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一話 就職指導部に行く

俺の名前は藤野美知子。生年月日は昭和二十五年五月十日。そして今日は昭和四十五年四月六日月曜日。


今日から秋花しゅうか女子短大の二年生になる。短大最後の学年だ。


俺が心の中で自分のことを『俺』と呼ぶのにはわけがある。


俺は元々昭和五十八年生まれの男だった。それがある朝目覚めたら昭和四十一年になっていて、しかも女子高生の藤野美知子になっていた(『五十年前のJKに転生?しちゃった・・・』参照)。だから心の中では『俺』と呼んでいるが、もちろん口に出す時は『私』と言っている。


また、俺のことを妖怪ハンターと呼ぶ友人がいる。妖怪の仕業と思われたような不可解な事件で、妖怪の仕業でないことを解き明かしたことがあるせいで、だからといって妖怪の実物に遭遇したことはない。霊感もない。


女子高生に憑依(?)してから約四年が過ぎ、短大に入学した俺は(『気がついたら女子短大生(JT?)になっていた』参照)、今日めでたく短大二年生に進級した。


春休み中は弟の武を大阪万博(EXPO’70)に連れて行くため、何件もの旅行会社を訪ねた。そしてようやく八月の初旬にホテルを押さえることができた。二名一室のツインルームだ。武が大喜びしたことは言うまでもない。


実は三月に俺は大阪に実家がある友人の誘いで大阪万博を訪れていた。だから八月の旅行は二回目となる。万博の各パビリオンの展示は面白いが、中へ入るためには長い行列に何時間も並ばないといけないので(それも八月の暑い日に!)今からげんなりしている。


それとは別に非常に気がかりなことがある。短大は二年制だから、今年が最終学年だ。就職活動をしなければならない。まだ四月だから早すぎるかもしれないけど、一応女子大の就職指導部に就活の始め方を聞いておこうと思い、俺は講義が終わると女子大の事務室に向かった。


就職指導部のカウンターで、中に座っている事務員の女性に声をかける。


「あの・・・すみません」


「何でしょうか?」とその事務員が俺の方を向いて聞いてきた。


「就職活動について教えてほしいのですが」


俺の言葉を聞いてその事務員は立ち上がった。そして事務室の傍らに置いてある小テーブルを指さして、


「そちらで話を伺うわ」と言った。


事務員に誘導されてテーブルに着く俺と事務員。


「私は就職指導部の相良さがらです。あなたは?」


「私は短大英語学科二年の藤野美知子と申します」と俺は言って頭を下げた。


「就職活動について教えていただきたいのです。まだ早いのかもしれませんが、どのように進めていくべきかわからないので、よろしくお願いします」


「よろしくね、藤野さん。・・・ただ、今就職情報を集めるのが早いと言ったけど、実は早くも何ともないのよ」と相良さんが言った。


「え?どういうことですか?」


「え・・・と、順を追って説明すると、大卒者の就職はこれまで大学の就職部が担ってきたの。会社から大学に卒業生採用の依頼が来てね、大学から適当な卒業予定者を推薦するの。一流大学だと一流会社の指定校になって、毎年決まった数の求人が寄せられるそうよ。その会社への就職希望者が多い場合は、大学で選抜を行って、優秀な学生を推薦するようにしていたの」


秋花しゅうか女子大学や短大もどこかの会社の指定校になっているのかな?と俺は思ったが口には出さなかった。


「昭和二十八年に大学と業界団体との間で就職協定というのが定められてね、大学から会社への就職の斡旋は十月から、会社の採用試験は年が明けてからということになったの」


じゃあ、まだ早いんじゃないかな?と俺は思った。


「ところが昭和四十年頃から高度経済成長期に入ったらどの会社も人材不足になって、就職協定よりも早めに大学生を採用する会社が増えてきたの。これを『青田買い』と呼んでいるわ。要するに、卒業までまだ期間がある学生を、稲穂が実る前のまだ青い稲に例えたのね」


『青田買い』という言葉は聞いたことがある。じゃあ、今は十月よりも早く採用の内定を出しているのか。


「新卒者採用の早期化はどんどんエスカレートしていってね、今では大学が斡旋するだけではなく、学生が個人で会社訪問をして積極的に就職活動を行うようになったの。最近では四大の学生は三年生の十二月頃から会社訪問を始め、三月頃、つまり卒業の一年前に内定をもらうことが珍しくなくなったの」


三月!・・・今は四月だ!俺は出遅れたのか!?


「あまりにも早すぎて、『青田買い』どころか『早苗買い』、『苗代買い』、『種モミ買い』なんて言われる始末よ。それはさすがに早すぎるだろう、大学での勉強がおろそかになるとの批判が多く上がったし、大学紛争が起こって予定通り卒業できない学生、つまり就職できない学生が増えたりして社会問題にもなっているけど、今年も卒業の一年前に就職が決まった学生が多いらしいわ」


相良さんにそう言われて俺は愕然とした。一流企業の求人などもう残ってないんじゃないかと。


「でも、これは男子学生の話よ」と相良さんが言って俺ははっとした。


秋花女子大学うちでは大学紛争もほとんどなかったし、女子学生は入社しても数年勤めただけで結婚退職する人が少なくないから、卒業年度の秋や冬でも、なんなら卒業式がある三月直前でも、採用が決まる女子学生は少なくないわ」


相良さんの言葉に俺はほっと胸をなで下ろした。


「とは言っても、入社希望の会社があるのなら、早めに会社訪問をして人事部の人に顔をつないだり、その会社に務めている先輩から社内の雰囲気を聞くなりして、準備をしておくに越したことはないわ」


「会社訪問は個人でするのですか?」


「就職情報誌を見て情報を集め、目当ての会社の人事部に電話をかけて約束を取り付けるんだけど、電話は私の方からかけてあげるから、訪問してみたい会社の目処がついたら私に言ってきて」


「ありがとうございます」俺は相良さんにお礼を言い、さっそく書架にあるリクルートブックと就職ジャーナルという雑誌を借りてめくってみた。


いろいろな求人がある。営業、経理、技術職など、求める人材は会社に寄って様々だが、ほとんどが男子学生を対象としたものだった。女子学生への言及はあまり多くない。数年で結婚退職する女性が多いから、消耗品扱いされているのだろうか?


その中で唯一「秘書」を募集している会社を見つけた。鈴山電機という大手の電子機器メーカーだ。十数年後に『ベルマウンテン』というブランドを作って、携帯やパソコンも製造・販売することになる。


俺は就職ジャーナルを持って再びカウンターに行くと、相良さんに声をかけた。


「あら、気になる会社を見つけたの?」


「はい。この鈴山電機という会社が気になりまして。私が志望している秘書職の募集もあるようなので」


「そこは確か二年前に就職した卒業生がいるわね。会社の人事部とその卒業生に連絡してあげるから、明日の放課後にまたここに寄ってくれる?」


「わかりました。どうぞよろしくお願いします」俺は相良さんに頭を下げて就職指導部を後にした。


下宿に帰ってから同居している祥子さんと杏子さんに就職指導部に寄ったことを報告する。


「そうなの。男子学生は三年の冬から就職活動をしているの」と祥子さんが考えこんだ。


祥子さんは現在秋花(しゅうか)女子大学の三年生で、学生サークルの英語研究会の部長もしている。


「先輩方は四年生になってから就職活動をしていたから、私はまだ何も考えていなかったわ。そろそろ考えておいた方がよさそうね」


「祥子さんはお父さんの会社の秘書になるんじゃないんですか?」


「父はそうしてほしいと思っているみたいだけど、私はほかの会社も調べて、条件が良さそうなところがあればそちらに入ろうかなとも考えているの」


祥子さんなら優秀だし、超美人だから、どの会社でも採用してくれそうな気がする。


「美知子さん、会社の雰囲気や先輩の話を私にも教えてね」


「はい、わかりました」


「杏子はどうする気?」と祥子さんが杏子さんに話を振った。


「私は会社勤めはしたくないわ」と杏子さん。


「家事手伝いをするの?大学を出たのに?」


「演芸評論家になって、雑誌に寄稿しようかしら?」と杏子さんが言った。


杏子さんは高校生の時には漫才師になりたいと言っていた。その野望は大学に進学してから薄れてきたようだが、それでも現在落語研究会の部長をしている。ちなみに落研おちけんの部員は俺だけだ。


演芸評論家志望は女芸人志望よりも世間の評価的にはましだと思う。女性の演芸評論家なんて注目されそうだが、はたして需要はあるのだろうか?




翌日の放課後、俺は再び就職指導部に顔を出した。俺に気づいて相良さんがすぐに立ち上がり、昨日座った小テーブルに導いてくれた。


「会社訪問の約束はとりつけたわよ。今週の土曜日の午前十時だけど、大丈夫かしら?」


「大丈夫です。その日は出なければならない講義はありません」


「じゃあ、会社の受付で人事部の高田さんという人と約束があるって言ってね。連絡がつくはずよ。履歴書を書いて持って行くのを忘れないでね」


「はい、ありがとうございます」


「それからその会社に就職している卒業生の南方久里子みなかたくりこさんとも連絡がついたわ。同じ日のお昼に会ってくれるって。高田さんとの面会が終わったら、また受付に言って連絡してもらってね」


「何から何までありがとうございます。来週、感想を報告しに来ます」俺は丁重にお礼を言って事務室を出た。




土曜日になった。


俺は起きて朝食をすませると、祥子さんと杏子さんに手伝ってもらって薄化粧をし、一張羅のワンピースを着た。この時代にはリクルートスーツなどはまだない。秋花しゅうか女子大学・女子短大では一応制服が決められていたが、昭和四十年代にはほとんどの学生が私服で通っていた。従って俺もスーツ、あるいは制服っぽい服は持っていなかった。


朝九時になると下宿を出た。電車を乗り継いで九時半には鈴山電機の本社の前に来た。五階建ての古びたビルで、有名企業が入っているとは思えない。


鈴山電機は現在電子卓上計算機や家庭用ビデオレコーダー、テレビなどを開発し販売していた。テレビはともかく、前二者は一般家庭ではなかなか買えない高価な商品だ。


俺はしばらくの間、会社を出入りする会社員の様子を観察した。みな早足で出たり入ったりしていて、活気のありそうな会社だ。


十時五分前になると俺は会社の正面玄関に入った。屋内もけっこう古びている。


正面に受付の女性が二人並んでいたので、俺はまっすぐそこへ向かった。


「あの、すみません」


「はい、当社にご用でしょうか?」と化粧をばっちり決めた受付嬢が答えた。俺も一応薄化粧をしてきたが(祥子さんと杏子さんに手伝ってもらった)、こんなにしっかり化粧しなくてはならないのかと恐れ戦いてしまった。


「はい。人事部の高田さんに面会をお願いした、秋花しゅうか女子短大の藤野と申します」


「それでは連絡しますので、そちらにかけてお待ちください」


俺は指示されるまま、受付の横の壁際にあるソファに腰かけて待った。


受付嬢は電話をかけ、二言三言話していた。そして受話器をかけると、俺に声をかけてきた。


「藤野様」


「は、はい!」俺は飛び上がるようにして立ち上がり、受付に近寄った。


「高田係長がお待ちしています。あちらのエレベーターで三階に上がり、人事部の部屋に入って中の事務員にお声がけください」


「は、はい、わかりました!」俺は受付嬢に頭を下げると、エレベーターの前に向かった。エレベーターのドア前には男性社員が二名ほど立っていたので、俺はその後に並んだ。


まもなくエレベーターのドアが開き、中から三人の社員が出てきた。入れ替わりに二人の社員が入る。俺もその後に続いて中に入った。


二階と四階のボタンを押す社員。俺は頭を下げながら横から手を伸ばし、三階のボタンを押した。


軽く振動しながら上昇するエレベーター。二階でボタンの前に立っていた社員が降り、エレベーターに入って来る人がいなかったので、俺はボタンの前に移動して「閉」ボタンを押した。


再びエレベーターが上昇して三階で止まる。この階でもエレベーターに入って来る社員がいなかったので、俺は頭を下げ、「閉」ボタンを押しながらエレベーターを出た。


エレベーターを出たところは無機質な廊下だった。壁に「←人事部」「総務部→」と書かれた木の板が張ってあり、俺はその矢印に従って人事部の方に歩いて行った。


まもなく「人事部」という板が貼ってあるドアの前に着き、俺はドアをノックした。特に返答はなかった。


俺はドアノブに手をかけるとゆっくり回し、ドアを静かに押し開けた。顔を隙間からのぞかせ、「失礼します」と声をかける。


室内には事務机が並び、多くの社員が机に向かって仕事をしていた。俺の方に目を向ける人は誰もいない。俺は意を決して部屋の中に入った。


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

相良須美子さがらすみこ 秋花しゅうか女子大学就職指導部の事務員。

黒田祥子くろだしょうこ 美知子の同居人。秋花しゅうか女子大学三年生。

水上杏子みなかみきょうこ 美知子の同居人。秋花しゅうか女子大学三年生。

高田聡太たかだそうた 鈴山電機の人事部員。

南方久里子みなかたくりこ 鈴山電機の事務員。秋花しゅうか女子短大の卒業生。


書誌情報


日本リクルートセンター(現リクルート)/リクルートブック(創刊時の誌名は『企業への招待』)(1962年創刊)

日本リクルートセンター(現リクルート)/就職ジャーナル(1968年7月創刊)


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