文責についてのあれこれ
なんか不思議な声が、あっちゃの方から聞こえてきたのでお答えしたいなってことで。
エッセイについてはノンフィクションです。
勿論ぼかす情報もあります、生活に影響が出てはいけませんので。
けれども、核となる内容については起こった出来事です。
近年はそこもフィクション(多分厳密に言えば周りやネットで起こった出来事を自分ごとのように語る等の半フィクションの場合が多い?)だったりする場合もあるようですが。
私はそんな面倒くさいことしません。
半分日記だったり文章の練習だったり、も兼ねていますし。
なら「小説家になろう」が作品最後に必ずつけてくれている文言。
「+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。」
これはどうなるんだ?
と思う方がいるのを知ったのでちょっと解説してみます。
フィクション系のお話なら文章はそのまま、素直に受け取って良いと思っています。
問題にされたのは、ならノンフィクションであるはずのエッセイは?というところだとは思うのですが。
「特に記載なき場合」のところが、作品のジャンルで「記載がある場合」となります。
要は、「エッセイジャンルに投稿したからノンフィクションですよ」ということです。
「エッセイジャンルに投稿した」が、「記載」となる訳ですね。
そういうわけで、名前も出しキチンと文責は負っていますし。
引用も規則等にのっとってやっているつもりなのです。
ツイートの引用については調べたりもしました。
勿論、足りない部分は通報され運営から連絡が来ましたら直す気がめちゃくちゃあります。
そして実際通報されたようです。
通報から二十五、六日経ちますが、運営様からの連絡はありません。
作法としては問題がなかったということです。
私が以前通報した時には、事実確認で四日ほどだったので(勿論日数かかることもあるでしょうが、私の場合エッセイを通報されたのと逃げも隠れもしないというか修正などもしていない※直すべきところがあれば知りたい為)、これだけ日数が過ぎても何もないという事は問題視されなかったと考えます。
勿論引用などを使っての罵詈雑言はしてはいけないことです。
私はなるべく問題提起や自分側の言いたかったことの補足として使いましたが、これも、注意喚起としていい方法とは決して言えません。
何故なら構うことは相手の思う壺、という場合もあるからです。
けれど、スルースキルだけ求められるのも、違うなぁとも思うのです。
言わせておけばいい、どうせそのうち飽きるから。
……けれどその情報の方が広く知れ渡ってしまったら?
虚構推理、という作品(私は漫画を読みました)でもありましたが噂や嘘が実在かのようになっていく様。
それは例えば現実でのスマイリーキクチ中傷被害事件でも、起こってしまったことでもあります。
私の場合でいえば「私の考えは、ラノベばかり読む書く人はそういないし、いても情報というものは何からでも吸収する人は吸収し豊かになる」という考えを「なろうラノベばかりを書いていたら人生貧相になる」って考えてる、と決められてしまった。
私はこれを否定したかったわけです。
話を勝手に切り上げる気も、大人としてなんて話さない、なんていう気もさらさらないのに。
さも私が大人気なく勝手に話をぶった斬るふてぇ野郎だ〜みたいに、事実として話が広まってしまう。
せめて、近しい人にくらい、こういうことが起こったよ、という私視点の話くらいしたってバチ当たらないんじゃないのかなあ。
と思うわけです。
あとは、人が決めます。
人ひとりひとりが、私と、お相手のお話を両方見て決めます。
それが良いなと思っているわけです。
私とお相手との主張を見ての判断に、文句は言いませんよ。
ただ、私が何かやらかしてたら、しょうがないちょっと一言伝えよう、と思う方がいらっしゃったならば真剣に拝聴したいと思っています。
私に足りないところは、知ればなんとかできるかもしれませんから。
そして上記の発端になったことなのですが。
強制わいせつと都迷惑防止条例違反と性的姿態撮影等処罰法違反でとっつかまった人がアルファポリスに作品あげてて、作品が悪い!とかって騒がれてたのです。
これについて、作品と倫理観は別、って言ってたら責任がどうこう言われたのですけれども。
人間って作品が先ですか?
私は、人間って倫理観とかが先だと思っていて、それがないと作品と現実の区別がつきにくくなったり、自分と他人の境界線が曖昧になってしまったり、自分の大事と相手の大事があるなんていうことがわからなくなる、のだと思ってもいるのです。
架空の児童ポルノ、例えばSM等々、色々な人の趣味がありますが。
自分一人、SMの場合は自分と他者のSMへの大人としての合意、があれば第三者がとやかくいう問題ではないと捉えていて。
倫理観や道徳観があれば、他者へそれを強制したり、巻き込んだり、害したり、ってしようとも思わないのですよね。
人が培っていく、教養の部分ですね。
それがちゃんとあると、自分だけで完結できる。
人へ何をすると迷惑になるかがある程度わかっていたり、わかってなくても具体的に注意されたら取り入れてやらなくなっていく。
タガが外れたり、そもそも他人を自分と同じ「大事な存在」であると思ってない、から他害ができる。
という考え方です。
基本的には、作品があってもそこは揺らがないのです、ちゃんと「他人は大事である」とわかっているので。
「現実と作品は違う、ノンフィクションとフィクションは違う」とわかっているので。
そこがあやふやな人に必要なのは、「作品をこの世から消す」ことではない、と感じています。
作品がなくなっても、倫理観が生まれるわけでも、他人も大事であるという考え方が発生するわけでも、例えば脳機能低下を引き起こす病気や、認知しづらい障害を持っているという状況が変化するわけでもないので。
そして、そういった問題へは現実での教育だったり福祉だったり医療、セーフティネット等々が大事かな、とも思っています。
結局のところ、一個人に「犯罪を犯してもいいと思い込まれ」実行されたら、おしまいなんですよ。
そこに創作は時に無力だなぁ、とも感じています。




