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二十話 動物が恐れる女(美知子の妖怪捕物帳・弐拾陸)

俺を乗せた軽トラは五時過ぎにさきたま動物園に到着した。


既に動物園は閉園しており、俺は中林園長に連れられて通用門から入って動物園内にある自宅兼事務所に案内された。


「今帰ったぞ」と中林園長が玄関から声をかけると、屋内から中年女性と比較的若い男性が出てきた。


「女房のつね子と息子の寛一だ」と二人を紹介する中林園長。


「ようこそ。どうぞお入りください」と優しげな笑みを向ける園長夫人。一方の息子さんは、二十代という話だったが父親に似て太っていて、無精髭も生やしていて三十過ぎに見えたが、何も言わずに頭を下げた。


俺はスリッパに履き替え、応接セットが置かれている客間に案内された。俺が促されてソファに座ると、園長夫人はお茶を用意しに台所に行き、園長と息子さんは俺の向かい側のソファに腰を下ろした。


「この藤野さんは先見の明があるとのもっぱらの噂で、車内でこの動物園の改革案をいろいろと教えてもらったんだ。後でお前にも教えるから、協力を頼む」と園長。


「わかった」と息子さんは答えた。


園長夫人が俺たちの前に煎茶椀を置くと、空いているソファに腰を下ろした。


「この方があの問題を解いてくださるの?」と園長に聞く園長夫人。


「ああ、不可思議な謎を解く名アドバイザーだそうだ。・・・寛一、お前から話して上げなさい」


園長に言われて息子さんが俺の方を向いた。


「実は相談したいことがあるのは俺です」と息子さん。どうやら動物園関係の悩みではなさそうだ。


「俺には親しくしていた女性がいて、その人は動物好きで、動物の匂いが染み付いている俺を嫌がることもなく接してくれていました。俺はこの人こそ運命の相手だと思ってました」


「それは奇特な人ですね」と俺は言った。ここ、園長の自宅にいてもどこからか動物臭が匂ってくるからだ。神経質な人なら近寄りたいとは思わないだろう。


「それでひと月前ですが、俺はその人を自宅に招待しました。両親にも会ってもらいたくて」


「で、実際にここに来られたのですね?」


「はい。動物園から匂ってくる動物臭を気にすることもなく、両親とも愛想良くしてくれて、招待して良かったと心から思いました」


「とてもいいお嬢さんでしたのよ。動物の匂いも気にならないっておっしゃっていただいて」と園長夫人が口をはさんだ。


「つまり、好感触だったというわけですね?」


「はい。その後、俺の職場である動物園を案内しました。そのとき異変が起こりました」


「異変?」


「はい。まずサル山に案内して、上からサル山を一緒に見下ろしました。すると突然サルたちが騒ぎ始めたんです」


「騒ぎ始めたのですか?」


「はい。オスザルや母親ザルは俺たちに向かって牙をむき出して威嚇し、子どものサルは鳴きながらサル山の反対側に隠れました」


「まるで恐ろしい敵が現れたかのような反応ですね。・・・本当にお二人に対して反応したのですか?」


「はい。俺たちがサル山をのぞき込んだのと同時に騒ぎ出したので、どう考えても俺たちに敵意をむき出したとしか思えない状況でした」


「お二人が着ていた服や持ち物に変なものはなかったのですね?」


「はい。二人とも普段着で・・・いや、ちょっとだけいい服を着ていました。彼女はハンドバックを持っていましたが、特に妙なものではなかったと思います」


「寛一さんは普段は動物臭が染み込んだ作業着を着て飼育しておられるんじゃないですか?だから、慣れない匂いに騒いだだけなのかも」


「しかし、いろいろなお客さんが来てもサルたちがあんなに騒ぐことはありません。匂いで俺を俺と認識できなくても、興奮はしないと思います」


「そうですか。それからどうしました?」


「俺たちは急いでサル山から離れ、今度はイノシシが入っている檻に案内しました。ここでも俺たちが近づくとイノシシの親が興奮し出し、うり坊たちも親の足下を右往左往していました」


「サルたちと同じような反応だったのですね?それからどうしました?」


「イノシシが興奮しているので俺たちはすぐにその場から離れ、今度は飼っているヤギを見せに行きました。そしたらヤギも俺たちを見て、足をばたばたさせながら歯を剥き出して鳴き出したのです」


「寛一さんにそのような態度をとることは、それ以前も以後もありませんでしたか?」


「はい。普段はみんな俺を怖がったり、警戒したりすることはありません」


「じゃあ、彼女さんに反応して興奮したのでしょうか?」


「そのようです。そのせいで彼女がすねてしまいました。・・・『自分はあなたのところの動物たちに好かれていない』って言って。それ以来、彼女は俺と会ってくれなくなったのです」


「なるほど」と俺は言って考え込んだ。


何もしなくても動物に好かれる人と嫌われる人がいるらしい。彼女さんは動物に嫌われるタイプの人だったのだろうか。・・・でも?


「彼女さんは動物好きだとおっしゃいましたよね?彼女さんは何か動物を飼っているのですか?」


「はい、家で犬を一匹飼っていると言っていました」


「その犬はどんな犬ですか?そしてその犬は彼女さんに懐いているのでしょうか?」


「彼女の家に行ったことはないので話に聞いただけですが、紀州犬を飼っていると言っていました。紀州犬とは中型の、猟犬になる犬です。けっこう気性が荒くて、家族には懐いているものの、知らない人が近づくとすぐに吠えかかって大変だと言っていました」


「紀州犬ですか。・・・猟犬だとすると、日本ではイノシシやシカの猟に使われる犬ですね。・・・彼女さんが来られた日に、彼女さんの服や体にその犬の匂いが染み付いていたということはありませんか?」


「・・・そう言えば、俺の家に来る直前にその犬が暴れて、おしっこをひっかけられたと言っていました。もちろんすぐにハンカチで拭き取ったそうで、俺との約束まで時間がなかったので、そのまま着替えずにうちまで来たと言ってました。しかし俺は彼女から変な匂いは感じませんでしたよ」


「動物臭がする動物園近くでは気づかなかっただけかも。それに人間にはわからなくても、動物たちは匂いを敏感に感じ取ったのではないでしょうか?」と俺は聞き返した。


「匂い?彼女の匂いですか?お化粧の匂いとか?」


「いいえ、服に付いていたのかもしれない紀州犬のおしっこの匂いです。・・・紀州犬はもともと猟犬で、イノシシなどの天敵と言える存在です。サルやイノシシなど、もともと野生だった動物たちはその匂いに気づいて恐慌状態に陥ったのでは?」


「そこまで敏感かなあ?」と寛一さんは疑問を呈した。


「犬を連れて動物園に入り、その犬が動物たちに向かって吠えたりすれば、確かに大騒ぎになる」と中林園長が口をはさんだ。


「しかし匂いだけだと、多少は不穏になるかもしれないが、騒ぎ立てるということにはならないのでは?」


「犬を飼っているお客さまが来園しても、犬をつれてなければ動物たちが騒ぎ立てることはなかったと思いますよ」と園長夫人も言った。


「・・・動物園を長年経営しているみなさんがそうおっしゃられるのであれば、そうかもしれませんね」と俺は言った。


とはいえ、彼女さん本人が動物に嫌われる体質・・・例えば、動物たちが極端に嫌う体臭を発している・・・ということは考えにくいし、言ったら言ったで寛一さんが気分を害することだろう。根拠もないし。


しかし接近しただけで動物が騒ぎ出したとすれば、やはり彼女さんの匂いが原因であるとしか考えられない。


「・・・動物たちが嫌がる匂いには、どのようなものがあるでしょうか?」と俺は三人に聞いた。


「刺激的な匂いは嫌うな」と中林園長。


「例えば、畑に野生の動物を近づけさせないために、トウガラシの抽出液を撒いたり、容器に入れて柵のそばに吊るしたりするんだ」


「なるほど。・・・彼女さんがその日トウガラシ臭かったということはありませんか?・・・ありませんよね」寛一さんたちの顔に気づいて俺は自分の考えをすぐに取り下げた。


「そう言えば、アメリカでは畑に野生動物を近づかせないために、オオカミの尿の入った容器を吊ったりすると本で読んだことがあります」と寛一さんが言った。


「オオカミの尿?」


「オオカミは野生動物の天敵だから、本能的に嫌がるようです」


「じゃあ、猟犬の尿でも嫌がるのでは?」


「犬の尿を嫌がるという話は聞いたことがありません」


「犬とオオカミは近縁の動物だと思うのですが、そんなに違いがあるものですか?」


「犬の先祖はオオカミだと言われているが、おそらく一万年以上も前に種が分かれたので、今では完全な別種だと言ってもいいのだろうな」と中林園長が言った。


「野生のオオカミと飼い犬とでは普段食べているものも違うだろうから、尿の匂いもずいぶん違うんじゃないかな?」


「飼い犬は人間の食べ物を分けてもらうことが多そうですね。・・・日本人はそんなに大量の肉を普段から食べてはいませんから、飼い犬もご飯とか魚を主に食べているのかも」と俺も言った。


「日本には野生のオオカミはいませんが、もしいるとしたら野生動物を食べるので、匂いは全然違うと思いますよ」と寛一さんも言った。


「日本には野生のオオカミはいないのですね?」


「昔はニホンオオカミというのが全国にいたそうだ」と中林園長。


「ただし、最後の一頭が確認されたのは確か大正時代で、それ以降は生きているニホンオオカミは確認されていないはずだ」


「大正時代ですか。・・・四十五年以上前ですね。その間見つかっていないのなら、ニホンオオカミは絶滅したと考えられるのでしょうね」


「そう言えば!」と寛一さんが何かを思い出して叫んだ。


「彼女の家では昔は大型犬を飼っていて、肉しか食べなかったと言っていました。今飼っている中型犬も肉を食べさせているのかもしれません!」


「肉しか食べない飼い犬ですか?ぜいたくですね」


「牛肉、豚肉、鶏肉など、人間が食べる肉はお金がかかるのでもったいないけれど、鯨肉は安いから多めに買えると言っていました」


クジラの肉か。缶詰でもクジラの大和煮は安くて、藤野家でも時々買って食べている。一方でコンビーフの缶詰は高級品だ。藤野家では食べたことがない。ライスカレーにも豚肉が少ししか入っていないし。・・・いやいや、藤野家の貧しい食料事情はどうでもいい。


「となると、その犬のおしっこは、普通の飼い犬よりも野性的な匂いがしたのかもしれませんね」と俺は言った。


「ちょっと待てよ!」とそのとき中林園長が叫んだ。


「ニホンオオカミの剥製はいずれも中型犬の大きさだ。そして紀州犬は、先祖がニホンオオカミだという言い伝えがあると聞いたことがある!」


「紀州犬はニホンオオカミに近い犬種なのですか!?」


「はっきりしたことはわからない。それに明治時代以前の猟師は、自分が飼っている猟犬とニホンオオカミとをわざと交配させて、よりオオカミに近い猟犬を作ったと聞いたこともある!」


「・・・だとしたら、彼女さんが飼っている紀州犬はニホンオオカミの血が濃く残っているのかもしれませんね。しかも普段から肉を食べている。・・・もし、サルやイノシシたちにオオカミに対する恐怖心が遺伝的に刷り込まれているのなら、その匂いを感じ取れば大騒ぎするかもしれませんね」と俺は言った。


「・・・彼女は動物園に来たときにハンカチを持っていました。そのハンカチに飼い犬のおしっこが染み込んだままだったら、オオカミ臭が強く匂ったのかもしれません」と寛一さんが言った。


「とりあえず、もう一度彼女さんに会って、『彼女さんの家で飼っている紀州犬にニホンオオカミの血が混じっていて、その匂いに反応して動物が騒いだのだ。彼女さん自身を動物が嫌っているわけではない。紀州犬の匂いが付いていない服を着てもう一度来園してほしい』と頼んでみたらいかがでしょうか?」


「そうですね。そうしてみます。彼女が応じてくれるかわかりませんが、仲直りできるチャンスがありそうです!ありがとうございました!」と寛一さんは言って俺にお礼を言ってくれた。


「さすがは藤野さんだ!評判通りだ!」と中林園長も俺を讃えた。別に自分ひとりで思いついたわけではなく、動物の専門家である園長さんたちの助言のおかげなのだけど・・・。


「動物についても理解があるのね、藤野さんは」と園長夫人も感心してくれた。


「寛一さん、このまま、あの方との縁が切れたら、藤野さんにアプローチしてはどう?」と園長夫人が余計なことを言った。


「そうだな。それなら副園長として迎えても問題ない」とその気になる中林園長。


「いえいえ、息子さんが彼女さんのことを気に入っておられるようですから、その気持ちを優先された方がいいですよ」と俺は言った。


そして寛一さんと彼女さんの復縁を心から願うのであった。


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

中林大作なかばやしだいさく さきたま動物園の園長。

中林つね子(なかばやしつねこ) さきたま動物園の園長の妻、事務員。

中林寛一なかばやしかんいち さきたま動物園の園長の息子、飼育員。


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