エヴァが目ざめるときを読んで得も言われぬ感情になった話
オラ、アミーゴ☆三屋城です!
今回は、私が昔読んだ本で、記憶に残っている作品の紹介です。
え?忘れることがあるのか??
そうなんです。
私の記憶はもう、ほぼ断片しかありません。
旅行などの記憶も、シナプスの海に沈んだら、なかなかさらうことが難しい状態です。
忘れてしまっている、と言っても過言では無いと個人的に思っています。
私は、それを少し寂しいなと感じていました、割合人は作品や昔の思い出などを記憶しているようなので。
私は何故、忘れてしまうのでしょう。
友人達が幼少期の思い出話や、数年前に見た作品の詳細・感想に花を咲かせる中。
ちょっとしたことしか言えない自分をつまらなく、またどこか情けなく思っていました。
けれど先日、とある言葉を見ました。
引用はじめ――――――――――
勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記あんきしている事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!
引用おわり――――――――――青空文庫 太宰治『正義と微笑』より
忘れていい、こころが広ければ。
なんと翼のある言葉なのでしょうか。
語ることのし難い私を、掬い上げてもらったかのようでした。
そんなわけで、詳しく話せない私ですが。
気にせず、覚えてる限りを感想として綴ります。
お付き合いいただけたら嬉しいです。
本のタイトルは『エヴァが目ざめるとき』
ピーター・ ディッキンソン 作
唐沢則幸 訳
徳間書店から出ています。
この本との出会いは図書館でした。
あらすじを読んで、借りて帰ったように記憶しています。
昔はたくさん本を借りて帰るのが常だったので、いつ頃だったかは曖昧です。
主人公は10代の女の子。
お父さんは確か研究者で、ある時めざめたら、チンパンジーの体になっていました。
戸惑いの中、チンパンジーの群れの中で暮らし始めた主人公は、様々な出来事から立場の違いなどに気づいていっていたように思います。
最後に主人公は自身の宿命をどう受け止めるのか。
夢中になって読みました。
チンパンジーがどう暮らしているのか、群れの中の人間関係ならぬチンパンジー関係とは?
などなど、興味が尽きない内容だったとは思うのですが。
残念ながら、どんなエピソードがあったかは、忘れてしまっています。
舞台は、お父さんが関係している研究施設だったかと思います。
読後感は呆然とするというか、放心に近かったような?
ご興味持たれた方は、図書館や通販で探して読んでみてください。




