十五話 消えたママの謎
俺が小さな紫色の花がいくつもついた茎を箸で持ち上げて見つめていると、仲居さんが、
「それは花穂紫蘇と言って、紫蘇の花なんですよ」と教えてくれた。
「そうなんですか。初めて見ました」
「茎以外は食べられますから」
そう言われて茎ごと口に入れ、茎だけ引っ張り出して花の味を確かめた。苦くはなく、ほのかに紫蘇の香りが感じられる。
俺が花穂紫蘇を味わっている間に陶器製のお椀が俺の前に置かれていた。そちらはすぐに手には取らず、お造りに添えられた醤油皿にわさびと紫色の蓼の芽を入れた。
そしてお刺身を醤油につけて口に入れる。・・・うん、おいしい。家庭で食べるものよりおいしい気がする。鮮度が違うのか、切り方にコツがあるのか?
お刺身を満喫すると、次に目の前に置かれたお椀を手に取った。中には何かを潰してまとめたような白っぽい柔らかそうな塊がわずかな量の汁にひたっていた。
「これは海老真薯です」と仲居さんに言われる。
箸で小さく分けてから口に入れると、海老の香りとハンペンを潰したような淡白な魚肉が口の中に広がった。
なかなかおいしいが、汁の味が薄い。醤油を少し垂らすともっと上手いのではないかと思ったが、お造りに添えられていた醤油皿は既に取り払われていた。
次に出されたのは、長さ十五センチくらいの半身の干物を炙ったものだった。何の魚だろう?と考えていると、
「鮎の干物の焼き物です」と仲居さんが教えてくれた。
鮎?あの川魚の鮎のことか。・・・鮎は塩焼きにするのが普通だろうが、そもそも鮎の塩焼きなんて食べたことがなかった。
庶民に縁遠い鮎をわざわざ干物にして焼くなんて、なんて風流だと思いながら口に入れた。・・・アジの干物よりは味が淡白だが、とてもおいしい。柔らかい海老真薯の後だから、歯ごたえも嬉しい。
俺はもう会話しようとする気もなくなって、出される料理に集中した。社長たちは料理にはあまり手をつけず、目の前にはお造りの皿や海老真薯のお椀や鮎の干物が載った皿が貯まっていた。酒を飲みながら会話に花を咲かせているようだが、仕事の話ではなく雑談のようだ。俺には注意を向けなくなっていたので好都合だと思った。
鮎の干物を堪能すると、今度はまた陶器製のお椀が置かれた。
「蕪と菜の花の焚きあわせです」と仲居さん。
お椀の中央にはよく煮込んで出汁が浸みたような蕪の輪切りが置かれ、その上に茹でた菜の花の穂が添えられていた。そしてとろみのあるほぼ透明のあんがかけられていた。
さっそく菜の花を箸でつまんで口に入れてみる。ほろ苦い味が広がる。あんは、こちらも塩味をあまり感じない淡白な味だった。
蕪を箸で割ってみる。簡単に二つに割れ、さらにもう半分に割って口に入れる。出汁が浸みた甘い蕪の味が口いっぱいに広がる。これも、好みから言うと、醤油を少し垂らしたかった。
次に出されたのは皿に載った天ぷらだった。大葉と筍と、長さ十センチくらいの小魚を丸ごと揚げた天ぷらだ。魚はワカサギなのだろうか?
天つゆはなく、抹茶塩が添えられていたので、魚の天ぷらに少々塩を付けて口に入れる。口の中に広がる塩と抹茶の香りと油と魚の味。魚は頭から尾びれまで骨ごと食べられたが、ワカサギより上品な甘さで、はらわたからはほのかな苦みが感じられた。
「これは何のお魚ですか?」と仲居さんに聞くと、
「小鮎の天ぷらです」と教えてくれた。
これも鮎か!鮎の天ぷらなんて聞いたことがなかった、が、おいしい!しかし海が近い東京で、清流に棲む鮎を二度も出してくるとは、高級料亭は違うなあと感心した。
筍も瑞々しくて柔らかく、とてもおいしかった。
どの料理もとても上品だ。そして量はあまり多くない。俺のお腹の具合だともう一人前は食べられそうだった。
社長たちは相変わらず料理にほとんど手をつけていなかった。・・・かと言って、料理をもらうわけにはいかない。
「お連れ様がお料理を食べられたので、ご飯をお出ししてよろしいでしょうか?」とおかみさんが社長に声をかけてくれた。
俺の方を見る社長。俺の前のお椀や皿はすっかり空になっていて、恥ずかしくなった。
「そうだな。次に行くところもあるし、もう出してもらおうか」と社長。
嬉しさを顔に出さずにじっと待っていると、まもなくご飯茶碗と漬け物が載った小皿と、蓋付きのお椀が出てきた。
がっついているとは思われないよう、ゆっくりと手を伸ばしてお椀の蓋を取る。中にはすまし汁が入っていて、手毬麩と蛤の身が沈んでいた。
ご飯は、普段家でお茶碗に盛る量の半分くらいが盛られていた。漬け物は、白い大根二切れとキュウリ二切れだ。
汁碗を手に取って中の汁をすする。もちろん薄味だが、かすかにおいしい出汁の味が感じられた。中の蛤も柔らかくておいしい。そして手毬麩は見た目にきれいだった。
次にご飯茶碗を手に取る。ひとすくいを口に入れると、弾力も香りもいいご飯だった。
漬け物を取ってかじる。塩味がうれしい。大根とキュウリの味もひきたっていた。
社長たちの方を見ると、彼らもご飯をがつがつと口に入れていた。高そうな料理は半分も食べていないのに、ご飯と漬け物と汁だけで満足なのだろうか?
俺の方はおいしく食べ終わると、お茶をすすって一息ついた。食事の量は少なめだが、時間をかけて食べているのでそれなりに満腹になってきた。
「藤野さん、料理はうまかったかい?」と人事部長が聞いてきた。社長たち三人はにやにやしながら俺を見ている。
「はい、普段食べたことがないとてもおいしい料理を堪能させていただきました。ありがとうございました」と照れを見せずにお礼を言った。
「それは良かった。誘った甲斐があったというものだ」と社長は言い、おかみさんに「ハイヤーを二台呼んでくれ」と頼んでいた。
「今夜はお早いですね?」と聞き返すおかみさん。まだ九時前だった。
「今夜はこれから本丸に切り込むんだ。切り込み隊長はその藤野さんだ」と社長。おかみさんは意味がわからず社長と俺の顔を交互に見ていた。
しばらく待っているとハイヤーが到着したと仲居さんが伝えてきた。よっこらしょと言いながら立ち上がる社長たち。俺も立ち上がっておかみさんに「ごちそうさまでした」とお礼を言った。
「きれいに食べていただいて、板さんも喜びますわ」とおかみさん。全部食べたのを馬鹿にする風ではなかったので、
「こんなおいしいお料理をいただいたのは初めてです」と改めてお礼を言った。
料亭の外に出ると、今度は社長と二人きりでハイヤーに乗せられた。
「こんな高級そうな料亭をいつも利用されているのですか?さすがですね」と社長に言うと、
「まあ代金は接待費で落とせるからね、部長たちと遅くまで会議をした後とか、来賓が来たときに利用しているよ」と社長が答えた。
俺も来賓扱いなのかな?それとも料亭で飲むための出しに使われたのかな?と思ったが、口には出さなかった。
「これから行くバー『リリーズ』はちょっと奥まったところにあるから、ハイヤーで直接乗り付けられない。少し歩くけどいいね?」と聞かれた。
「大丈夫です」と答える。
社長の言葉通り、ハイヤーはアーケード街の入口近くの大通りの道路脇で停まり、俺たちはハイヤーから降りた。
「こっちだ」と社長に言われてアーケード街の中に入って行く。夜九時頃なのでシャッターが閉まっている店が多いが、人通りはまだけっこうあった。
アーケードの下をしばらく歩いた後、狭い横道に曲がった。両側に飲み屋が並ぶ路地だ。
「こういうところにもよく来られるのですか?」と社長に聞く。
「ああ。若くて金がない頃は同僚とこういう店で飲み歩いたもんだ。高級クラブで若いホステスを侍らせて飲むのもいいが、こういうところに来ると若返った気分になるんだ」
通りの両側の飲み屋の看板が輝き、店の中からは笑い声や音楽が響いてきた。その路地には人通りがまばらにある。路地が狭いので体が当たらないよう気をつける必要があった。
「このあたりだったかな、桐田くんがチンピラに絡まれたのは?」と社長が財務部長に言った。
「そうですね、社長」と答えて財務部長は周囲をきょろきょろと見回した。「今夜はいないようです」
その場所から少し進んだ先に「バーリリーズ」の看板が表に出ていた。颯爽と社長が店の中に入り、俺たちも続いた。カウンターとテーブルが数脚ある、あまり広くない店だった。
「あら、いらっしゃい」と、カウンターの中にいる高齢女性が振り返って言った。この人がオーナーなのだろう。
「京子ママがいないのに、また来てくれたんだね?」京子ママとは例のいなくなったママのことらしい。
社長と俺たちはカウンターに座り、水割りの用意をするオーナーの後ろ姿に社長が話しかけた。
「今日はママが辞めた理由について確かめに来たんだ。この前オーナーは、わしらのせいでママが辞めたと言っただろ?」
「そうだけど、詳しく話すつもりはないよ」と牽制するオーナー。
「その理由についてこの娘が考えてくれたんだ」と言って俺を指さす社長。オーナーが俺の顔をじっと見つめる。
「わしらがあの日ピーターに助けられたって話を散々していただろ?あのピーターって青年がママの正体じゃないかと」
オーナーはしばらく黙ってから、社長たちに話しかけた。
「あんたらは本当に気づいてなかったのかい?あの日、その青年の話を散々ママの前でしておいてさ」
「・・・その言い方だと、ママがあのピーターだって話は事実のように聞こえるが?」
「あんたたちに正体がばれたってあの子は悩んでいたよ」とオーナー。
「どういうことだい?なんでわしらにばれたら困るんだ?」
「・・・最初から話そうかね。あの子は私の遠縁だけどね、高校を卒業した頃に両親が亡くなって、身寄りがなくなったから、私が昔務めていた銀座のクラブのオーナーに話をつけて、ボーイに雇ってもらったのさ」
「オーナーは銀座のクラブのホステスだったのか!?」驚きの声を上げる社長たち。
「銀座一の高級クラブの、一番人気のホステスだったから、今でも多少は顔が利くのさ。で、あの子はそこでまじめにボーイを務めていたんだけど、顔がいいだろ?ホステスたちが夢中になって、・・・夢中になり過ぎていろいろなもめごとが起き、クラブのオーナーからこれ以上雇えないと苦情が来たのさ」
「さもありなんな」と助けてもらった財務部長がつぶやいた。
「ほかの店に行っても同じような問題が起きるのは目に見えていたから、しばらくうちのバーで働かせることにしたんだよ。でも、うちにも女の子がいるからさ、またもめてもつまらないから、店に出るときだけ女装しなってあの子に言ったんだ。そしたらあの美貌だろ?女の子たちのやっかみもあったけど、私の親戚だって言ってそっちは黙らせた。ところが社長さんたちのような店の客に人気が出てさ、これは予想外だったよ」
「そうだったのか。・・・でもママのおかげでけっこう儲けただろ?」と営業部長が言った。
「そりゃ否めないねえ。そのうちにあの子も客のあしらいが上手くなったんで、この店のママを任せたのさ」
「事情はわかったが、男だとばれたらなぜ店を辞めなくてはならなかったんだ?客足は多少減るかもしれないが、店は上手く回していただろ?」
「男だとばれるとね、あの子目当てに女の客が増えるかもしれないだろ?しかしこの店は女相手の店じゃないからね。それにこの近くにはけっこうゲイバーがあって、そっちの変な奴らに目を付けられても大変だと思ったからさ」
「顔がきれいすぎるのも困ったものですね」と俺は知ったような口をきいた。
「だけどね、それがいいこともあるのさ」とオーナー。
「数か月前に男の姿で外を歩いていると、モデル事務所にスカウトされたのさ。それで、ここでママをしながらモデルの仕事も始めていたんだ。その手の雑誌を探せば、男姿のあの子がどこかに載っているよ」
「じゃあ、水商売は辞めてモデルに専念するんですね?」と俺は口をはさんだ。
「モデルの仕事も軌道に乗ってきたみたいだから、いっそ専業のモデルになりなと私が勧めたのさ。あの業界もいろいろ大変らしいけど、そのうち有名になるだろうから、気づいたら応援してあげな」
真相を聞かされて社長と財務部長と営業部長は何やら囁きあっていた。
「まあ、うちは大損害だから、あんたたちは引き続きこの店をひいきしてくれよ。代わりのいい子を見つけておくからさ」
しかしあの様子だと、社長たちはこの店から足が遠のくだろう。本来、もっと高級なクラブやバーの方が似合う身分なのだから。
さっきはこういう店に来ると若返った気分になると言っていたが、それはママがいたからじゃないだろうか。
俺の推理は一応当たっていた。しかしこれで就職の内定をくれるのか、自信がなかった。人事部長の顔を見ると、彼も肩をすくめていた。念のため、他の会社も訪問した方がいいだろう。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
桜田敏郎 毛武電鉄の取締役社長。
松木 仁 毛武電鉄の営業部長。
桐田昭夫 毛武電鉄の財務部長。
梅田三郎 毛武電鉄の人事部長。