません」
「弓原くんが三田さんの父親の子ってこと?弓原くんは父親がいないって話だったけど、三田さんの父親の庶子なのかしら?」
庶子とは婚外子、つまり妻以外の女性に産ませた子どもという意味だ。「今のところは何ともわかりません」としか俺には言えなかった。
「話は変わりますが、警視総監のお名前は波多野隼人でしたね?」
「そうだけど、それが何か関係があるの?」
嶋田さんは三田さんが波多野警視総監の子どもであることを知らない。
「いえ、名前繋がりで思い出しただけです。隼人というと薩摩隼人を思い出しますが、警視総監は鹿児島出身なのですか?」
「ご先祖が薩摩藩士だって話は聞いたことがあるけれど、警視総監ご自身は東京出身のはずよ。『俺はちゃきちゃきの江戸っ子だ』って地方出身者に自慢しているわね」
『三代続けば江戸っ子』という言葉がある。警視総監の曾祖父あたりが鹿児島から東京に出て来たのかな?東京都出身を自慢しているのなら、娘に美しい都と名付けてもおかしくはない。弓原さんの名前に都の字が入っているのは偶然かな?
そんな話をしていると御手洗さんが戻って来た。はあはあと息を切らせている。
「藤野さん、待たせて申し訳なかったね」
「いえ、大変なことが起こったようで、お疲れ様でした」
「弓原くんに聞いたと思うが、三田さんの紅茶を飲んだ山本くんが倒れてね。毒を飲んだ可能性があるので病院で胃洗浄をしてもらい、一命を取り留めた。三田さんを狙った事件の可能性があるので、警視庁をあげて捜査する予定だよ」
「そのことですが」と嶋田さんが言った。「藤野さんが、弓原くんと三田さんに血縁関係がないか調べた方がよいといわれました」
「はあ!?」驚く御手洗さん。
「念のためですよ。・・・もし犯人がいるとしたら、三田さんだけでなく弓原さんも狙ったのかもしれません」
「そ、そうか・・・。ついでに山本くんの出自も調べておこう」
「山本さんの下の名前は?」
「なぜそんなことを聞くのかね?」
「後で説明しますわ」と嶋田さんが口をはさんだ。「山本さんの名前は幸三だったはず。幸に三と書きます」
「何の関係があるのかわからないが、藤野さん、今日はありがとう。いろいろお話を聞けて助かりました」
御手洗さんがそう言うと、嶋田さんが封筒と領収書を差し出してきた。
「今日の交通費と薄謝が入ってます。領収書に捺印をお願いします」
「わかりました」俺は事前に言われて持って来ていたハンコを押した。
封筒の中身は五千円だった。俺は二人にお礼を言い、正門まで案内してもらって帰宅した。
それから一週間経った頃、俺が講義室にいると就職指導部の相良さんが入って来た。
「藤野さんはいますか?」と大きな声で尋ねる相良さん。
「はい!」と俺が答えて講義室の入口に向かうと、相良さんの後に御手洗さんがいるのに気づいた。
「こちらの方があなたにお話があるそうよ」と告げて相良さんは帰って行った。
「すまないね、藤野さん。どこか、二人で話せるところはないかな?」と聞く御手洗さん。
大学や短大の個室をいきなり借りることはできないので、俺は御手洗さんを中庭のベンチに誘った。個室ではないが、近くに人がいなければ話を聞かれる心配はないだろう。
「先日はありがとう。お話は大変参考になりました」
「どういたしまして。わざわざそれを言いに来られたのですか?」
「いや、実は山本くんが毒を盛られた事件の真相がわかったんだ」と御手洗さんは急に小声になって話し出した。
「藤野さんも少しは関係したので事の次第を説明しておくが、誰にも話さないと約束してほしい」
「わかりました。親兄弟にも友人にも一言も話しません」と俺は誓った。
「君の助言を受けて弓原くんの父親を調べたら、波多野警視総監であることがわかった」
「そうですか」
「三田さんの母親が三田さんを妊娠しているとき、警視総監は弓原くんの母親とも交際していたらしい。それを知っていた三田さんの母親は思い悩み、それが原因かわからないが三田さんを産んでからすぐに亡くなった。三田さんは三田家に引き取られていたが、高校生のときに養父母から実父のことと、弓原くんの母親のことを聞いたそうだ」
「それで恨んだのですね?」
「嶋田さんから聞いたが、弓原くんの家の前に動物の死骸などを置いたのも三田さんの仕業だった。そして大学を卒業した後、実父である警視総監の伝手で警視庁に入職したら、たまたま同じ広報課の隣の席になったのが弓原くんだった。三田さんは直接会ってはいないが弓原くんのことを知っていて、母親の仇に出会ったのは天の配剤だと確信した。つまり、私物が動いていると弓原くんに相談しながら、毒を飲ます機会を伺っていたそうだ」
「弓原さんは三田さんのことを知らなかったのですか?」
「警視総監は金を出す代わりに息子に自分のことを話すなと弓原くんの母親と約束したので、弓原くん自身はほんとうに自分が警視総監の子だとは知らなかったそうだ。僕も人事の連中も警視総監から弓原くんのことは何も聞かされていなかったから、三田さんと同じ課に配属され、隣どうしの席になったのはまったくの偶然だよ」
「三田さんは逮捕されたのですか?」
「いや、警視総監が裏で手を回して事件にはせず、三田さんには一身上の都合で退職してもらったよ。弓原くんは未だ真相を知らず、山本くんは総務部長から言い含められた」
こういう風に事件は闇に葬られるのか。いや、俺も何も知らないことにしよう。触らぬ神に祟りなし、だ。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
山本幸三 警視庁広報課員の男性。
弓原暁都 警視庁広報課員の若い男性。
御手洗達夫 警視庁広報課長の中年男性。
嶋田浜江 警視庁広報課員の中年女性。
三田美都子 警視庁広報課員の若い女性。
波多野隼人 警視総監(名前だけ登場)。
相良須美子 秋花女子大学就職指導部の事務員。




