ありがとう。
まさかこの歳になって高校生に勇気づけられるなんて思いもよらなかった。忘れて欲しい。その言葉はずっと心の奥底で僕が欲していたものだったのだ。
彼、園田くんはよくわかっている。もしかしたら、園田くんにも忘れられない過去があるのかもしれない。
清は心を落ち着かせるために深く深呼吸すると、思い切って扉を開けた。
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図書室の扉がいきなり開く。園田さんかと思ったが、違った。そこには忘れもしない、忘れるわけが無い。忘れてはいけない人がそこにいた。
「清、さん……」
「千代……」
随分と時間が経ったらしい。あの頃からだいぶ歳をとったようだ。でも一目で清さんだとわかった。スラッと背が高くて、メガネはコンタクトにしたみたいだけどその綺麗な目は変わらない。
「清さん、私……」
数年越しに見た千代はやっぱり綺麗だった。昔と何一つ変わらない。どこか吸い寄せられるようなその声、ずっと聞きたかった声、懐かしい思い出が走馬灯のように脳裏に走った。
「ごめんなさい!私、病気のこと黙ってて。さよならも言えずに、、」
「いいんだよ、その事はもういいんだ。」
「でも、」
むしろありがとう。黙っていてくれて、ずっと僕を縛ってくれて、おかげで毎日のように君を思い出せたから。だからこそ
「千代、僕の方こそごめん。君を好きになって、そしてありがとう。また僕の前に現れてくれて、」
この過去を忘れる機会をくれて……
好きとかどうとか関係ない。今、もう二度と会えないと思った人が目の前にいる。私に最後に素敵な思い出をくれた人。その人が今私に会いに来てくれたのだ。清さんが、私に会いに来てくれたのだ。だからこそ
「私の方こそ、ありがとうございます。私に会いに来てくれて、」
今まで忘れないでくれて……でも、
今日で私の事はちゃんと忘れてもらおう。記憶の片隅に置いていてくれればそれでいい。時々思い出してくれればそれでいい。毎日じゃなくていいんだ。本当に時々、ふとした時に気まぐれでもいいから思い出してくれればそれでいい。
「私、言いたいことがあるんです。」
「うん。」
「これは私の自意識過剰かもしれない。思い込みかもしれない。でも、それでももし、あなたがずっと私のことを思っていてくれていたのなら……私のこと、忘れて欲しいです。前を向いて生きて欲しいです。それでもわがままを言うなら、時々思い出してください。私は、それでいいので。」
清は少し間をおいて答えた。
「………………嫌だ。」
「え?」
「嫌だ。」
忘れて欲しい。それは僕が何よりも欲しかった言葉のはずだった。だけど、彼女は僕に忘れさせてはくれないらしい。彼女のこんなに悲しげな表情は初めてみたから、そんな顔をして自分の事は忘れて欲しいなんて言われたら、もう自分の事なんてどうでも良くなった。
これは僕の自意識過剰かもしれない。思い込みかもしれない。でも彼女が心の奥底で「忘れないで欲しい」と叫んでいるように見えた。ただそれだけで言葉は口から勝手に出ていた。
「毎日、思い出すよ。君のこと、一生忘れない。」
「なんで、」
「君のことが好きだったから。」
ああそうだ。きっと、これを言うために僕はここに来たのだ。そのために僕は今日まで生きてきたのだ。
「……いいんですか?」
「うん。」
「本当の本当にいいんですか?」
「うん。」
千代の目には涙が浮かんでいた。悲しくて泣いているわけでも嬉しくて泣いているわけでもない。ただ勝手に涙が流れてきた。きっとそれはこの数年分の時間と、思いと、記憶と、感情の結晶だった。
おそらく、これでお別れだろう。そう直感が伝えていた。彼女の涙がそう伝えていた。最後に伝えるとしたらなんだろうか?答えは決まっている。
「ありがとう、じゃあね。」
「ありがとう、ございました……」
佐藤さんは少し間をおいてから言った。
「さようなら。」
次の瞬間、佐藤さんは姿を消していた。残ったものは何も無い。ただほんの少しの静寂と何かを無くしたような喪失感が図書室に残された。
一瞬の時間だったが、2人は確かに繋がって見えた。そしてもう、それは離れることは無い。清さんは優しい目をして佐藤さんがさっきまでいた場所をしばらく眺めたあと、
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。」
そう言った。




