不貞腐れたフランス語に似てる
ブラジルのサテン音楽を聞いているとさっきから暖炉の前で不貞腐れた様子の娘が「フランス語に似てる。」と言い捨てた。僕もそれを特に拾って返すこともせず、その口を尖らせながらの発音がやけに記憶に残って、昨晩の出来事を泉のように思い出す朝を迎えていた。見上げれば天井が突き抜けたまま戻ってこない、空を埋め尽くすほど巨大な一個の白い雲が、僕の上に浮かんで微動だにしていなかった。今日一日の活力をすべて諦めるみたいに二度寝をかましたころ、娘にむりやり起こされると今朝は僕が不貞腐れる番を迎えることになっている。父と娘だけで家族をやっていこうなら、こういった絶妙なパワーバランスが要りようなのだった。
今目の前に座っているのが、ボタニカル柄の壁かボタニカル柄のシャツか戸惑いを隠せないほどにソイツの体型は壁のようだったし、シャツの柄もばあちゃんの家のトイレの壁から剥がしてきたようだった。おまけにソイツは感も鈍く、コーヒーを数滴溢してしまうほどの僕の動揺を見落としながらさっさと葬式の打ち合わせを始めてしまう。どうやらペットのトカゲの3匹が死んで、その3匹のために日本風の葬式が挙げたいらしい。
「本当にいいのか? 一応ここはオランダだぞ。さすがに葬式ってのは趣味で決められないだろう。亡くなった方の生まれた土地の作法に則るべきだ。」
そう助言を与えると彼はこっそり打ち明けるように
「……福島の公衆トイレで捕まえてきたんだ。」
そう言った。ならば問題ないと、さっさと日本風の葬式ができる葬式場を探して、打ち合わせは終わりを迎えた。
夜道を照らす電灯が二重にみえて、疲れ目はほとんど涙を錯覚させていた。葬式屋は意外と、一日中パソコンの前に貼り付いている。加えて接客もあるのだから、葬式屋の寿命はマンガ雑誌の編集に次いで短いらしい。二番手だからあまり話題にも上らないのがときどき悔しい。疲れはそんなくだらない悔しさもろとも日々、感情を薄めていった。電灯と頬に涙を錯覚していた。空には巨大な雲が一個だけまだ浮かんでいた。
家に帰ると、娘が暖炉の前で温まっていた。「おかえり」「ただいま」なんて綺麗なんだろう。自分の娘にそんな言葉しか思いつかない上に大した暮らしもさせてやれない。でも僕はこの子のためにも居てあげなくてはいけない。パワーバランスは崩れかかっている。順調そうに見えていた歯車が狂いだすと、生きることにグルーブなど存在しない。一周も百周もない。ただひたすら見えなくなるところまで一次元の世界が続いていくことが、そのまま今の僕の力不足を示しているみたいだった。今ならなにを見てもそう捉えたかもしれない。現実逃避の火種などなんでもよかった。あらゆる気持ちが人間のクリエイティブの範疇に過ぎない。病は気からという日本語をオランダ語に訳すとこんなにも膨大になってしまう可笑しさが、ちょっとだけ僕に回復の兆しを見せるようで閉じていた視野は広がりをみせ、暖炉の明かりが娘の顔を照らしている。
娘は教科書を開いてスペイン語の練習をしていた。発音に乗じて、唾を飛ばしまくる遊びを編み出している。その様子をみると僕にはなぜか、娘を長く待たせてしまったという感覚があった。今すぐにでも学校の話とかを聞きたかった。でも2者間のコミュニケーションにおいて感傷的になり過ぎるための権利が、法外に高く設定されていることを実によく知っている身としては、あとしばらくはトイレに入って時間を潰して、夕飯への遅刻で一回娘に怒られてから親子の会話を始めようと思った。