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青い狂気 1969  作者: ヒロユキ
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小説、青い狂気一九六九 第一章

第一章

一九六五年(昭和四十年)四月

未だ肌寒さが残る京都、上京区今出川通烏丸。神山創一は悲愴な顔つきで、静寂な京都御所、今出川御門の前にある、洋館建ての同志社大学栄光館(女子大学内)にいた。

「嗚呼、なんで俺はこんな所に座っているのだろう」

悄然として、じっと眼を閉じた神山の耳に、突然、町工場の騒音か、あるいはドヤ街の喧騒か、まあ、なんとも抑揚のない、一本調子でかん高い金切り声が襲ってきた。

小説、青い狂気一九六九

第一章

一九六五年(昭和四十年)四月

未だ肌寒さが残る京都、上京区今出川通烏丸。神山創一は悲愴な顔つきで、静寂な京都御所、今出川御門の前にある、洋館建ての同志社大学栄光館(女子大学内)にいた。

「嗚呼、なんで俺はこんな所に座っているのだろう」

悄然として、じっと眼を閉じた神山の耳に、突然、町工場の騒音か、あるいはドヤ街の喧騒か、まあ、なんとも抑揚のない、一本調子でかん高い金切り声が襲ってきた。


「新入生諸君、君たちは、あの圧倒的な国家権力の手先、この反動的な大学当局と、今日入学されたこの日からすべての学友諸君が団結し、我々とともに闘争せねばならない」


とうとうと、よくもまあ、次から次へと罵詈雑言が出るわ出るわ。学生委員長とは一体全体何者なのか。新入学生への歓迎の言葉が、なんだこれかよ。確かこれ入学式だよな。ほんとうにこれがあの敬虔なキリスト教徒、新島襄が創立した大学なのか。

神山の耳は、この聞くに堪えない傲慢なる演説を拒絶し、じっと眼を閉じて、この騒音の嵐が通り過ぎるのを待っていた。

人間の耳というのは結構便利にできていて、かなり大きな怒鳴り声でも、自分の心を意図的に逸らし、何かしら興味あることや、快楽を感じられることに意識を集中すると、その怒鳴り声の言葉の脈絡を拒絶できる。いわゆる右から左へと受け流すことが可能になり、その間、自分の脳裏ではまったくの心の自由が得られ、時空を超えた夢想に浸れるのである。


まさに神山はこの自由な心に乗って、昨年、昭和三十九年十月十日に開会した東京オリンピックにおける、数々の美しき情景の中をふわふわと遊泳していた。

神山の閉じた瞼には、歴史的、感動の名場面が走馬灯のようにゆっくりと、ゆらゆらと回っていた。


それはまだほんの半年前のことである。昭和三十九年九月、神山の故郷、佐賀市の国道三十四号線(通称貫通道路)沿いの酒屋の屋根瓦に跨り、神山は同級生の永井久男と、間もなくやってくるオリンピックの聖火ランナーをじっと待っていた。


「神山君、大学は、どこ受けるの」

と、永井に尋ねられ、

「ううん、一応、京大のつもりだけどね」

と、なにげなく答えると、

「理系なの、それとも文系?」

と、永井。

「そりゃあ理系だよ、僕は数学一本だからね」

いまさら聞くまでもない、とばかりに神山は即答した。

ゆっくりとした時間の経過とともに、神山は高揚してくる自分の心を抑えきれずにいた。


この当時の大学受験生の合言葉に「四当五落」というのがあった。

それはすなわち、睡眠時間は四時間くらいにして勉強しないと、一流大学の合格はとうてい無理だということであり、五時間も睡眠時間を取るようでは、この厳しい受験戦争には絶対勝ち抜けない、というものだった。


神山はまさにその最高峰である東大、あるいは京大を目標にして、深夜、三時過ぎまで勉強した。俗に言うがり勉である。盆も正月も返上し、この二年半余、すべての世俗的な娯楽を犠牲にして頑張ってきた。


そんな神山にとっては、数カ月後に迫った入学試験こそが、一大決戦の日、天王山である。

であればこそ、まさかのまさか、オリンピックごときに神山の心が揺らぐ筈もないと、やがて来る聖火ランナーを、当然のごとく平然さを装いながら、ただひたすら待ち続けたこの日が、神山にとって運命の日、まさに人生の屈折点であったことなど、知る由もない。


神山創一の父は、終戦後、朝鮮からの引揚者が寄り集まってつくった集合住宅兼市場マーケットのような一角に、五坪程度の広さの店で乾物屋を商っていた。

バラック建ての、隣の家と柱を共有しベニア板でしきられた、なんとも危うい二階建てで、その二階の六畳間に、父と母と妹と神山創一が四本川で寝起きしていた。


聖火ランナーを見るためによじ登った瓦屋根も、この市場の入口にある小さな酒屋の二階屋根である。

昭和二十年八月十五日の終戦後、外地から続々と引き揚げてくる生き残り兵たちや、一家の柱を失った遺族や生活困窮者を救うため、国は全国の神社仏閣などの境内を期限付きで解放するか、あるいは僅かな賃貸料で商いできるように便宜をはかっていた。


このマーケットも佐嘉神社の境内にあり、佐賀市内を東西に走る国道三十四号線沿いに入口を構え、南北に二軒間口の商店が両側にそれぞれ二十軒ずつ寄り添って、魚屋、八百屋、肉屋、饅頭屋、薬局、化粧品屋など、それこそ肩寄せながら、助け合って商いをしていた。

恐らく、日本で初めての木造アーケードをそれぞれの一階上部に構築し、雨天でも買い物しやすいように、当時としては進歩的なマーケットだった。

しかし、日常生活はというと、神山が小学校を卒業する昭和三十三年頃まで、どこの住まいにも風呂はなく、二日置きに家族そろって銭湯へ行っていた。

便所はというと、裏口近くにあるコンクリートで造られた、まあ、留置所のような共同便所を利用する。


さらには、その近くにあるこれも廃材で組み立てられた巨大な共同ゴミ置き場に、生ゴミも、可燃、不燃物もすべてがごっちゃに捨てられ、市役所の回収も週に一度だから、夏場などは汲み取り式の便所の悪臭と混ざりあい、鼻がもげそうになる。


神山は幼い頃から、このマーケットに住む遊び友達の家に、アーケードの屋根をつたって、ひょいひょいっと渡り、勝手知ったる二階の窓からすいっと飛び込んで遊び回っていたもので、ずいぶんとあちらこちらの瓦を割り、近所の爺さんにこっぴどく叱られたものである。


神山が通った小学校は、佐賀一の名門進学校であったこともあり、同級生の多くが裕福な家庭の子息であった。立派な家に住む彼らの多くが、神山の住む長屋のようなボロマーケットに興味津津で、入れ替わり立ち替わり遊びに来ていた。

ある日、鮫島和重という医者の息子がひょっこりやって来た。

千客万来の神山家で、鮫島は夕暮れまで時間も忘れ、したたか遊びふけった後、ふっと思いだしたように、

「神山君、小便したかあ、便所はどこ?」

と尋ねられ、裏口から離れた共同便所に案内した。


鼻をつく悪臭と、ウジや銀バエだらけの便所にびっくり仰天した鮫島は、

「うわあ、きたなかねえ。こがんとこで出しきらんよ」

と言ったあげく、

「もう二度と、こがんとこ来んばい」

と、捨て台詞して立ち去った。

むっとした神山はその鮫島の背中に向かって

「もう、こんでよかあ、馬鹿野郎」

と、怒鳴った。


その数日後、鮫島から手紙をもらった。

何だろうと開けて見ると、表書きに太字で「絶交状」と殴り書きしてあった。

こんなすすけた寄り合いマーケットだが、昭和二十五年~二十八年頃になると、朝鮮戦争特需で急激に景気も良くなり、マーケットに並ぶそれぞれの店も結構繁盛し、おかげで神山も大学進学を許された次第だ。

「絶交状」の話を神山が母にすると、

「こがんとこに住んどるけん、仕方なかさい」

と言いつつも、気丈な母はいつもの口癖、

「創一、勉強せんばよ。よかね、勉強で友達ば見返すしかなかよ」

を、事もなげに言い放つのである。


神山の母は、大正十三年五月、大山家十人兄弟姉妹の七番目に生まれた。

男三人、女七人の大家族で、おまけに戦争まっただ中の世相だから、若い男たちは戦争に駆り出され、お嫁に行くのは上から順番なんて待っていたら、それこそ嫁ぎ遅れると、女学生のころから早く結婚しようと考えていたらしく、昭和十九年の暮れ、見合い写真だけで、三歳年上の軍人だった父と結婚、終戦後の昭和二十一年九月に、神山創一が誕生した次第である。


国道三十四号線、貫通道路沿いには、大勢の市民がぞろぞろと増え続け、日の丸の小旗を手に手に持って、全員がじっと西の方角を見つめていた。

屋根の上から高みの見物をする神山の脳裏には、幼い頃、日常茶飯事に見ていた光景が、走馬灯のように浮かんでいた。

それはまさに、朝鮮戦争まっただ中の昭和二十五~二十八年頃のことである。

東西に大きく横断する貫通道路を、東の板付米軍基地から西の佐世保軍港基地へと、通称アメチャン(アメリカの軍人)を乗せた、アーミーカラーの軍用ジープや軍用トラックが、星条旗をひらひらとたなびかせ、毎日のように列をなす。わがもの顔にブルブルと走り去るのを見せつけられ、それはあたかも

「ここはアメリカの植民地だ。頭を下げろ、どうだ参ったか」

と威圧する白人の大男のようで、神山は幼心にもまさしくその記憶の中心に、占領軍(進駐軍)という屈辱的言葉を、小さな胸の奥深く、トラウマとなって刻み込まれていた。


今、オリンピック聖火を待つこの瞬間、戦争を知らない未だ十八歳の若者が、写真や記録映像でしか見たことのない戦争、その無惨さを知るよしもない神山が、にもかかわらず、この貫通道路という言葉の響き、心臓に突き刺さるような、断末魔の悲鳴にも聞こえるイメージを体感したこともないくせに、沈黙する戦争体験者のその心中を察するがごとく、敗戦国日本の悲惨さを貫通という言葉に重ねていた。生き残った日本人の心のど真ん中を、完膚なきまでに貫通された哀しみを、凌辱された無念さを、まことにもって、生意気にもつくづくと想っていた。


しばらくして

「ウォーッ」

「ワーッ」

という歓声が上がった。

西に聖火の青白い煙が見え、かすかに先頭の聖火ランナーが現れると、不思議な身震いするような感覚が神山の心を襲った。心臓の鼓動は高鳴り、胸は息苦しく、何故だか涙が一筋、頬をつたわる。


「どうしたの」

と、永井が不意を突くように聞いてきた。

我に返った神山は、

「う、うん、いや、なんでもないよ」

と、慌てて涙を拭き払った。こんなことに涙を見せる、などということは、神山の永井に対するプライドが許さないのだ。

数分後、神山は眼の前を走る聖火ランナーと数人の伴走者を、うち振られる日の丸の小旗とともに、己が脳裏にしっかりと、静止画像のごとくに記憶した。

そして、その瞬間の光景を心に刻みながら、これから始まるオリンピックという、得体の知れない桁外れのイベントに想いを馳せながら、生まれて初めて、それは愛国心とかナショナリズムなんてものじゃなく、まさに唐突に思わず、

「日本、日本、日本、がんばれ」

と、我が心に、我が魂に叫んでいた。


終戦後のベビーブームに生まれたいわゆる団塊の世代とは、昭和二十二~二十四年に生まれた人たちのことをいう。神山はその前年、昭和二十一年生まれであるが、すでにこの年生まれの出生率も相当なもので、国の急激な人口上昇の始まりだった。


神山の通った佐賀の県立高校も、その生徒数が、一学年だけで千三百人という大所帯で、五十人学級が二十六クラスもあると言えば、そのスケールの超マンモスぶりが理解できることだろう。熾烈な受験戦争などと云われたのもこの頃からだ。高校へ入学したばかりの新入生の、まさに一学期の登校初日から、すさまじい同級生との激烈な競争が始まるのだ。

毎月、全校模擬試験があり、その試験の成績上位者百名の氏名が、毎回職員室前の掲示板に大きく貼り出され、この順位争いが三年後の大学受験のその日まで、ずっと続く。

理科系志望の神山は、この闘いに打ち勝つために、まず、競争相手より早くスタートする。すなわち、先んずれば人を制す、ということで、中学卒業後の春休みに、少数精鋭主義との噂で名高い、街中の数学塾に通い、四月の入学時には、すでに数学の教科書一学期分をすべてマスターしていた。

それは、理科系の受験生にとって最も苦戦するのが数学であると聞いていたからである。おかげで、四月入学時に行われた模擬試験で、数学の点数がほぼ百点に近い成績だった神山は、掲示板に張り出された初回模擬試験の順位表で、千三百人中九番という思惑通りの成績であったし、それ以後もずっと、数学一本に集中した勉強方法で、結果、模擬試験においては常にトップクラスを維持していた。


「永井君、オリンピックが始まったら、勉強会は休止するよ」

と、神山が無表情に言い放つと、

「ええっ、なんでよ。これからが追い込みなのに」

と、永井は顔をしかめ、恨めしげに言った。


神山は週に二日ほど、永井に、彼が不得意とする数学を教えていた。しかし、あのオリンピック聖火の青白く、怪しい輝きに魅入られた神山は、まことに不可解ではあるが、まるで洗脳された盲信者、否、呪縛されたカルト信者のごとく、オリンピックという教祖の前にひれ伏していた。あれほど重大に、大学受験こそが神山の人生のすべてだとさえ想っていたことが、あの聖火を見てしまった瞬間、受験戦争なんて、同級生とのサバイバルレースなんて、と何ともちっぽけなものになっていた。

模擬試験の順位に一喜一憂し、有名大学の入学試験問題のみを勉強し、その出題傾向をのみ必死に探り、あれこれとその対策を研究し、結局は入試問題を読み解くテクニックのみを修得することこそが、まさに受験勉強となっていたことを、なんとも空しく、バカバカしくさえ思えた。まるで魔術師に目前で指パッチンされ、一瞬で催眠状態になった無垢なる少年のごとく、悪夢のオリンピック、十五日間への第一歩を踏み出し、永井の懇願をこともなげに拒絶していた。


気落ちした永井に声もかけず、そそくさと屋根から下りる神山の脳裏には、

「自分が生きているあいだ、そう、自分が死ぬまでに、二度とふたたびこの日本でオリンピックが開催されることは決してないだろう」

という、何の根拠もない不可解な想念が、神山の体中の血管、細胞をぐるぐると駆け巡っていた。


この日までの、そう、あと数カ月後に文字通り天下分け目の大学受験を控え、まさにこれまで、この為にのみ全てを犠牲にしてきた神山の眼中には、自分より成績上位にいる生徒のみが目標として存在し、下位の生徒には何の興味もなかった。

常に上位者と競争することにサディスティックな歓びさえ感じていた。世に云う、鼻持ちならない自信過剰で実に嫌味な男だった。


そんな神山だったが、たった一度だけ、高校二年生のときに、女生徒との交際をしたことがある。秋の体育祭で初めて知り合った同級生の女生徒、北野恭子に、なんとも気障ったらしく、英文でラブレターを出し、何度か彼女の家を訪問し、その年の冬には、半ば強引に、二人で博多に遊びに行く約束をした。

その約束の日が近づくにつれて、神山の胸中は生まれて初めてのデートに、前日から胸は動悸を打ちまくり、妄想だらけの夢心地だった。

しかし、不幸なことに、前夜から降りだした雪が一晩中降り続き、朝方には辺り一面雪化粧である。

はてさて、交通機関はどうかなと不安な思いでいる早朝に、彼女から電話がかかってきた。

「やっぱり、今日は、やめとこうか」

と、あっさり言う彼女に、

「う、うん」

と、神山は渋々応じたが、妄想で膨らみきった風船を一針で破られた想いの神山は、北野恭子には何の責任も無いのに、無体にも、卑劣にも、無残にも、彼女との交際を一方的にやめた。


その理由も告げず、云い訳も何も一切しない、なんとも鼻もちならない、冷血で残酷な男だった。

高校時代の神山の女性との関わりはこのことのみであり、いかにも殺伐とした、非人間的で、まことに無礼で、独りよがりの三年間であった。



そして、あの不条理な日。悪魔に魅入られる運命の日。あの日、そう、あの日がやって来るのだ。

昭和三十九年十月十日のオリンピック開会式。そう、その日から十月二十四日の閉会式までの二週間。エアーポケット、否、暗黒のブラックホール、嗚呼、無残にも神隠しにさらわれた神山の魂、神山の人生が直角に捻じ曲げられた、短くも長い長い二週間だった。


神山は、受験科目に必要な授業以外はすべて欠席し、ほとんど毎日、全競技をリアルタイムでテレビ観戦し、夜はテレビニュースで感動的シーンを再チェックしていた。まさしく十五日間、毎日毎晩、一切の受験勉強を放棄し、四六時中、神山創一の全身がオリンピック漬けであった。


女子バレーボール「東洋の魔女」の活躍、円谷幸吉のマラソン銅メダル、レスリング、重量あげなど、日本の活躍種目から、初めて見るカヌーやボート競技まで、興奮、感動感激の連続で、神山の五体すべてが、まさにオリンピック中毒状態だった。


十月二十四日の閉会式を見終わった神山は、まるで蝉のぬけがら、放心状態、夢遊病者のようだった。勉強が手につかない、集中力が完全消失、というより、勉強したくないのだ。数日間は呆然とし、授業中も受験勉強中も、すべて上の空。オリンピックの感動シーンが神山の脳裏にパラパラ漫画のように蘇り、催眠術にかかりっ放しの体たらくであった。オリンピックが終了した一週間後の十一月の初め、模擬試験の成績は、あの自信満々のトップクラスからまさかの、信じられないミドルクラスに急降下。しかし、考えれば当たり前である。

フルマラソンの三十五キロ地点では、大抵のランナーは、ギヤチェンジしてラストスパートするのに、せっかくトップグループで走っていた神山は、突然歩きだしたのだから、当然の結果である。


四十キロ地点で、あっと気がついたが、もはや時すでに遅し。

嗚呼、なんとも悲惨、茫然自失、奈落の底にまっさかさま。

気にもしていなかった、神山より下位の連中にどんどん追い抜かれ、残り三カ月で抜きかえすなんて、とうてい不可能だ。連中だってラストスパートで必死に走っている。


「ど、どうしよう、ああ、どうすりゃいいの」

と、冷静さを失った神山は、周章狼狽、オロオロと焦りまくり、結局、最も自信のある受験科目の数学で勝負するしかないと考えた。それは、受験科目数の多い国立一期校をあきらめ、数学、英語、国語、三科目だけの早稲田大学、慶応大学の工学部に進路変更するという、まさに苦渋の選択、否、敗北の選択だった。そして、まさかの時の滑り止めに、同志社大学工学部を受験することにした。


数ヵ月後、その結果たるや見るも無残、ただ一校のみの合格だった。

それは、滑り止めに受けた、同志社大学工学部だけである。

高校入学前の春休みから数学塾に通い、四月入学以来、二年と七カ月の間、盆も正月もなく、一日の睡眠時間は4時間、常にクラスでは二~三番、学年では二十番以内を持続し、とにかく受験勉強以外のすべてを犠牲にし、あらゆる煩悩を押さえこみ、努力に努力を重ねた二年と七カ月。

二階の六畳間の壁と言わず天井の隅々まで模造紙に大書した数学の公式やら、世界史、日本史の年表、英語の単語、国語の漢字、熟語などを書き連ね、それこそ睡眠中の夢のなかですらも、数学の難問を解いていた。

険しくそそり立つ有名大学への上り坂を一歩一歩踏みしめながら、頂上目前まで確実に登りつめてきた三年生の十月である。そう、それはあり得ないことだ。普通の受験生には絶対にあり得ない、たかがオリンピックというお祭りに、神山だけが蹴落とされたのだ。

神山の前に立ちはだかったモンスター、オリンピックというモンスターによって、まさか、そう、まさかの坂を転がり落ちたのだ。

布団を被って泣きぬれる神山に、父は

「同志社に受かっていて良かったなあ」

と慰め、それまでやっとの思いで貯めてきたなけなしの金を、その入学金として既に振り込んでいた。

国立大学と違って、私学の入学金はおおよそ十倍ほどの高額であるし、授業料もかなりの高額だが、一年間浪人するよりは、まだましだと、胸をなでおろす、父の笑顔に向かって、もう一度、チャンスを下さい、などとは、口が裂けても言えない、憔悴しきった神山だった。


「同志社に受かっていて良かったなあ」

と慰め、それまでやっとの思いで貯めてきたなけなしの金を、その入学金として既に振り込んでいた。

国立大学と違って、私学の入学金はおおよそ十倍ほどの高額であるし、授業料もかなりの高額だが、一年間浪人するよりは、まだましだと、胸をなでおろす、父の笑顔に向かって、もう一度、チャンスを下さい、などとは、口が裂けても言えない、憔悴しきった神山だった。


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