十六話 八木総合病院を訪問
その日も案内板に就職指導部に来るようにとの掲示があったので、俺は放課後に就職指導部に寄った。
俺の顔を見るなり、「藤野さん、今度は総合病院からお誘いがあったわよ。相変わらずモテモテね」と相良さんが言った。
「総合病院ですか?」
「そう。八木総合病院の事務長という方から、短大に藤野さんって就職活動をしている学生がいるかって電話で問い合わせがあったの。私が『はい。秘書志望で就職活動をしています』って答えたら、『院長秘書を探しているので当病院を訪問してもらえないか』ってお願いされたの」
「院長秘書ですか・・・」
正直言って秘書という仕事は会社にしかないものだとばかり思っていた。大学病院なら病院長秘書とか教授秘書とかがいるのだろうが、一般の病院にも秘書がいるとは想定していなかった。
「まあ、院長秘書っていうのは電話口で咄嗟に思いついたような感じだったけど、またあなたに相談事があるのかしら?・・・どうする?行ってみる?」
まだ就職の内定はどこからも出ていないし、秘書としての就職の可能性があるのなら行ってみても損はないかな、と考えた。
「はい、行ってみます」と俺は相良さんに答えた。
「じゃあ、今すぐ電話してみるから、そこで待っててね」
そう言うと相良さんは受話器を取ってダイヤルを回し始めた。
「秋花女子大学就職指導部の相良と申します。事務長の伊藤さんはおられますか?」と話し始める相良さん。
「はい、はい。・・・では聞いてみます」と相良さんは言い、俺の方を向いた。
「急で悪いけど、今日これから病院まで来れないかと先方は言っておられるけど、どうする?」
「今日ですか?病院がどこにあるかわかりませんが、場所によっては五時過ぎになるかもしれませんし、今日は普段着のこんな格好しかしていませんが」
「服装は普段着でかまわないそうよ。病院は埼玉県との県境近くだから、ここからなら一時間ちょっとで行けるかしら?」
「・・・二時間後になると思いますが、それでよければ行きます」と俺は言った。
すぐに話がまとまったので、俺はまず下宿に戻った。
さすがに本当に普段着で行くわけにはいかない。俺は急いで会社訪問用の服に着替えると、部屋でごろごろしていた杏子さんに、
「用事ができたので外出します。遅くなりそうなので、夕食は外食でお願いします」と断って下宿を出た。
電車を乗り継いで八木総合病院の最寄り駅に着く。そこから歩いて三十分くらいかかった。外から見た限りではなかなか大きな病院だった。
診療時間を過ぎていたせいか病院の正門は既に閉まっていた。そこで夜間・救急窓口に回って受付にいた警備員に、
「伊藤事務長に呼ばれて来た秋花女子短大の藤野と申します。お取り次ぎをお願いします」と頼んだ。
電話をかける警備員。すぐに俺の方を向いて、「すぐに迎えが参りますので、中に入って廊下の長椅子に腰かけてお待ちください」と言ってきた。
頭を下げて病院内に入る。大きな病院だが、屋内は古びていたし、患者や職員は近くにいなかったため、寂しい感じがした。
しばらく待っていると奥の方から中年の男性が二人歩いて来た。
「君が藤野さんですか?」と俺にひとりが話しかけてきた。あわてて立ち上がる。
「はい、秋花女子短大の藤野美知子です」と言って頭を下げる。
「今日は急に来てもらって悪かったね。私がこの病院の事務長をしている伊藤です」とその男性が自己紹介した。
「そしてこちらが」と伊藤事務長はもうひとりの男性を向いた。「院長兼理事長の八木先生です」
「よろしくお願いします」と頭を下げる。
「・・・ああ、気楽にしてくれ」と、伊藤事務長とは違って八木院長はにこりともせずに言った。
「とりあえず院長室に案内します。ついて来てください」伊藤事務長がそう言って、八木院長とともに後を向いて歩き始めた。俺もすぐに後を追う。
古びたエレベーターに三人で乗り、最上階(五階)で降りた。大会社のように廊下に絨毯が敷かれているわけではなく、殺風景な廊下を歩いて院長室と書いてある部屋に入った。
促されるままにソファに腰を下ろす。向かいに院長が座り、事務長が院長室に連続する給湯室に入ってお茶の用意をし始めた。
「院長秘書が五時に帰ってしまって、十分なもてなしができない」と言って頭を下げる院長。秘書が帰ってしまったので機嫌が悪かったのかな?
「秘書は近々結婚することになってね、その準備のせいか、逢い引きする時間を作りたいのか、五時を過ぎるとさっさと帰るようになったんだ。来客の予定があってもね」
「そうですか。それは大変ですね」五時過ぎに職員が帰宅するのは問題ない気がするが、残ってほしいときに残ってくれないことに不満があるようだ。
「院長先生の秘書のお仕事はお茶汲みが主ですか?」
「来客時にはお茶を出してもらう。そのほか、訪問依頼の電話の応対とか、出張の手配とか、一階の病院事務室にいる事務長に書類を持って行ってもらうなど、雑用ではあるが仕事はたくさんある」
「わかりました」と俺が答えたところに事務長が不慣れな手つきで煎茶の入った茶碗をお盆に載せて持って来た。
「ありがとうございます」とお茶を出してくれた事務長にお礼を言う。
事務長はそのまま院長の隣のソファに腰を下ろした。
「繁忙期には事務室に降りてもらって、事務作業を手伝ってもらうこともあるかもしれない」と事務長が口を開いた。
外来患者は診察や検査や注射などの処置を終えた後、一階の会計受付に受診票を出す。それを奥の事務室で見て、薬の手配や患者の負担額の計算を急いで行い、病院の薬局で準備された処方薬を渡す際に受診料や薬代を払ってもらうことになっているらしい。計算は当然そろばんで行う。電卓はまだ高価なので、事務員ひとりひとりに支給することはできない。数人の事務員が一斉にそろばんを使ったら、事務室内はそろばんの玉を弾く音でけっこううるさそうだ。
「冬場で風邪などが流行しているときは患者数が多くてね、猫の手を借りたいほどなんだ。院長には迷惑をかけるけどね」と事務長。
ちなみにこの病院は八木院長の祖父が創設した病院で、繁盛して今ではほとんどすべての診療科が揃う大きな総合病院になった。八木院長がオーナーでもあるので、肩書きは院長兼理事長になっている。
「受診料の計算とか、大変そうですね。私でもお手伝いできるのなら、仕事を頑張って覚えます」と言っておく。もちろんそろばんの使い方は知っている。ただし、早く計算できる方ではない。
「ところで、君は先見の明があるそうだが」と院長が言った。
「どこからそういう噂をお聞きですか?」
「先日、高校時代の元同級生と飲む機会があってね、企業に勤めているやつから聞いたんだが、君のことが少しずつ噂になっているようだ」
どこからどこに広がってるんだ?と警戒しつつ、「素人意見を述べたことがあるだけですよ」と謙遜しておく。
「そこで参考意見として聞きたいんだが、この病院をもっと繁盛させるにはどうしたらいいと思う?」
「・・・病院の繁盛ですか?」俺は困惑した。病院経営なんて基礎的なことすら知らないからだ。
「優秀な医者や看護婦、検査技師、薬剤師の確保、先進的な医療技術や医療器械の導入など、専門的なことはこちらで考えるんだが、患者目線として、こんな病院にかかりたいと思わせるにはどうしたらいいか、忌憚のない意見を聞かせてほしい」
「そういうことでしたら、素人考えですがいくつかアイデアがあります」
「ほう、そうか?そのアイデアを教えてくれ」
「どのアイデアも目的は病院を病院らしく思わせないことです」
「はあ!?」と院長と事務長が同時に声を上げた。
「矛盾したことを言っているように思われるでしょうが、病院とは病人やけが人が集まるところなので、健康な人からすると穢れたところという印象を受けます。・・・あ、穢れと言っても医学的な意味での不潔という意味ではなく、心理的な感情のことです」
「医者としては肯定し難いが・・・」と俺の言葉に難色を示す院長。
しかし、事務長は、「日本では古来から死、疫病、出産が穢れとされてきました。そういう考えが現代にも残っています」と俺の言葉を支持してくれた。
「ありがとうございます」と俺は事務長に礼を言い、院長の方を向いた。
「私は現代の病院は病院以外の場所よりも消毒が行き届いていて、清潔な環境だと思います。ただ、そういう古い考えが、病院へ気軽に入れない要因のひとつのように思われます」
「・・・それで病院を病院らしく思われないように変えろということか。具体的にはどうするんだ?」と院長が聞いてきた。
「まず、病院内を今より明るく、開放的にします。具体的には待合室の壁面をガラス張りにし、電灯がなくても明るい部屋にします。同様に、病院の廊下や病室、診察室なども採光が良くなるように改装します」
「・・・病院を立て替えるとなると金がかかるな」と不満そうな院長。
「その通りですが、例えば待合室のところだけ改装するとか、部分的な建て替えでも効果があるでしょう。また、病院の外壁をきれいなタイルで覆い、新築したかのように改装するのも効果があるかもしれません」
「なるほど。・・・いずれ建て替えをしなくてはならんだろうが、部分的な工事についても検討してみるか」
「近代的なホテルのエントランスを参考にしてもいいかもしれませんね」と事務長も言った。
「二番目のアイデアとして、お医者さんや看護婦さんの白衣を色付きのものに替えます」
「色付きの白衣?それじゃあ白衣とは呼べなくなるんじゃないのかい?」と事務長が聞き返した。
「清潔な制服であれば、色は白に限る必要はないと思います。いえ、むしろ白い白衣は血の付着などの汚れが目立ってしまいます。逆に青色とか緑色とか赤色など、色付きの白衣にすると汚れが目立たなくなる可能性があります」
「なるほど」と事務長。
「それに白衣を着たお医者さんに診察してもらうと、患者さんの中には緊張し過ぎる人もいるでしょう。子どもさんとか。そこで固定観念と異なる色の白衣を着てもらうことで、緊張が緩和するという狙いもあります」
「どう思う、事務長?」と院長が聞いた。
「病院の改装よりは安価に対応できるかと」と事務長は答えた。
「模様付きの白衣もいいかもしれません」と俺は補足した。
「それから、この病院では消毒に石炭酸を使っていますね?」
「うむ。手指の洗浄や、傷口の消毒に多用している」と院長。
「石炭酸は匂いがきつく、あの匂いを嗅ぐとどうしても病院を連想してしまいます。ですから、三番目のアイデアとして、もっと匂いの少ない消毒剤、例えば消毒用アルコールなどを使うようにしてはいかがでしょうか?」
「アルコールは手指洗浄にはいいが、粘膜や傷口には沁みるから使えないな」と院長。
「ポピドンヨード剤なら使えますし、匂いも少ないでしょう」と事務長が言った。
「内部が明るく開放的で、消毒剤の匂いがしない病院、そして医者たちが明るい色の白衣を着て院内を移動する・・・か。確かに従来の病院とは印象が異なってくる。検討の余地がありそうだな」
「はい、院長」と事務長は答えた。
「最初は他の医療関係者から批判的な言葉もあるでしょうが、患者数の変化がその効果を証明してくれるでしょう」
「先進的な病院として新聞や雑誌、テレビなどで紹介してもらえるかもしれんな」と院長は言ってにやりと笑った。
何とか答えられて良かったとほっとしていると、事務長がさらに俺に話しかけてきた。
「ところで藤野さんは、奇異な出来事の真相を解明することもできるようですね?」
「それも元同級生から聞いた。いろいろなところで活躍しているらしいな」と院長。
「それほどでもありませんが。・・・何か、悩まれている出来事でもあるのですか?」
「うむ、実はな、うちの病院の霊安室でのことなんだが・・・」と言いにくそうに話し出す院長。
「ここみたいに大きな病院だと、医療を尽くしても亡くなられる患者さんがいます。亡くなった患者さんを一時的に安置する霊安室が、病院の裏手にあるのです」と事務長が補足してくれた。
「ここからの話は他言無用にしてくれ。変な噂が立つと患者が減るからな」
「わかりました。誰にも言いません」と俺は誓った。
「つい最近のことなんだが、霊安室に遺体を安置した日の夜に、室内に人魂が出たんだ」と院長が話し出した。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
相良須美子 秋花女子大学就職指導部の事務員。
伊藤幸男 八木総合病院の事務長。
水上杏子 美知子の同居人。秋花女子大学三年生。
八木大二郎 八木総合病院の院長兼理事長。