青春とは残酷たるや
絶望の中に僕は死ぬ・・♪・・
今ほど、人生をいとおしんだことはない・・♪
プッチーニのオペラ「トスカ」の終幕、間もなく銃殺される画家カヴァラドッシが、売れっ子の歌手トスカとの愛の日々を想い、涙して歌う珠玉のアリア「星は光りぬ」。
「ああ、切ないなあ、そうだろう黒金君。これさあ、何度聴いても涙がでるよ。俺はねえ黒金君、死ぬときはこれ聴きながら逝くよ」
絶望の中に僕は死ぬ・・♪・・
今ほど、人生をいとおしんだことはない・・♪
プッチーニのオペラ「トスカ」の終幕、間もなく銃殺される画家カヴァラドッシが、売れっ子の歌手トスカとの愛の日々を想い、涙して歌う珠玉のアリア「星は光りぬ」。
「ああ、切ないなあ、そうだろう黒金君。これさあ、何度聴いても涙がでるよ。俺はねえ黒金君、死ぬときはこれ聴きながら逝くよ」
そう言い残してイタリアへ旅立った神山創一は、平成二十四年二月二十九日、
ミラノ・スカラ座のロジェ席を部屋ごと買い切り、まさに世界一のテノール歌手ドミンゴが歌い上げるアリア、「星は光りぬ」を聴きながら、見事に死んだ。
まことにすまん、黒金君、迷惑をおかけしたミラノ・スカラ座への賠償金は、私の持ち株のすべてを処分して支払ってください。
君との四十四年間は、実に楽しかった。感謝。
さようなら。これは絶望の自殺ではなく、歓喜の自死、である。
神山創一。
プロローグ
二〇〇九年九月十九日土曜日、午後三時、大阪リーガロイヤルホテル、光琳の間。
演壇の上には、銀河文学大賞受賞作「青い狂気」出版記念パーティー、と墨文字で力強く書かれている。
眩いばかりの金屏風の前に立ったこの日の主役、神山創一は心なしか頬を赤らめ、前夜から用意していた挨拶文を取り出し、歓びを噛みしめながら、ゆっくりと話しはじめた。
「本日は、このような晴れがましい祝宴を、わたくしの拙い小説のために開催していただき、大変感激しております。明日からは四連休というのに、あれこれとご予定のある皆さまには、さぞかしご迷惑だったことでしょう。まことに申し訳ありません。
とは言うものの、まあ、かくも賑やかにお越しくださりまして、神山創一、感慨無量であります。
また、発起人の黒金社長には改めてお礼申し上げます。
思えば、ちょうど昨年の今頃でしたね、アメリカのリーマンショックで、世界経済がどうなることやらと、不安と恐怖に怯えておりましたが、あれから一年、まあ日本経済も、なんとかどん底から抜け出したかなと思っていましたら、先だっての総選挙では、なんと自民党から民主党へと政権交代してしまうのですからね。あの天下の自民党が、コテンパンにやられちゃうのですから、驚いちゃいますね。世界経済も日本の政治も先が見えない。とにかく何があっても不思議じゃない世の中ですね。
しかし、そんな激動の時代にもかかわらず、我が「トスカーナ社」は、怒涛の快進撃で業績を伸ばすことができました。そして、いよいよ、もうまもなくです。年商一千億円を今季の決算で達成します。
私は一昨年、相談役に退きましたが、黒金社長のもとで、夢の一千億を現実のものとするのです。
失意のどん底にいた私が奥村会長に拾われて三十五年、よくもまあここまでやって来られたなと、万感胸に迫る思いです。
これもひとえに本日ご出席いただいた取引業者の皆様や、関係各位の皆様の暖かい力添えのおかげでありますし、さらには、今日、まさにこの日この時も、現場の第一線で働く現役社員のみなさん、制作スタッフのみなさん、そう、彼ら、彼女らの、昼夜を問わない頑張りがあってこそであると、感極まっております」
祝宴の参列者はおよそ二百名を超える賑わいだが、
その大半は、株式会社「トスカーナ」の関係者か取引業者、業界関係者、それに神山の友人や縁者である。
言葉を詰まらせながら涙ぐむ神山の脳裏には、あの日のこと、三十五年前の一九七四年一月二十四日、神山が故郷佐賀の実家で、初雪の舞う寒空を眺めながら、絶望の淵に立ち尽くし、己の人生に終止符を打とうとしていた、まさにその日のことを思い出していた。
「ねえ先輩、聞いていますか。僕がね、大学出て、なんで奥村先輩の紳士服店に就職したのか、分かりますか。ちゃんと四年で同志社大学を卒業したのに、大手の企業じゃなく、小さな個人商店を選択したのか。
あの時、神山先輩は、怪訝な顔していましたよね、それは神山さん、あなたですよ、あなたのせいですよ。僕はね、あなたがお題目のように唱えていたあの独り言、粋がって呟いていた、あの言葉、
『孤独を生きる、俺は孤独を遊ぶんだ』
という、あれですよ。そう、あの頃のあなたの哲学に、あなたのかっこつけた生き様に、僕は心酔していたから、否、きっと洗脳されていたから、だからですよ。あの時、なんの躊躇もなく奥村商店に行ったのですよ。
神山さん、なにやってんですか、青ざめた顔して、こんなところで、自殺でもやらかすんですか。
僕は訊かないからね、先輩。どんな悪夢があったのか、地獄でも見たのか。僕は訊かないよ、訊きたくもないね。だいたい神山さんらしくないよ、先輩。
僕はあの頃の、あなたの冷徹な人間社会への洞察力、迷える学生たちを統率する、
というより、孤独に怯える連中を煽動する、カリスマのようなあなたの指導力を見込んで、わざわざ京都から迎えに来たんですよ。『惜別の言葉』なんて、妙な手紙もらったから、夜行列車に飛び乗って来たんですよ。
所詮、俺は孤独を遊ぶ強者じゃないね。
黒金君、粋がっていたあの頃の俺の言葉は、すべてまやかしだ。
救いようのない弱者の論理だ、忘れてくれ
神山さん、あのたった三行の手紙の意味なんてどうでもいいよ。
あの頃の、そうだよ、あの訳のわからない、狂っていたあの頃のことでしょう。
でも、もう何もかも終わったことですよ、神山先輩。
二十七ですよ、未だ。たったの二十七歳ですよ。これから日本は変わりますよ。
猛烈なスピードでね。経済もメチャクチャ成長するでしょう。
何もかも信じられない変革を遂げるでしょうね。
神山さん、聞いていますか、これほどのチャンスを見逃す手はないですよ。虚無感に浸っている場合じゃないですよ。神山さん、眠っている暇があったら、私たちに力を貸してくださいよ。
神山さんの過去はもう終わりました。眼を覚ましてください」
「神山さん、止まっていますよ」
と、小声で促す黒金社長の声に
「ああっ、うん」
と、我に返った神山の涙眼には、挨拶文の文字が霞んで読めず、なんとも言葉が出てこない。
おまけに三十五年前のあの日の光景にタイムスリップしたように、時間と空間が溶解し混乱する神山の手に、そっと近づいた黒金が、演台に用意された水差しから冷えた水をガラスコップに注ぎ、優しく気遣いながら神山に渡した。
「いや、失礼しました。今日は私の小説の話でしたよね。なんだか一千億円達成記念の話みたいになりまして、すみません。話を戻します」
「えーっと、そう、きっかけは二年前です。
三十三年もの間、大変お世話になりましたトスカーナ社を退きましてからは、ほとんど毎日、行きつけのクラシック喫茶に通いましてね。で、いつも座るカウンター席で、好きなウインナーコーヒーを啜りながら、ふっと、六十一歳という自分の年齢を、ただ漠然と考えていました。
退職記念に頂いた腕時計に眼をやると、いつの間にか午後三時を過ぎていましてね、いつもはこの時間だと、それこそパソコンの前で、前日の地区別売上げのデータやら、店舗ごとの売れ筋商品の動向をチェックしながら、あれこれと思いを巡らしているのに、今はただなんとなくうわの空で、常連さんのリクエストでかけられた、モーツァルトのシンフォニー四十番を聴きながら、なんとも手持無沙汰なのです。
それに信じられないでしょうが、その時のモーツァルト四十番が、あの頃の忙しさをすり抜けて聴いていたモーツァルトと、まるで違う響きなのです。私は、その時の不思議な感覚を、到底言葉では表現できません。
なにしろ、この三十三年間というもの、ただひたすらに、がむしゃらに、わき目も振らずに走りぬけてきたものですからね。そりゃあもう、回し車を降りたハムスターがキョトンとする感覚、ああ、これが虚無感ってやつだ、なんて想いましたし、たぶん、世の定年者たちは、こんな風にして無為なる時間を過ごし、やり切れないままに、うつ病なんかになるのに違いないと、一人ぽつねんと、コーヒー豆を焙煎する甘い香りを楽しみながら、夢想しておりました。
引退したら、もうその日から絶対に音楽三昧だ、芸術三昧だ、読書三昧だと、我が心にしっかりと決めていたのに、いつでも自由に、それこそ四六時中、誰に遠慮することもなく、コンサート会場やら美術館やら歌舞伎座だって、まあ、とにかく時間と資金さえあれば、長期間にわたる海外への音楽旅行だって、思いつくまま、勝手気ままにできるのに、それが、いざ真実、そういう環境になった時、何故でしょうね、毎日がいかにも空虚なのです。
まるで自分がミイラ化しているようで、何の意欲も無くなり、まさに朽ち果てる魂でしたね。世に言う、茫然自失っていう状態は、あの頃の私のことですよ。
『ほんとうにどうしてなんだろう。この不思議な寂しさは何なんだろう』
なんてまあ、青臭い大学生みたいな気分に取りつかれましてね。で、そう、ふと気がついたんです。と言うより、己の存在の無味乾燥さに、思い知らされたんですよ。
これまでの自分の人生を想うと、ほとんど中身が何もない、そう、自分にしかない全くのオリジナルなもの、神山創一の根源的なものが、何一つ見当たらない。もう後がないのに、己の存在の証ですよ、それが皆無だなんて、こんな憐れなことはない。
『一体全体、俺の人生は、何だったの』
なんて思いましてね、数か月間、つくづくと想い悩んでいました。
でね、昨年なのですが、アパレル業界が発行している繊維新聞を、暇にまかせて隅々まで読んでいましたら、投稿、連載小説、という欄が、あるのを、見つけましてね。
『これだ』
と、なにかしら探し物が見つかったような、そんな気分になりまして、さっそくその業界紙の編集局長に電話しました。
『局長、あれ、私に書かせてもらえんかな』
なんて、ほとんど冗談で、というか、まあちょっとだけスポンサー風を吹かせましたが、たまたま局長も次回の作品を捜していたらしく、それこそこれが、瓢箪から駒となりましてね。
これこそ、自分の、自分にしか書けない、まさにオリジナルな創作であるし、この数十年間、己の魂の深淵でとぐろを巻いていた鬱憤を、この小説にすべて吐き出そう、どうせ、こんな素人の稚拙な小説を、まともに読む人もいないに違いないし、まあ、己自身のカタルシスのためにも、恰好の創作舞台を与えられたと、早速嬉々としてペンをとりました。
小説の内容はすぐに決まりました。というより、それしか思い浮かばなかったのです。自分自身の若き時代、高校、大学に至る狂気の時代、今想えば真に危うかった学生時代の苦い思い出を書き綴ることとなりました。
で、書き始めると、結構いろいろと材料がありましてね。長々しい連載となりました。義理がたい編集局長は、毎日この勝手気ままな小説を、それはそれは真面目に読んでいたらしく、
『神山さん、これ面白いですよ、なかなかのもんですよ。思いきって文学賞コンクールに応募しませんか』
なんて、冗談言いましてね。私も思わず笑っちゃいましたけど、はて、誰かに評価されるのも面白いな、ということで、局長にお任せしたのですよ。
結構、あちらこちらと応募したようで、数ヵ月後に局長から電話がありましてね。
かん高い声で、
『神山さん、大賞ですよ。銀河文学賞の大賞を受賞したんですよ』
と、彼も思いがけなかったようで、
『賞金三百万ですよ。パーっと奢ってくださいね』
なんて、自分のことのように喜んでいました。
私は、とても不思議な気分でした。あんな稚拙でろくでもない小説が大賞をとるなんて、まことに笑止千万ですし、一体、審査された小説家のどなたが評価してくれたのか、あれこれと詮索しておりましたが、まあ、悪乗りついでに、その三百万で出版までするか、と、まあ、とんとん拍子で今日に至った次第です」
そもそも、神山創一とこの祝宴の発起人である社長の黒金光晴と、会長の奥村利一との繋がりを話せば、一九六八年(昭和四十三年)、神山が同志社大学四年生のときである。奥村とは同級生、黒金は神山の二年下で二年生。三人とも無類のクラシック音楽好きで、同志社レコード音楽芸術研究会という長ったらしい名のクラブに属し、そのことが友人関係の始まりであった。
とりわけ黒金光晴とは、共に当時の全共闘運動やら、安保闘争における街頭デモなどで、お互いの思想信条が相通じあう同志的仲間であった。
奥村は、京都寺町にある老舗メンズショップ、奥村洋服店の後継者としての自覚もあり、学生運動などには関わらず翌年には無事卒業し、家業を継ぐため父の店に入社した。
浜松市の酒店の次男坊である黒金は、たびたび神山に唆され街頭デモに参加していたが、一九六九年の夏、あまりに過激化する安保闘争と先鋭化する神山の狂気ぶりに、いつしか街頭闘争から離れて行った。
狂乱する全共闘運動のみならず、激闘の七十年安保闘争に敗北した神山は、一九七〇年、大学に退学届を出し、まさに腑抜け状態で佐賀へ帰郷した。過激派の全共闘くずれで、警察の札付きであれば、まともな就職などできる訳もなく、戦後の闇市から始めた父の営む小さな洋装店で働かせてもらうほかに食っていく当てが無かったのだ。
その父が悲惨にも五十二歳という若さで、三年後の一九七三年(昭和四十八年)十二月五日、当時は不治の病とされる肝臓がんで亡くなり、とり残された神山は未だ商売のイロハのイの字も解からぬ状況であった。おまけに、この年は日本国中、オイルショックの渦中で大混乱、店の売上げは急降下。翌年一月に迫った手形の決済金、四百万円の目途もたたず、倒産の恐怖で夜も眠れず戦々恐々とし、父の葬儀中も顔面蒼白で震えていた。
正月が過ぎ、いよいよ手形決済が迫り、もはやこれまでと切羽詰まっていた、まさにその一月二十四日である。神山創一にとって、天の助けとばかりに声をかけてくれたのが、この祝宴の発起人、黒金社長であり、神山を人生のどん底から救い出してくれた黒金光晴こそが、今日この日の、晴れがましい舞台に立たせてくれた恩人であり、まさに命の恩人でもあった。
茫然とする神山の代理人となった黒金は、奥村洋服店の資金援助を得て、わずか一週間で店の債権整理をし、なかば拉致するように神山の身の回り品のみをバッグに詰め、夜行列車に飛び乗った。
「神山先輩、きっとこの仇はとりますよ。神山さんの実力でリベンジするんですよ」
耳元で囁く黒金のこの言葉を、神山は微かに薄れゆく意識のなかで聞いていた。
翌朝、黒金に引きずられるように、神山は奥村洋服店の前に立っていた。五年ぶりに会う奥村利一は、この時すでに専務となり、その後継者としての風格は、マージャンに明け暮れていた学生時代とは様変わりし、その泰然とした風貌の見事さに、神山は己の負け犬ぶりを思い知らされていた。
その夜、三人は三階の専務室に「剣菱」の一升瓶を持ち込み、明け方まで呑みあかし、お通夜のようにふさぎ込む神山の、暗鬱な魂を黒金と奥村が代わる代わる酒を酌み交わし、二人がかりで慰めてくれた。というより、学生時代とは真逆に、檄を飛ばされつづけていた。
繰り返される彼らのアジ演説のような激励のことばを、夜っぴて聞いていた神山は、さすがに己の魂に巣くう、悪霊からの呪縛が徐々に溶解しはじめ、朦朧としながらつくづくと考えていた。
自分には、もはやこれといった目標もなく、生きる意味も失ったのだから、これほどまでに自分を必要としてくれる黒金たちに、残りの人生を全部くれてやるかと、そう自分に納得させた。
と、その時、神山の魂から、すうっと何ものかが、己の心の奥底に潜んでいた、ある得体の知れない亡霊のような存在が消失していた。そして、それまで耳鳴りのように響いていた、彼らの叱咤激励の言葉が、はっきりとした脈略として繋がり、それが、今後の奥村洋服店の壮大なる事業計画であり、その計画遂行の一翼を、ぜひとも神山に担ってほしいのだという、そういう説得であったのだと初めて気がついた。
ほとんど一睡もしていない神山は、何かしら憑きものが落ちたように、さっそく翌日から奥村専務、黒金とともに、三階の会議室にこもった。彼らの事業拡大戦略のすべてを明かされ、その大胆かつ緻密な計画に驚嘆するとともに、その道程の険しさこそが、神山のこれからの人生を賭けるに値する事業であると深く認識し、死の淵に立ち尽くしていた神山を、これほどの痛快なる計画によくぞ誘ってくれたと感謝していた。
そして、この日からわずか半年間ほどの徹底的な勉強会の末、走り出した最終列車に飛び乗るように、神山は奥村、黒金たちと、この途方もない夢物語のような長期計画の緒についていた。
奥村利一専務を先頭に、一九七〇年代、流通業の急激な時代の流れを先読みし、それまでの老舗店の伝統的商法を捨て、さらにはその変革に猛反対する古株、幹部社員の抵抗を押し切り、激動するファッション業界の大転換を見据え、まさにのるかそるかの果敢なる決断で、紳士服中心の専門店にあっさりと見切りをつけ、大阪、御堂筋のファッションビルに、レディスのカジュアルウェアをメインにした一号店を出店した。二十代という若さゆえの猛ダッシュ、大勝負であった。
京都市内に三店舗あった奥村洋服店は、反対したすべての幹部社員にそれぞれ暖簾分けし、それで得た資金のすべてを新店舗に投入し、わずか三年間で、運よく大阪梅田と難波に二号店、三号店と出店できたのであった。
三人は若さにまかせてほとんど不眠不休で働き、アメリカ式のチェーンストア理論についても、閉店後の深夜まで猛勉強し、理論武装していった。さらには、新たなる出店のために、次々と若い有能な人材を登用し、必死で作成した事業計画書をもとに、金融機関の積極的支援を引き出しつつ、近隣主要都市に出店しつづけた。
一九八〇年代の急速な経済成長の波に乗り若者の新鮮なセンスやアイディアを思い切って採用し、次々と新ブランドを立ち上げ、そのほとんどが同年代の若者の大いなる支持を受け、あれよあれよという間に、関西から関東、九州、北海道へと目覚ましいショップ展開を成し遂げ、なんと一九九〇年には全国に一〇〇店舗ものブランドショップ展開を達成した。
この年、奥村利一は社長に就任し、本社を大阪に移し社名も「株式会社トスカーナ」とし、黒金光晴は専務に昇格、事業本部長だった神山には常務への昇格をと請われたが、神山は何故か固辞した。そして許されるなら、「トスカーナ」の店舗数を七倍の七百店舗にし、その総売上げを年商一千億円、業界トップ3までに成し遂げたい、さらには株式を東証一部に上場し、よって日本のアパレル業界の雄と言わしめたい。それまでは、自分を事業本部長として最前線で働かせてくれと懇願したのだった。
それから、三年後の一九九三年、ついに日本証券業協会に株式を店頭登録した。
さらに、二〇〇〇年には予想を超えて二百五十店舗を達成、二〇〇七年に神山が相談役として退く年度には、総店舗数五百五十店、総売上八百億円という日本のアパレル業界ベスト五にまで成長していた。
「このたびの受賞によりまして、私の小説を銀河書房さんより出版していただけることとなり、本日の祝宴となりましたわけですが、実は私、大学時代の一時期、小説家になりたいなんて無謀なことをそれこそ夢想しておりましたので、まあ厚かましくも、こんな還暦を過ぎた年齢の私が、それも生まれて初めて書いた小説が、名高い文学賞を受賞し、おまけに出版までしていただくとは、誠に持って幸運でなんとも幸福な男であります。
今日、ご出席いただいた皆様には、会費のお礼にこの本をお持ち帰りいただきますが、その本に挟みました栞に、私の自宅の連絡先を記しております。よろしければ、何かしら、皆様のご感想をお聞かせ願えれば幸いです。
本日は、ほんとうにお忙しいなかを私のくだくだしい挨拶をご静聴いただき、感激しております。
神山創一、一生の思い出となりました。ありがとうございました」
深々と頭を下げた神山に代わり、奥村利一会長が短く祝辞を述べ、乾杯を発声すると、祝宴会場は一気にざわめき、華やかな雰囲気の中、神山はそれぞれのテーブルを回り、出席者一人ひとりに、丁寧にお礼をして歩いた。
「あのう、小説の題名が『青い狂気』とありますが、カリスマ本部長と言われた神山さんの即断即決の仕事ぶりや、オシャレで紳士的なイメージからは、想像もつかないですね」
と、若い幹部社員に声をかけられて、神山は、
「ううん、そうかね、イメージねえ、まあ、もう四十年も昔の話だし、君たちの生まれる前だからね。難しいかもね、時代が違うしねえ。あんまり面白くないかもしれんね」
と、少しためらいつつ、それとなく彼らの表情を窺いながら、ゆっくりと答えた。
はたして、この小説を彼らが読み終えたとき、どんな反応をするのか、恐らくかなりの嫌悪感を抱くんだろうなあ、いや、それどころか、軽蔑すらするかも知れないな、なんて少々気弱になりつつ、こんな晴れがましいことやるんじゃなかったかな、などと後悔すらしつつ、足早にテーブルを回っていた。
それぞれのアパレル業界関係者や、友人知人のテーブルめぐりが終わり、会社の取引先や納入業者の席にたどり着いたときである。
「神山さん、お住まいは京都の北白川なんですね」
と、白髪の老人に声をかけられた。
老人といってもその体格はがっしりとして上背もかなりあり、なんだか筋金入りという雰囲気をもった、強面の人物であった。
不意の声かけに少したじろぐ神山に、
「いや、失礼しました。私、綾部一蔵と申します。あのう、十年ほど前までですが、トスカーナさんの警備を承っている、大日警備会社の相談役をしておりました」
と、確かな口調で挨拶されたが、神山はその老人とはほとんど面識もなく戸惑いながら、
「ああそうでしたか、それは私こそ失礼しました。そうです、北白川に住んでいます。綾部さん、ご存知ですか」
と、過去に会ったことがあるのかな、などとおぼろげな記憶を辿っていた。
綾部一蔵は続けて、
「北白川には、私の母方の実家があったんです。没落して人手に渡り、今はありませんがね。神山さんは別当町、母の実家は小倉町でしたから、すぐとなりですね」
と、微笑みながら話した。
「えっ、本当ですか。それはまた偶然ですね」
神山は、話しながらずっとその記憶を辿ったが、全く思い出せないままに、軽く会釈して次のテーブルへと移ろうとしたが、それを追いかけるように、
「神山さん、この本に記念のサインをしてください」
と、ホテルで用意されたサインペンを出され、慌てて、
「いや、サインなんて、そんな気恥ずかしいこと、言わんでください」
と断ると、
「これ、神山さんの初の小説で、しかも銀河文学賞を受賞された初版本ですからね。記念にぜひお願いしますよ。
実は、昭和六十年頃でしたけど、私がトスカーナさんの警備責任者になりましてね。あの頃、事業本部長として活躍されていた神山さんを、ずっと外からですが、その辣腕ぶりにとても感心していましたし、丁度あの頃を境に、それこそ倍々ゲームのように、日本全国に出店攻勢をかけられて、売り上げも急上昇していったことをしっかり覚えていますよ。
まあ、とにかく、あの頃の神山さんの凄まじいバイタリティの源泉は何処にあるのだろうと感動していたんですよ。この本もきっとベストセラーになりますよ」
と畳み掛けられ、世辞にもそこまで褒めちぎられると悪い気はしないし、神山は気後れしながらも、小さくサインした。
そして、まさにその時、神山創一と漢字でゆっくりと、確かに書き記しながら、綾部のいう昭和六十年当時のことを、感慨深く思い出していた。
あの年、尾崎豊という夭折の歌手が歌った『卒業』という唄の最後、
「あがいた日々も終わる この支配からの卒業」(作詞・作曲 尾崎 豊)
耳に残るこの歌詞を、エンドレステープを繰り返し、繰り返し聴くように、想いだす。
嗚呼、そうだった。
まさしく、綾部の言う通り、あの頃を境に、トスカーナ社が神山事業本部長の陣頭指揮で、進軍ラッパを吹き鳴らし、北は北海道から南は九州沖縄まで、日本全国にトスカーナ社のブランドを浸透させていったのだ。
昭和六十年、そう、あの年こそが、忘れもしない夜明けの、始まりの年だった。
「もし、終戦が八月十五日よりもう半月も伸びていたら、お前は生まれていなかったよ」
深い眠りの中で、神山は、結局このまま、生と死、実存と無という得体の知れない不思議な言葉の意味を見いだせず、母の死とともに、自分に始末をつけようと覚悟していた。