二十四話 天狗・子取り・隠し神(美知子の妖怪捕物帳・弐拾玖)
明子さんが狙われた事件は終わっていた。別の女性の殺人という結末を迎えて。防ぐことはできなかったのだろうかと考えてしまう。だが神ならぬ身だ。事前に相談されなかったことに対してはなすすべがない。
「あの、このお嬢さんにお聞きしたことがあるのですが、よろしいでしょうか?」と高橋明子さんが言った。
「なんだい?また妙な客がいたのかな?」と金成食堂部門長が聞いた。
「いえ、食通のお嬢様にお聞きしたい料理名があるのですが・・・」
「藤野さん、彼女の質問に答えてもらえるかな?」と社長が聞いた。
「はい。私にわかることでしたら」
「それでは、『にゃんま』というお料理をご存知ですか?」と明子さん。
「にゃんま?・・・聞いたことがありませんが、それは外国料理ですか?」と俺は聞き返した。
「それはわかりませんが、小さなお子様が言った言葉ですので、幼児語かもしれません」
「そのお子様が話したときの様子・・・会話の流れとか、覚えておいででしたら教えてもらえますか?」
「はい。実はお昼前に子ども連れの男女が大食堂に参りました。私が水を出して半券を取ろうとしたときに、三歳ぐらいのその子どもが私に『にゃんまはありませんか?』と聞いてきたのです」
「三歳くらいですか。・・・そのご家庭でのみ使われている幼児語かもしれません。一緒にいた大人は何か言われましたか?」
「はい。お子様の言葉を聞いてすぐに女性が、『ケンちゃん、帰ったら食べさせてあげるから、ここでそんなものはねだりなさんな』と嗜めました」
「自宅で食べられるものなのですね」
「にゃんま・・・。ひょっとしたら、メンマのことかな?」と金成食堂部門長が口をはさんだ。
「メンマとは何だ?」と社長が聞いてきた。
「筍を発酵させて塩漬けにした食品ですよ。ラーメンの上に載せる具です」
「ああ、支那竹のことか。・・・今はメンマというのか?」
「社長、支那という言葉は差別語だと台湾から文句が出て、今は支那という言葉を使わない流れになっています」と平営業部長が説明した。
支那という言葉はチャイナから来ているので、本来は差別語ではないが、戦前の日本人が差別的に用いたのだろう。
「メンマは麻竹から作られ、主にラーメンの上に載せるので、ラーメンのメンと麻竹のマから名づけられたそうです」と金成食堂部門長が説明した。
「桃屋が『味付けメンマ』という食品を発売して、今やメンマという言葉が定着しつつあります。ちなみに『味付けメンマ』は地下の食品売り場で売っています」
「でも、お子様がメンマだけを欲しがるということがあるでしょうか?」と明子さんが疑問を呈した。
「そうですね。にゃんま、ですか?・・・にゃんを猫の鳴き声と解釈すれば、にゃんまとはネコマンマのことのように思われますが」と俺は言った。
「ネコマンマ?ご飯の上に削り節を載せたやつか?・・・貧乏臭いな。そんなものを子どもに食べさせている親は、そうとう貧しいのだな」と社長が言った。
「いえ、そのお子様と一緒にいた男女は、お二人とも三十前後でしょうか?男性はぱりっとした三つ揃いの背広を着ておられ、女性の方も高価そうなドレスを着て、化粧も濃く、クローシェ帽をかぶり、戦前のモダンガールのような出で立ちでしたので、貧しいようには見えませんでしたが」
「子どもはどんな格好でしたか?」と俺は聞いた。
「白いシャツと青い半ズボンで、仕立てのよさそうな服装でしたが、服にはしわと汚れが目立っていました」
「明子さんの話し振りから察するに、その男女と子どもは親子ではないように思われますが?」
「はい。その男女は立派な服を着ていらしたのに、口ぶりはちょっと下卑た感じでした。それに対しお子様は幼いながらも丁寧な言葉遣いで、あの男女に育てられたとは思えませんでした」
「その男女と子どもの会話をできるだけ教えてもらえませんか?」
「はい。お子様が『にゃんまはありませんか?』と聞き、女性が『ケンちゃん、帰ったら食べさせてあげるから、ここでそんなものはねだりなさんな』と嗜めた後で、『ゆうべのにゃんまがとてもおいしかった。またたべたい』というようなことをお子様が言い、『また食べさせてあげるから、今日はお子様ランチを食べな』と女性が言いました」
「その子は前の日に初めてネコマンマを食べたような口ぶりですね?ほかに会話の内容で覚えていることはありませんか?」
「私はビフテキとライスのセットを二つと、お子様ランチの半券を取りましたが、去り際に男性が『もうじき金が入るからもっといいものを食わせてやれよ』と言い、さらに『ケン坊、もうすぐ家に帰れるから、おとなしくしていろよ』と言いました」
「子どもは騒いでいる感じではなかったのに、おとなしくしていろと言われてたんですね?」
「はい。お子様は『はい』と答え、それに対し女性が何か言ったようで、男性が『親心出してるんじゃねえよ。それより買いたい服でも考えておきな』と女性に言っていました。・・・聞こえたのはそこまでです」
「それはまるで・・・」と金成食堂部門長が言いかけて絶句した。
「そうです。親でない男女が幼い子を連れ出して、身代金を要求しそうな印象を受けます」と俺は言った。
「ゆ、誘拐か!?」と驚く社長。
「何か事情があって、本当の親から頼まれて子どもを一時的に預かっているだけかもしれないぞ」と平営業部長。
「その可能性も否定できませんが、他人から頼まれて預けられた子どもにネコマンマを食べさせるでしょうか?・・・いえ、ネコマンマ自体はおいしいのですが」
「男女の話し振りはそのお子様の家庭環境とそぐわない気がしますね。お子様の親が自分の子どもを預ける相手としてふさわしくないような・・・」と金成食堂部門長が言った。
「その男女と子どもはいつ見たんだ!?」
「は、はい。こちらに給仕に来る直前です」とあわてて明子さんが答えた。
「一、二時間前でしょうか。まだ店内にいるかもしれませんね。・・・金成さん、杞憂かもしれませんが、警察にケンちゃんという子どもが行方不明になっていないか、聞いてもらえませんか?」
「わ、わかった。明子さん、一緒に来てくれ!」
「は、はい!」と明子さんが答え、二人は足早に部屋を出て行った。
「・・・なんであのウエイトレスは先にそのことを我々に伝えなかったんだ?」と平営業部長が不満げに言った。
「世の中にはいろいろな人がいますからね、上司に届け出るほどのことではないと思っていたのかも」と俺は代わりに弁解した。
「客をいちいち詮索するなと金成くんがウエイトレスを教育していただろうしな」と社長も言った。
「だが、先ほどの藤野さんの食通ぶりと、見事に事件を解決してくれたのを聞いて、心に引っかかっていた疑念を口に出す決心がついたのだろう」
食後のコーヒーを淹れてもらう俺たち。香りを味わって口に含む。いいコーヒーだ。
「藤野さんはコーヒーに砂糖やミルクを入れないのかね?」と社長が聞いた。
「はい。慣れるとコーヒーの味と香りがダイレクトに楽しめますから」
「さすが、食通の誉れ高い藤野さんだな」と平営業部長。いえ、誉れ高いとまで評されたことはありません。
「・・・それにしても誘拐か。私が子どもの頃は、夕方になって家に帰らないと、『天狗にさらわれるぞ』とよく親に脅されたものだ」と社長が言った。
「私は子取りに連れて行かれるぞと言われましたね。子取りが妖怪なのか、人さらいなのかわかりませんでしたが」と平営業部長も言った。
「神隠しという言葉もあり、隠し神という妖怪が子どもをさらうと考えられた地域もあったようです」と俺も口をはさんだ。
「しかし一番怖いのは人間だ。吉展ちゃんの誘拐事件にはぞっとしたぞ」と社長。
子どもの誘拐事件として有名なのが、昭和三十八年に起こった吉展ちゃん誘拐殺人事件だ。当時四歳の吉展ちゃんが営利目的で誘拐され、犯人に身代金を奪取されたが、二年後に犯人を逮捕することができた事件だ。しかし吉展ちゃんは誘拐時に殺されていたようで、白骨死体で発見されたという。
「さっきの話に出た子どもが誘拐されていないことを願うばかりだな」と平営業部長も言った。
そんなことを話しているうちに金成食堂部門長と明子さんが戻って来た。
「どうだった?」と聞く平営業部長。
「警察署に問い合わせましたが、子どもが行方不明になったという情報はない、一応確認しておくので、何かわかったら連絡する、という返答でした」
「誘拐じゃなかったか。・・・今回の藤野さんの推理は外れたな」と社長がにやにやしながら言った。なぜか嬉しそうだ。
「犯罪でなかったのなら良かったです」と答える。最初に指摘しようとしたのは金成食堂部門長であったことは言わなかった。
「ほっとしました。お騒がせいたしました」と明子さんが言った。
「この際だ。何でも藤野さんに聞いてみるといい」と社長が勝手に安請け合いしたが、それ以上相談されることはなさそうだった。
「それではそろそろお開きにしましょう」と平営業部長が言った。
「藤野さん、今日はわざわざ来てもらい、いろいろな話が聞けて助かった」と社長がお礼を言い、平営業部長が俺に封筒を差し出してきた。封筒の表には「御車代」と書かれている。
「わずかだが謝礼も含めてある」
「ありがとうございます。遠慮なくちょうだいします」と俺は言い、金成食堂部門長に促されて会議室を出ようとした。
そのとき、事務員らしい女性が入って来て、「金成部門長、警察からお電話です」と言った。
「そ、そうか。・・・誰か藤野さんを出口まで案内してくれ」と金成食堂部門長が言い、役員秘書が俺の案内を買って出た。
金成食堂部門長と明子さんが部屋を出てから、俺は秘書に促され、社長と営業部長にあいさつをして退室した。
秘書と一緒に職員用エレベーターで降りながら、「秘書の仕事はお忙しいですか?」と聞いてみた。
「私たちは来客の対応や、社長を初めとする役員のスケジュールを管理するのが主な仕事で、それほど大変ではありませんので、二人で何とか回しています」と秘書が答えた。
秘書の就職活動としてこの百貨店に来たはずだが、社長を始め忘れられている気がする。まあいいかと思って百貨店の通用口から出て、秘書にお礼を言うと駅に近い百貨店の正面口の方に回った。
ちょうどそのとき数台の車が正面前に立て続けに停まり、中から背広姿の男性が十人余り出てきたかと思うと、急いで百貨店の中に入って行った。
「何かあったのかな?」と思ったが、気にせず駅の方に向かった。
翌日、もう一件の会社訪問のお誘いについて相良さんに聞こうと就職指導部に顔を出した。相良さんは俺の顔を見るなり、
「藤野さん、お手柄ね」と声をかけてきた。
「何のことでしょうか?」と聞き返す。
「昨日訪問した毛武百貨店の金成さんからお電話があってね、百貨店内で誘拐犯が捕まったんだっておっしゃられたわ。その事件のことは今朝の新聞に載っていたけど、金成さんの話では藤野さんのおかげだったそうね。一体何があったの?」
俺がお世話になっている下宿では新聞を取っていなかったし、テレビもなかったので、事件のことは何も知らなかったが、実業家の子どもが誘拐され、警察は秘密裏に捜査を進めていたのだそうだ。そんなときに毛武百貨店から誘拐された子どもと誘拐犯らしい男女の情報が入り、三人の風体を知っているウエイトレスの協力を得て、まだ店内で買い物をしていた犯人を逮捕し、子どもを保護できたという話だった。誘拐犯は親から頼まれて預かっているとその子を言いくるめていたそうだ。
「大食堂のウエイトレスさんが妙な客の話をされ、それについて金成さんたちと話し合い、誘拐かもしれないと考えて、一応警察に連絡してもらっただけですよ。そのウエイトレスさんのお手柄と言うべきでしょう」と俺は簡単に説明した。
明子さんが相談するきっかけを作ったのが俺だとすれば、多少はお役に立てたのかもしれない。
それにしても誘拐犯が捕まったのは良かった。犯人たちがケンちゃんをどうするつもりだったかわからないが、無事に保護されたのは何よりだった。
「ところで、もう一件の会社訪問先はどこでしょうか?」と俺は相良さんに聞いた。
「警視庁よ」と相良さんが答えて俺は仰天した。
「け、警察ですか?」警察は一色の担当のはずだが、と思いつつ、警察でもお偉いさんには秘書がいるだろうと思い直した。
「婦人警官の募集ではないですよね?」と確認する。日本で婦人警察官(女性警察官)が初めて採用されたのは昭和二十一年のことだ。当初は受付や広報、交通課などへの配属が多かったそうだが、徐々に男女差別は薄まり、警察の各部門に配属されるようになったと聞く。
「秘書志望と言っておいたから、誤解はないはずだけど」と相良さんが言った。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
高橋明子 毛武百貨店大食堂のウエイトレス。
金成信一郎 毛武百貨店の食堂部門長。
柳本三十吉 毛武百貨店の取締役社長。
平 太郎 毛武百貨店の営業部長。
相良須美子 秋花女子大学就職指導部の事務員。
一色千代子 明応大学文学部二年生。美知子の女子高時代の同級生。




