第十八章 空飛ぶ“逆さ死体”
半開きの自動ドアを潜った先の岩土通路は、大人二人が横並びで歩ける幅が有った。ヘンリエットの予想通り変わらず“光る石”が点在している。その約十メートル先に、上の段に行くに連れ横幅が広くなっている階段が見える。二人は警戒しつつ階段を途中まで登った。既に見えている手前側の高い天井からして大広間で有る事が予測出来る。二人は最上段ギリギリの所から顔を出してその先を覗いた。
「んっ?」
字矢は、大広間の正面突き当りの壁辺に黒い人影を見た。だがその人影は、瞬時に壁の向こうに吸い込まれた様に見えた。
「あぁ…こ、これは…やっと見つけた!間違い無い、此奴だ!」
大広間のほぼ中央の天井を見上げながら興奮気味に叫ぶヘンリエット。その声に字矢も反応した。同じく天井を見上げると、
「?!何だ、これは…動かない様だが、何かの死体なのか?」
そこには、人の倍の大きさは有る、化物の死体らしき物が十数本の太い鎖に依って、大広間の高い天井から吊るされていた。
「いや、恐らく何かの封印で動かない様にしているだけだ。いつ封印が解けるか判らない。アザヤ、詳しい話しは後だ。我等二人だけで此奴の相手をするのは得策では無い。直ちにこの場から出るぞ!」
「あぁ、そうだな。たが妙だ、一瞬だけ突き当りの壁の向こうに消える人影を見た。ヘンリエット、気付いていたか?」
「いや、天井に気が行っていたからな…とは言え、通常なら気付く。その者、気配を消していたのだろう。」
二人は突き当りの壁を急ぎ調べた。すると、壁の一部に何かの紋様が刻まれた石板が嵌められていた。触って見たが何も起こらない。外す事も出来なかった。更に壁を調べたが、
「駄目だ、扉もパネルも無い。」
「魔法を用いて直接出入りする様だ。この石板も使うのだろうが、私ではどうする事も出来ない。致し方無い、急ぎ、もと来た道に戻ろう。」
「分かった、行こう。」
二人は吊るされている化物には目もくれず、一目散に半開きのドア目掛けて走った。階段を降り、岩壁の通路に差し掛かった所で、
「?!」
ヘンリエットの足が急に止まると、
「アザヤ止まれ!」
何かに気付いたヘンリエットが叫んだ。
「どうした?うっ?!此れは…。」
足を止めた字矢も、通路の天井の異変に気付いた。
「アザヤ下がれ!戻るぞ!」
轟音とそれに混じって金属の軋む嫌な音が響いた。後退りを始めた二人は、先に有る半開きの自動ドアと周りの金属の壁が、天井からの岩に、脆く拉げて押し潰される様を目にする。
「?!クソッ!」
「急げ!」
二人は、回れ右と同時に全力疾走で再び大広間を目指した。背後で轟音が響く。たが、進む先の岩壁や天井が崩れる様子は無い。二人は階段を登り切った所で足を止める。自然と字矢の視界に大広間の天井が入って来た。変わらず死体の様な化物が吊るされている。それは正しく、アポレナ王妃が“異界の高師”から預けられた“高貴なる逆さ天使”に他ならない。
「どうやら崩れた岩はドア周りだけの様だな。幸いでは有るが、閉じ込められたな…。」
たった今、駆け上がって来た階段の下の方を見ながらヘンリエットが呟いた。
「あぁ、その様だ…。それにしてもこの化物、いつ動き出すか判らない。やり合うしか無いのか…。」
「アザヤ、気付いていたか?」
ヘンリエットは、異形の化物を囲む様に大広間の端に配置された、三本の水晶柱をそれぞれ指さしながら字矢に尋ねた。
「あぁ、やたらと光っているからな。始めてこの部屋に来た時に目には入っていた。何だ、あれは?」
「確証は無いが、恐らくはこの化物を封印している代物だ。見渡す限り他に封印らしき物は無い。砕けるか或いは輝きを失うかした時、此奴は目覚める。」
字矢は三本の水晶柱を交互に睨みながら、背中のバックパックを、階段横の壁に立て掛ける様に地面に降ろした。片膝を付いて自動拳銃を始め装備の確認をした。予備のガスマスクを装着。バイザーを下げると、バックパックからスナイパーライフルの各パーツと装填済のマガジンを三つ取り出す。組み立てながら、
「ヘンリエット、さっきの様子だとあの化物を探していた様だが…奴の能力とか弱点とか、判るか?」
「残念ながら弱点は判らない。能力も不明だ。判っている事は、あの異形の化物は大勢の人間を食い殺す為に異空間から送り込まれた事。その目的は同じ異空間に住む邪悪な魔導士共が、この人間界で自由に行動を可能にする為だ。奴等は人間界では数時間しか生きられない。この世界では奴等の事を“異界の妖魔導士”と呼んでいる。“異界の妖魔導士”共はこの化物が食い殺した人の魂を何らかの方法で自らの身体に取り込む。それにより人間界で肉体を維持出来る様になるらしいと言う事だけだ。」
「その“異界の妖魔導士”とか言う連中を全員始末すれば解決すると言う事か?」
「いや、そうでは無い。“異界の妖魔導士”は無数に現れる。我等も今までに数え切れ無いほど倒して来た。だが、人知れず現れては、影で残虐行為を行っている。元はと言えば、人間界で手引きした者が居る。その者が居なければ、“異界の妖魔導士”共は人間界の存在も知らなければ、行き来する事も出来なかった。そう、今も尚、手引きし続けている其の者こそ災いの元凶で有り、我等ラグザスタンが長年敵対している者だ。」
「厄介な相手の様だな、何者だ?」
「この国の王妃だ。」
「どう言う事だ?国ぐるみの企みって事か?」
「この件に関して言えば、国王は関与していない。何方かと言えば、王妃の企みを妨害する側だ。たが、だからと言って取り締まる訳でも無い。」
「治安が機能していない。ろくな国じゃないな。それにしても、一番偉い筈の国王が踏みこんでまで手が出せないって事か…その王妃様はそんなに強いのか?」
「アポレナ・クルプコヴァー王妃、人間界最強の正魔導士だ。過去の数ある戦乱、中でも魔物共との戦乱を終結させたとされている。また、この国の国王であるルドバリンは、確かに大器である上に、常人では真似できぬ政治手腕を持ってはいる。だが、何を考えているか全く判らない男だ。何せアポレナが”生来の邪悪な者”である事を承知の上で、十数年前に妃として娶ったのだからな。我らラグザスタンとしては、国王も信用していな…!」
二人は話しながらも、水晶柱と天井の化物を交互に警戒していた。しかし、二人の会話が途中で止まった。三本の水晶柱の輝きが消えたからである。
「?!」
ヘンリエットの予想は的中した。天井の化物がゆっくりと藻掻き始めた。戦慄が走る。二人は咄嗟に各々の武器を構える。吊るしている鎖のジャラジャラとした音が部屋中に響いた後、鎖が切れる様な複数の大きな音がした。それでも尚、化物は残った鎖にまだ吊るされたまま藻掻いている。だがその時、非ぬ方向から字矢に向かって切れた数本の鎖が鞭打つ形で、且つ異常な速さで迫って来ていた。
「何?!」
無数の金切り音が大広間に響いた。その音で字矢は初めて、自らが鎖に殺されかけた事に気付く。既にその複数の鎖は空中で細切れとなり、耳障りな音と共に地面に落ちていた。寸前で鎖を粉砕したのは、ヘンリエットが手にする二本の剣である。
「アザヤ、無事か?」
「あぁ、済まないヘンリエット、助かったぜ。…それにしても、愈々だな。」
字矢は既に組み終えたスナイパーライフルをスリングで肩にかけると、入れ替わりヘンリエットから預かったアサルトライフルを構えた。
間もなく地響きと共に、天井の化物は地面に叩きつけられた。鎖の呪縛から完全に解放されたのだ。それでも尚、藻掻いている。
鳥の様な翼と虫の様な羽根が、開いたり閉じたりを繰り返している。翼と羽根が開く度に、灰色の部分と紫色の部分が入り交じった腐敗したような表皮が見え隠れしていた。字矢は構わず化物に向けてセミオート状態のアサルトライフルを放った。殆どが羽根と翼に着弾した。同時にその傷から青い体液が吹き出てはいる。だが、効いている様には見えない。それどころか、
「クソッ、あの死人みたいな面の頭、弾が効かねぇ!」
頭部にも何発かは着弾した。だが、傷一つ付ける事無く、虚しく地面に落ちた。
「やはり本体の急所らしき所を探すしか無いか。」
ヘンリエットは二本の剣を構えながら静かに呟いた。
「身体を覆っている鳥と虫の羽根が邪魔って事だな。」
化物を睨みなら応えた字矢に、ヘンリエットが、
「そうだ。だが体幹が現れた時こそ、奴が完全に目覚める…。」
「?!」
再び二人の会話が止まった。対面の壁が、今度は以前より広範囲に音も無く消えたからだ。その向こうに複数の幅広の通路が現れた。次の瞬間、その消えた壁の右端、二人が閉じ込められた際に確認した石板らしき物が、アサルトライフルの銃声と共に砕け散る。粉砕された石板が地面に広がる頃には、壁が元通りになっていた。
「アザヤ、今の…!」
「悪いヘンリエット。だが当たりだったな。壁が元通りだ。奴に逃げられたせいで人が死んだら、寝覚め悪いからな。何より悪党共の思い通りになるのは気に入らねぇ。」
「そうだな、アザヤの言う通りだ。来るぞ!」
先ほどまで藻掻いていた化物は、翼と羽根を広げ、ゆっくりと数回羽ばたかせながら、吊るされていた時と同じように逆さまの状態で宙に浮いた。角などの人らしからぬ部位は別として、羽根と翼に隠れていた体幹の様相もまた死体の其れであった。
「?!この“逆さ死体”野郎、本当に逆さまの状態で飛んでやがる!」
字矢は叫びながらアサルトライフを連射していた。だが、字矢が引き金を引くとほぼ同時に、“逆さ死体”の足に刺さっていた複数の白い杭が飛来、二人に襲い来る。その内、二本は字矢の放った五・五六ミリNATO弾に依って撃ち落とされた。迫り来る残りの杭も全て空中で粉砕していた。先ほどの鎖同様、二本の剣を手にするヘンリエットの神業に依るものであった。
「…私が囮になる。奴の攻撃も剣で防ぐ。アザヤは距離を取り、狙撃に徹してくれ。何としても奴を倒すぞ!」
空になったマガジンは既に地面に落ちていた。字矢は、ヘンリエットから預かっていた予備のマガジンをアサルトライフルに装着、コッキングハンドルを操作しながら、
「あぁ、勿論だ!任せろ!」
字矢の返事が終わるや否や、ヘンリエットは“逆さ死体”に向けてジグザグに走り出した。字矢にも十分見える速さでは有るが、それでも人間では不可能な速さである。“逆さ死体”の注意を引き付ける為、”近付き、切り付けて、離れる”攻撃を繰り返している。ある意味、余裕の有るその動きは、優雅でさえある。
最初は解けて伸びた両腕の鎖を、デタラメに振り回していた“逆さ死体”であったが、ヘンリエットに隙をつかれ、その鎖を破壊されると、両手の鋭い爪でヘンリエットに急速に襲いかかって来た。ヘンリエットの二本の剣と“逆さ死体”の両手の爪が幾度と無くぶつかり合う。その度に火花が散るのが見えた。激しい動きの中でも“逆さ死体”は常に空中で逆さまの状態である。
「予測はしていたが、此奴に魔法は効かぬか…。」
ヘンリエットは立ち回りながら、攻撃系や敵能力低下系の魔法を念じていた。だが、何も起こらない。どうやら“逆さ死体”の周囲では効かないどころか、魔法自体を発生させる事が不可能の様だ。
字矢は走りながら“逆さ死体”に向けてアサルトライフルを掃射。頭以外の穴の開いた部分からは、紫色の体液が吹き出すが、直ぐに止まる。怯む様子は無い。“逆さ死体”は身体を字矢の方を向けると同時に、両足に残っていた全ての白い杭をヘンリエットに放った。まるで弾幕の様に幅広く飛来する白い杭を、素早い動きで避けながら二本の剣で粉砕する。
「?!」
間髪入れず、“逆さ死体”の腹部に有る大きな唇の様な横溝が上下に開くと、中から人の腕くらいは有る、大きな毛虫の様な物が複数、字矢目掛けて飛び出す。咄嗟に横に飛び避けた字矢は、アサルトライフルを掃射。地面に着地し、蠕動運動を繰り返しながら襲い来る毛虫共を一掃した。
再びヘンリエットの二本の剣と“逆さ死体”の両手の爪との競合いが始まる。その隙に、字矢はアサルトライフルのマガジンを交換後、即座に“逆さ死体”の体幹に連射。放たれた五・五六ミリNATO弾は、体幹表面に当たるだけで無く、開いたままの”腹の口”の中にも入った。すると“逆さ死体”は空中でグラついた。ヘンリエットが斬り掛かる。が、急激な速さで此れを交わすと、“逆さ死体”はそのまま、大広間中央の天井近くに移動。頭部と両羽根以外の全身の皮膚に無数の細い突起が現れた。その全ての突起が鋭く尖ったかと思うと、次の瞬時、大広間全体の壁に何かが当たる様な複数の音が響いた。見ると“逆さ死体”はまるでハリネズミの様な姿になっていた。しかも、全身から突き出ている無数の針は長く、全て大広間全体の壁や天井・地面に完全に突刺さっている。
字矢とヘンリエットは…健在である。針に貫かれてはいない。ヘンリエットが字矢の前に立つ形で二本の剣を手にしていた。二人が立つ場所だけは針がない。此れもまた、ヘンリエットの二本の剣が、瞬時に針を切り落とした為であった。地に落ちた針は既に塵と化していた。とは言え、ギリギリである。二人共に身体の両側を複数の針に囲まれている。また、字矢がいま手にしているのは、スナイパーライフルである。先ほどまで手にしていたアサルトライフルは、原型が留めて無い程のバラバラの残骸と化して地面に落ちていた。
針だらけの状態では有るが、幸いにも“逆さ死体”の”腹の口”が見えていた。字矢はその開いたままの口の中目掛けて、スナイパーライフルを撃った。三発の七・六ニミリNATO弾がその中に吸い込まれると、部屋中の針が消えた。瞬時に引っ込めたのだ。“逆さ死体”は身震いしながら、ゆっくりと降りてくる。それを迎え討つヘンリエット。振り翳して来た“逆さ死体”の両手首を、ヘンリエットの二本の剣が切り落とす。字矢は移動しながら、続けざまにスナイパーライフルを撃つ。斬り掛かるヘンリエット。“逆さ死体”は切断面から紫色の体液を垂らしながら、更に激しい身震いをすると、次の瞬間、大きく開いた”腹の口”から赤い気体の様な物が勢い良く、且つ広範囲に吹き出した。
「ヘンリエット!クソッ、今度はガスか?!」
字矢がガスマスク越しに叫ぶ。
「ウッ!…グッ…。」
ヘンリエットは、そのガスを正面からまともに食らっていた。“逆さ死体”は宙空に留まったまま、尚もガスを吹き出し続けている。瞬く間に大広間内は赤く染まった。
(何?!吸血鬼にも効く毒だと!)
自らの体調の変化でガスの正体に気が付くと、字矢の近くまで飛び退いたヘンリエット。そして、叫んだ。
「アザヤ!ガスマスクは絶対に外すな!」
「あぁ、分かっている!大体想像が付くからなぁ。それよりもガスのせいで何も見えないぞ!マズイな…。」
空の弾倉にスナイパーライフルの弾を装填しながら応える字矢。改めて戦慄が走る。改造ヘルメットから首周りの防具に掛けて気密が保たれているとは言え、何れは服や防具の隙間から毒ガスが侵入する。皮膚に触れる前に“逆さ死体”を倒して、この大広間から脱出しなければならない。
「間に合うか?…。」
ヘンリエットは呟きながら懐から“八角形の鏡”を取り出した。更に“呪いの黒い剣”の側面を“逆さ死体”に向け、“八角形の鏡”を重ね合わすと、
「…『汚職のシミター』よ、今こそ呪いの力を示せ…。」
言葉と共に念じるヘンリエット。すると、重ね合った『汚職のシミター』と“八角形の鏡”が一瞬、まるで乱れた画像の様に歪んで見えると、周囲の赤いガスが『汚職のシミター』の刀身に、物凄い勢いで吸い込まれて行く。程無く“逆さ死体”の”腹の口”からのガス放出は止まり、数秒の内に大広間内の赤い毒ガスは全て消えていた。
「…ゲルキアン、お陰で助かったぞ。」
ヘンリエットは“八角形の鏡”を懐に収めながらそう呟くと、その場で胸を押さえながら苦しそうに立ち止まってしまった。視界が開けたと同時に字矢は、ヘンリエットを気にしながらも、変わらず羽ばたきながら宙空で静止している“逆さ死体”の”腹の口”への狙撃を再開する。着弾と同時に身震いする“逆さ死体”。身震いが治まると、頭に有る通常の口が大きく開いた。喉の辺りが一瞬だけ太くなったかと思うと、口の中から十数個の目玉が現れた。
「?!また目玉か…待てよ、奴の急所も、あの目玉の束なのか?!」
字矢は“逆さ死体”の顔正面に廻ると、ダメ元で目玉を連続で狙撃。すると、目玉が一つ破壊される度に、更に激しく身震いする“逆さ死体”。宙空での高度も徐々に下がって来ていた。字矢は即座に空の弾倉をリリース、予備弾倉を装着すると狙撃を続けた。
目玉を半分ほど破壊した時、ヘンリエットの姿が消えた。何かに気付いたのか、苦しいにも関わらず無理をして動いた様だ。と、字矢がそう認識した時には、目の前の光景が様変わりしていた。“逆さ死体”は低い高度にいる事など構う事無く、先程と同様にハリネズミ状態である。字矢の左右は長く伸びた針に遮られて居るが、字矢自身は針に刺されてはいない。言うまでも無くヘンリエットが瞬時に切り落としてからである。ヘンリエットは、字矢の目の前に二本の剣を手に立っては居るが、先程と違い身体が左横を向いている。そのヘンリエットの姿を見て字矢は凍り付いた。腹筋の辺りが真横に裂けていて、腸の一部が飛び出していたのだ。
「ヘンリエット!!…そんな…やられたのか…。」
絶望感すら感じる声で叫んだ字矢に、ヘンリエットは不気味な声で応える。
「私はクィーン・ヴァンプだ。心臓又は頭にさえダメージを受けなければ、例え胴体が切断されようが死ぬことは無い。気にせず狙撃に集中しろ。」
ヘンリエットは既に覚醒状態に有った。大きく見開いた両眼は真っ赤に光り、上下の牙は口から剥き出し、顔全体が恐ろしい形相になっていた。字矢はヘンリエットの声を聞いて初めて顔の変化に気付いたが、大して驚かなかった。寧ろ字矢の中ではイメージ通りの“本気の吸血鬼”その物だからだ。何よりヘンリエットの不気味ながらも、凛とした言葉で字矢は完全に気を取り直していた。
この時既に“逆さ死体”が切り落とされた複数の針だけを瞬時に復活させては、ヘンリエットがそれを切り落とす。この攻防をヘンリエットと“逆さ死体”の間で何度も繰り返していた。人間には認識不可能な速さの為、字矢には気付く事が出来なかったのだ。字矢は身体に違和感が有ったが、気にせず狙撃を続けた。
残りの目玉を破壊するのに十秒と掛からなかった。最後の目玉を破壊した途端、大広間内の針は全て消えた。目玉の束が急所と予測したのは当たりだった様だ。“逆さ死体”は狂った様に首を振り、羽根と翼をバタつかせた後、遂には地面に頭から落ちた。地響きと共にうつ伏せに倒れる。全身から水蒸気の様な物が上がると、地面にはコールタールの様な極めて粘度の高い液体の様な物だけが残った。ヘンリエットの二本の剣が音を立てて地面に落ちる。
「…アザヤ、無事か?…わ、私は毒を喰らい過ぎた様だ…。」
ヘンリエットはそう言うと、裂けた腹部を片手で押さえながら、その場で横向きに倒れた。毒のせいで吸血鬼本来の回復能力も機能しなくなっていた。その顔は既に、覚醒前のクールで美しい顔に戻っている。
「ヘンリエット!…クソッ…ハァ…ウッ、ウヴッ…。」
叫ぶ字矢であったが、今になって自らも激痛と異常な怠さを感じていた。無意識に両手で脇腹の辺りを押さえると、その場に片膝を付いた。すると、自らの腹部から膝を付いている地面に掛けて、血塗れになっている光景が眼に入った。傍らの地面に落ちたスナイパーライフルも同様の状態である。この時、字矢は急所こそ外れてはいたが、“逆さ死体”の針に身体を貫かれていた事に漸く気が付いた。死が迫るのを感じる。両足の力が抜けて遂には地面に仰向けで倒れた。字矢は手を震わせながらも急いでガスマスクを外すと、
「ゲホッ、グフッ、グフッ…。」
横を向いて口から吐血。体の力が抜けて行く中、
「ウゥ…お師匠…すまねぇ…言い付け…守れなかったぜ…。」
血塗れの口は、言葉を発した為、血と唾液混じりの泡だらけとなっていた。吐血時の血液が鼻からも溢れていた。息苦しさの中、口で数回ほど大きく息をすると、字矢は意識を失った。
静寂の中、“逆さ死体”の残骸である黒い粘液、そして、倒れた字矢とヘンリエットを含めて、大広間全体を天井に有る複数の大きな“光る石”が変わらず照らしていた。そう、“光る石”は“逆さ死体”の針を物ともしていなかったのである。
字矢が意識を失ってから、数秒もしない内にその静寂は破られた。轟音と共に壁の一部に穴が開いた。壁を構成していた岩土、それと小さい複数の“光る石”が大広間内の地面に広がる。ゲスレムが出て行った壁側とも字矢達が入って来た階段側とも違う壁だ。本来ならその衝撃で周囲も崩れそうな物だが、衝撃を周りに伝える事無く、目的の物だけ破壊する事が可能な何かを使用した様だ。その壁の穴の向こうから何者かの姿が。
「あぁもう!あの気違い魔女、どうやったらこんな場所に隠せるのよ!」
ラグザスタンを束ね者、ユルザ・ソホヴァーは大広間内に足を踏み入れるなり、苛つきながら叫んだ。相変らず全身を身体の線がハッキリ判る紅色の女性用極薄軍用宇宙服に身を包んでいた。更には、手に構えている、身の丈程は有る銃砲の様な物が一際目立つ。全体が銀色に輝くそれは、所々に緑色のランプが点灯している。銃砲の前方半分を占める銃身と思われる部分から、数センチの隙間が空いた状態で、囲む様に複数のガードフレームの様な物が並行に配置されていた。
ユルザは、この銀色に輝く銃砲を用いて壁を破壊したのだ。この大広間の壁だけでは無い。ルート違いの数か所の壁を破壊して強引にこの場まで辿り着いたのだ。ユルザは、“鏡”の術で連絡を受けてから直ぐにアジトを出発していた。ヘンリエットが字矢と共に赤色照明の通路を歩き始めた頃だ。その後、この大広間で捜し物である“逆さ死体”を発見したヘンリエットは、驚愕しながらも、念の為に懐に手を入れたまま“八角形の鏡”を用いてユルザに発見地点の報告をしていた。丁度、字矢が大広間から出て行くゲスレムを見かけた時である。
程無く、心地良い静かな電子音と共に銀色に輝く銃砲の緑色のランプが消灯し、複数のガードフレームが銃身に貼り付いた。
「此れは…。」
地面に広がる黒い粘液と倒れている二名の人物の姿がユルザの目に入った。その内の一人がヘンリエットだと気付くと、疾風の如き速さで駆け寄る。銀色に輝く銃砲を構わず地面に放り出すと、傍らに膝を付き、ヘンリエットの上体を両手で抱えながら、
「ヘンリエット!あぁ…遅かった…。」
失意の中、気密ヘルメットの遮光バイザーの下で涙を流すユルザ。だが次の瞬間、ヘンリエットの身体が震え出した。
「ゲホッ、ゴホッ、ゴホッ…。」
咳込むと同時に目覚めるヘンリエット。
「ヘンリエット!」
「ユルザなのか?ハァ…、ハァ…、私よりアザヤを…。」
そう言われたユルザは、ヘンリエットの直ぐ側で、口と鼻にから血を流して倒れている男を見て、
「アザヤって…えっ!この装備、ゲルキアンが言っていた彼なの?!ヘンリエット、会えたのね!」
「その通りだ…彼のお陰で倒せた…いや、アザヤがいなければ…見つける事すら出来なかった…。」
そうユルザに告げると、ヘンリエットは再び気絶してしまった。ユルザはヘンリエットを地面にそっと寝かせると、自分のグローブを外して、字矢の首に指を当てた。
「まだ脈が有るわ。」
お尻の少し上の辺りに取り付けている、大きめのウエストポーチからハーネスの様な物を取り出すと、それを利用してヘンリエットを背負う。しっかり固定されている事を確認すると、大広間内を瞬時に見渡した。
「回収しないと…。」
地面に落ちていた字矢のスナイパーライフルをスリングで左肩に掛け、階段脇の字矢のバックパックも左肩に掛けた。更に左脇でしっかり字矢を抱え、右片腕のみで銀色に輝く銃砲を構えると、
「冗談じゃないわ、二人とも死なせないわよ!」
凄みの有る静かな叫びを放つと、そのまま壁をぶち破って来たルートからアシドへと戻って行った。その動きは、極めて無理の有る体勢にも関わらず、疾風の如き素早さである。遮光バイザーの下の顔は、イルヴィニ達には到底見せる事の出来ない顔になっていた。