十四話 料亭での会食
お気に入りだったバーのママが男ではないかという俺の説を社長さんたちはすぐには受入れられないようだった。
「君の説明はよくわかったが、やっぱり信じ難い」と営業部長が言った。
「そうでしょうね。あくまでひとつの仮説です」と応じる。
「しかし説得力はあった。・・・これはやっぱり確認に行く必要がありますな?」と財務部長が社長に言った。
「そうだな。今夜にでもバー『リリーズ』に行って、オーナーに確認してみようか」
「そうされるのがよろしいかと存じます」と俺は人ごとなので軽く肯定した。
「君も一緒に来てくれないか?」と俺にとんでもないことを言い出す社長。
「わ、私もですか?」思わず聞き返してしまう。
「君も真実が知りたいだろ?もちろん飲み代はこちらで持つから、心配する必要はない」
「い、いえ、私は飲めませんし、帰るのが遅くなるのも困ります」
「社会人になれば酒の場に呼ばれることもあるだろう。だから、いい経験だと思ってつき合いなさい」と人事部長までもが言った。
「帰りはハイヤーを呼ぶから、遅くなっても大丈夫だよ」
正直言って遠慮したかったが、職場訪問をしに来た短大生がそうそう断れるものでもない。
「そ、それでは、下宿に帰るのが遅くなることを電話して来てもいいですか?」
「秘書室の電話を使いたまえ」と社長。
「飲みに行かれる先はわかっていますが、夕食はどうされますか?」と人事部長が社長に聞いた。食事もせずに酒を飲まされたらたまったものじゃない。
「そうだな。・・・いつもの料亭で軽く食べていくか」と社長。
「では、秘書に連絡するよう伝えます。・・・藤野さんも一緒に来てください」
「は、はい。わかりました」
会議室を出ると、人事部長は俺を社長室に連れて行った。社長室の前室に秘書が待機している秘書室がある。
「これから社長たちと五人で『鶴亀』に行くことになった。連絡を頼む」と人事部長が三人いる秘書に言った。
「五人様ですね、わかりました」と年配の女性秘書が答えた。『鶴亀』とは行きつけの料亭の店名らしい。
「それからこのお嬢さんに、電話を貸してあげてくれ」
「わかりました。こちらをどうぞ」と机の端に置いてある電話を指さす別の女性秘書。
「すみません、お借りします」と俺は頭を下げた。
手提げ鞄の中からメモ帳を出して、祥子さんたちと同居しているマンションの電話番号を探す。部屋には電話がないので、管理人さんに伝言を頼むのだ。
外線電話のかけ方を教えてもらってから、マンションの電話番号をダイヤルする。通話音の後、管理人のおじさんの声が帰ってきた。
「私、三〇一号室の藤野です。同居している黒田さんと水上さんに、今夜は帰るのが遅くなりそうだと伝えていただけますでしょうか?」
あまり遅くなるつもりはないが、万が一遅くなった場合、祥子さんと杏子さんがどう夕食をすませるか心配だ。外食してもらえば問題ないが、念のためインスタントラーメンの『出前一丁』と『サッポロ一番みそラーメン』は常備してある。普段、お湯も沸かさない二人だが、インスタントラーメンぐらいなら作れるだろうと期待する。
俺は無愛想な管理人の返事を聞くと受話器を戻した。そのとき、秘書たちが俺を横目で見ていることに気づいた。
料亭の予約。そして帰りが遅くなると電話する俺。まさか、この小娘も料亭に行くのだろうか?だとしたら、社長か部長の娘さんなのだろうか?いや、娘にしては若すぎる。誰かの愛人か?いや、愛人になりそうな顔ではない。ひょっとしたら隠し子か?・・・などと考えているのではないだろうな?
変に思われていても仕方がない、と俺はあきらめ、人事部長について秘書室を出た。
「社長たちは帰り支度を始めているから、藤野さんはこの部屋で待っていてくれ。準備ができたら呼びにくるから」と人事部長に言われて俺は小さな応接室に案内された。
その部屋にひとり残される。しばらく待っているとドアが開いて、人事部長が入って来た。
「待たせたね、藤野さん。じゃあ、出かけようか」
「はい、わかりました」と答えて一緒に会議室を出る。
エレベーターで一階に降り、正面玄関を出たら一台の黒塗りの高級車が停まっていた。
「社長たち三人は別の車で先に行ったから、僕たちはこのハイヤーで行くよ」と人事部長。
「は、はい」と上ずった声で答えてしまう。タクシーに乗ったことはあるが、高級そうなハイヤーに乗るのは初めてだ。
ハイヤーはタクシーと違い、屋根の上に社名の表示灯がなかった。運転手が開けた後部座席のドアからまず人事部長が入り、その後から俺も乗り込む。
運転手がドアを閉める音を聞きながら、ハイヤーには料金メーターがないことに気づいた。運賃が気になるが、自分で払うわけではないからまあいいだろう。
目的地も告げずにハイヤーが走り出す。ハイヤーを呼んだときに既に行先を告げてあるのだろう。
ハイヤーは日が暮れかけた街中を進んで行くが、どこをどう通ってどこへ向かっているのかまったく見当がつかなかった。
「今日は社長の相談にまで乗ってもらって悪かったね」
「いえ、お役に立てたかどうかわかりませんが」
「今後の我が社の展開に関する提案はとても参考になったよ。社長たちの個人的な相談には僕もびっくりしたけどね」
「あれこそ、適当に考えたことを述べただけです。・・・この後で確認に行かれるのがちょっと怖いです」
「心配する必要はないよ。お気に入りのバーのママが男であろうがなかろうが、もういなくなってしまったのだからね。仮に男でなかったとして、君の事を笑う者がいるかもしれないが、君は頭をかくだけでいいよ。マイナスの査定にはならないからね」
「それを聞いて安心しました」
そんなことを話しているうちにハイヤーは料亭の前に停まった。その料亭はぐるりを高い壁で覆われており、わずかに開いた正面入口の奥には日本庭園と和風建築の玄関が見えた。
「さあ、出たまえ」と言われ、ハイヤーの運転手が開けたドアから外に出る。すぐに人事部長も出てきて、仲居さんが待ち受ける玄関に向かった。
「いらっしゃいませ、梅田様」とおかみさんらしき年配の着物姿の女性が声をかけてきた。顔なじみのようだ。
「いらっしゃいませ、お嬢様」と別の仲居さんが俺に声をかけた。妙な連れが来たと思っているのだろうが、そんな素振りは一切見せないところはさすが高級料亭の仲居さんだ。
「社長は着いているかね?」と聞く人事部長。
「はい。桜田様、松木様、桐田様は先ほどお見えで、お部屋にお通ししております」と答えるおかみさん。
「こちらは今夜の賓客の藤野さんだ。よろしく頼む」と人事部長が俺を紹介してくれた。
「ようこそ、いらっしゃいませ、藤野様」と笑顔で俺に話しかけるおかみさん。
「よ、よろしくお願いします」お上りさんのように上ずった声であいさつする。
玄関に入ると人事部長が靴を脱いで上がった。俺も靴を脱ぐが、振り返って靴を揃えようとする前に俺の靴も取られ、玄関横の靴箱の中にしまわれていた。
「こちらへどうぞ」と俺に話しかけるおかみさん。
人事部長と一緒に案内される方に歩き出すと、日本庭園沿いに建物の外周を巡る廊下を歩かされ、何度か曲がってからようやく目的の部屋に着いた。
「お連れ様がお着きです」と正座をして声をかけるおかみさん。そして返事を待たずに障子を開けると、中に大きな座卓があり、社長、営業部長と財務部長が既に座っていた。
「ああ、入ってくれ」と俺たちに声をかける社長。
人事部長に続いて室内に入ると、長方形の座卓の床の間側に社長が座っていて、その横に誰も座っていない座布団が置かれていた。社長の向かい側に財務部長と営業部長が座り、手前に座布団がもうひとつ置かれている。
俺はてっきり一番手前の末席だと思っていたら、
「藤野くんはここに座りたまえ」と社長が自分の横の座布団を指さした。
「そんな。・・・そちらは上座でしょう?私には不釣り合いですよ」と辞退しようとしたが、人事部長に促されて上座側に行き、末席の座布団には人事部長がすぐに座ってしまった。
しかたなく社長の隣に座る。
「じゃあ、始めてくれ」とおかみさんに告げる人事部長。すぐに仲居さんたちが料理を運んできた。
断る間もなく俺に盃を出すおかみさん。しかたなく受け取ると、正月に使う屠蘇器のようなお銚子で俺の持った盃にお酒を注がれてしまった。断る隙などまったくない。
全員にお酒が注がれる間に小鉢が置かれ、中にこじんまりとした料理が上品に盛られていた。
「今日は藤野くんと出会えて本当によかった」と盃を上げながら俺に言う社長。
「貴重な助言をもらったこの出会いを祝して、乾杯だ!」
「乾杯!」と社長の口上に合わせる部長たち。全員が盃を傾けるので、俺も形だけ盃に口を付けた。
「さあ、どんどん食べて飲んでくれ」と言って箸を持つ社長たち。すぐに仲居さんたちが酒を注ぐ。
「藤野様・・・お嬢様はお酒は召し上がられませんか?」と俺の盃を見て聞くおかみさん。
「はい。不調法なもので」と答えると、
「なら、バャリースオレンヂを持って来させましょう」と言ってくれた。
社長の横に座る小娘は誰なのだろうと仲居さんたちは不審がっていることだろう。それを察してか、
「この藤野さんは若い女性だが我が社の相談役的な存在なんだ」と言ってくれた。
「まあ、それはお見それいたしました。今後ともよろしくお願いしますね」とおかみさんが俺に言う。多分二度と来ることはないだろうが。
オレンジジュースが入った小さめのコップが俺の前に置かれ、俺はようやく目の前の料理を食べ始めることができた。
小鉢の中にはよくわからない魚の刺身と菜っ葉を巻いて味噌のようなものがつけられた料理が盛られていた。小さなその料理を箸でつまんで口に入れる。
繊細な味が口の中に広がる。・・・とても上品な料理だということがわかるが、下世話な料理になれている俺の舌には物足りなかった。それに量が少なすぎる。
コップを手に取って中のジュースをすすりながら社長さんたちの様子を見ると、料理には手をつけないまま仕事の話だか酒の話だかで盛り上がっていた。
何も話さずに料理を待っていても手持ち無沙汰なので、俺は向かいの人事部長に話しかけた。
「あの・・・それで、入社試験などはやはり秋頃に行われるのでしょうか?」
「ああ、そうだよ。だが、試験と言っても筆記試験はなく、面接が主だけどね」
「そうなんですか」
「既に年末頃から我が社で面接をして内定を出している学生もいる。・・・が、それで採用枠が全部埋まったわけではないし、何らかの理由で内定を断る学生もいるから、これから秋にかけて就職希望者の面接を追加で行っていく予定なんだ」
「そうなんですね」と答えたら、人事部長の話を耳にはさんだ社長が割り込んできた。
「いや、藤野くんには既に内定が出ているようなものだ。君の見識はほんとうに参考になった」
「そうですか?」・・・内定が出たと素直に受け取っていいのだろうか?と思っていたら社長がすぐに話を続けた。
「もっとも、例のママのことが的外れだったらどうなるかわからんがね」そう言って笑い出す社長。
とんでもないことになったと思った。俺の顔は青ざめていたことだろう。
「そうなったら営業部で引き取るから心配なく」と営業部長が俺に言った。
「財務部で企画案の査定をしてもらってもいいぞ」と財務部長もご機嫌で口をはさむ。
酒の席の冗談だとしても、目の前で値踏みされているようで落ち着かない。
「もてもてですわね」とおかみさんが言って、俺の半分しか飲んでいたいコップにジュースを注ぎ足した。
「いえ、冗談だと思います」と答えておく。
そのとき仲居さんたちが次の料理を持って来た。お造りだ。小さな皿に鯛らしき白身魚とマグロらしき赤身の魚のお刺身がちょっとだけ盛ってあった。
刺身の横に大根のつまが少量置かれ、大葉と、軸に小さな紫色の花がいくつもついたものが添えられていた。
「これは食べられるのかな?」と思いながらその花の軸を箸でつまんだ。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
桜田敏郎 毛武電鉄の取締役社長。
松木 仁 毛武電鉄の営業部長。
桐田昭夫 毛武電鉄の財務部長。
梅田三郎 毛武電鉄の人事部長。
黒田祥子 美知子の同居人。秋花女子大学三年生。
水上杏子 美知子の同居人。秋花女子大学三年生。
インスタントラーメン情報
日清食品/出前一丁(袋麺)(1968年2月発売)
サンヨー食品/サッポロ一番みそラーメン(袋麺)(1968年9月発売)




