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昼休み、食堂にて。(1)


 皇族や貴族は、己の結婚すらも政略となる。そこに個人の感情は加味されない。もちろん婚姻後に良好な関係を築く夫婦も存在するし、完全に政略と割り切って仮面夫婦に徹する夫妻もいる。

 マリウスとしては、将来の婚姻を結ぶ相手とは良好な関係を築きたいと思っていた。そう、つい三日前までは。けれど三日前の夜、世も傾けんばかりの美貌を持つ乙女と、運命的な邂逅を果たした月明かりの庭園。あの瞬間から、マリウスの心は千々に乱れてしまっていた。

 毎日毎夜、彼女の顔を思い出さない日はない。可憐な声を思い出し、月光に輝いていた絹糸の髪と宝石のような瞳を脳裏に描き、星空の下に咲いた花のような微笑を瞼の裏に幻視する。三日の間、あの少女を思い出しては溜息をつく。そんな日々を送っていれば、いつも傍にいる幼馴染たちに気取られないはずもなかった。


「ねぇマリウス、貴方この数日おかしくてよ」


 昼休みの食堂にて、四人掛けのテーブルに三人で掛けて食事をとる際にも、マリウスはほぼ無意識に溜息をついている。そんな従弟の態度を見咎めたカトリーナが眉をひそめた。レトルスも心配そうにこちらを窺っている。我に返ったマリウスは、しかし二人の友人に向けて苦笑しつつ首を振って見せた。


「ごめん、何でもないよ」

「何でもないわけないでしょう。少なくとも貴方の憂い顔でクラス中が浮足立っているのよ」


 呆れた口調で首を振り、カトリーナが周囲を視線で威嚇する。瞬間、生徒たちからの視線がさっと引いた。だが食堂中の学園生たちの意識がちらちらとこちらに向けられているのを察し、マリウスは苦々しい笑顔を薄く浮かべた。


「マリウス様、何かご心配事でも?」

「……心配というよりは、恋する乙女のような顔だけれどね」


 レトルスが心底心配そうにマリウスを気遣ったのに対し、カトリーナはどこか投げやりに言い放った。冗談半分、揶揄半分の発言。しかしマリウスはカトリーナの言葉にこそぎくりと心臓が跳ねるのを自覚した。

 あの少女に対する感情。その名前には気が付いていて、でも敢えて気づかないふりをしていた。自覚してしまえば、もう止まらなくなる予感がしていたから。自分はヒルネシア帝国の皇子だ。政略によって婚約者が決められた身だ。恋愛になど、現を抜かす余裕はない。そんな権利も持たない。あるのは国に対する義務だけ。個人的な感情を持つだけ、苦しみが増えるばかりだ。だから気づかないふり、鈍感なふりをして、風化させようとしていた、のに。

 冗談に対して苦笑で返すのが標準のマリウスが黙り込んでしまったことに、カトリーナとレトルスがぎょっとした表情でこちらを窺ってくる。


「ま、マリウス、貴方まさか……」

「い、いや、違う、違うよ……」

「――あの……」


 いぶかしむカトリーナに慌てて反論しようとしたマリウスに、背後から小さな声がかけられた。その声に、ぎくりとまた心臓が跳ねた。この声。少しくぐもってはいるが、似ている。三日前から耳の奥で反芻し続けた、あの声に似ている。

 マリウスは弾かれたように立ち上がり、慌てて後ろを振り返る。皇族としての教育を受けた身としては、マナーの授業で注意を受けそうな勢いだ。視界の端でカトリーナたちが驚いた顔をしているが、構っていられない。


 そうして振り返った先。背後に立っていたのは、全身を隙なくローブで覆われ、顔には金糸で刺繍を取ったいかついフルフェイスマスクの人物。急に立ち上がったマリウスから一歩引きかけ、けれどこちらを見上げている()()()小柄な姿。マリウスもよく知る、けれど何も知らない、覆面の婚約者アイーシャであった。

 マリウスは混乱した。自分の耳に届いたのは、確かにあの声だったはず。だが目の前にいるのは、同じ国の出身者からも「酷い容姿」と揶揄され、忌避される少女。マスクの中を見た令嬢が卒倒したとまで言わしめる『不細工オーク姫』だ。聞き間違いだろうか。否、そんなはずはない。三日間ずっと思い出し続けた自分が、あの声を聞き損なうはずが。


「あの、マリウス様……これ……」


 小さな、マスク越しのくぐもった声。だがマリウスは確信した。やはり間違いない、あの声だ。鈴も恥じらう可憐な声。目の前の光景と耳からの情報に大きな落差があり、マリウスは目眩がするほど混乱する。

 と、アイーシャが後ろに回していた手を前に出し、おずおずと差し出した。真っ黒な手袋に覆われた指先が持っているのは、あの日マリウスがあの乙女に差し出したハンカチ。何故これをアイーシャが。否、この声の主に差し出したものではあるのだ。おかしくはないはず。否、やっぱりおかしい。マリウスの混乱は最高潮に高まっている。


「おい、不細工」


 と、アイーシャの背後から不遜な声がぶっきらぼうに呼ばわった。アイーシャとマリウスの肩が同時にびくりと跳ねる。視線をやればそこには、やはりと言うべきかカヤーハンが立っていた。不機嫌を隠そうともしない表情で、小柄なアイーシャを睨み下ろしている。


「邪魔になるなと前から言ってるだろう」

「あ……ぅ……」


 威圧的な視線に晒され、アイーシャは華奢な肩をぎゅうっと委縮させた。怯えたようにぶるぶると身を震わせ、小柄な体をいっそう縮こまらせている。蚊の鳴くような声で「すみません」とマリウスに頭を下げたアイーシャに、それを睥睨するカヤーハンに、じわりと胸に熱が湧いた。視界の端で眉を吊り上げて立ち上がろうとしたカトリーナを手で制し、一歩前に出る。アイーシャを背後に庇ったマリウスは、長身のカヤーハンを真っすぐに睨み上げた。


「カヤーハン殿。前にも言いましたが、僕の婚約者をそう威圧なさるのはやめてください」

「俺だって前に言っただろう。この程度、ドルジラのオークなら歯牙にもかけない」

「それでもです。ここはドルジラ王国ではないし、彼女の感情は彼女のものです」


 言って、言葉を切り、マリウスはくるりと振り向く。アイーシャは己を庇ったマリウスを見上げていた。マスクの内側の表情は分からないが、戸惑った気配は伝わってくる。その顔を見下ろしながら、マリウスは努めて真摯な表情でアイーシャに頷いてみせた。


「アイーシャ嬢。僕は、自分の顔が嫌いです。こんな顔に生まれたくなんかなかった。誰が人形になんか生んでくれと頼んだのか、と荒れた時期もあります」


 マリウスの声が食堂中に響いたのは、周囲が息を詰めてこちらを窺っていたからだ。生徒たちが一斉に息を飲んだ音が聞こえてきて、マリウスは初めて自分がこれほどに注目されていたことに気づいた。

 注目は恐ろしい。過去の命の危機がいくつも脳裏をよぎる。他人の耳目を集めていいことなんて、これまでの人生でひとつもなかった。美であれ醜であれ、突出したものは容易に悪意を引き寄せるのだ。


「これまで自分が受けた嫌なことは全部、容姿のせいだった。カトリーナにもレトルスにも迷惑をかけて、随分心配もさせてきた。この見た目のせいで」


 ちらりと幼馴染の二人に視線を送れば、揃って固唾を飲んだ表情でマリウスの発言を見守っている。目が合うと、カトリーナもレトルスもぶんぶんと首を横に振ってきた。迷惑などではない、とその視線が語ってくれていて、胸が温かくなる。

 二人が気にしていないといっても、カトリーナたちに迷惑をかけたのは事実だ。誘拐、毒殺、謀略に巻き込まれた回数は両手両足の指を折っても足りない。そのたびに二人には心配をかけ、長じては事前にトラブルに巻き込まれないよう手を打ってくれていた。そんな幼馴染たちの尽力に、報いることのできない無力さには何度も打ちのめされて生きてきたのだ。それでも。


「それでも、僕はこれからもこの顔で生きていかなければならない。人の目から逃げられたとしても、この顔からは逃げられないんです」


 本当は、アイーシャのように仮面で顔を隠して学園生活を送ろうかと考えたこともある。けれど、皇族である限りいつかはその仮面を外さなければならない場面がくるだろう。学園にいる間だけ姿を偽ったとて、この先の生涯はずっと続くのだ。隠し通せるものではない。


「だから、僕は自分の顔を自分で許すことにしました」

「許す……?」

「そうです。面倒ごとに巻き込まれることも、カトリーナたちを心配させることも、僕が勝手に許すことにしたんです」


 持ちたくはなくとも生まれ持った顔だ。自分が許してやらなくて、他の誰がこの顔を許してやることができるだろう。マリウス自身を、誰が許すことができるだろうか。

 開き直りだと言われればその通り。マリウスは開き直ることにしたのだ。幾度面倒をかけても、側妃のひとりである母も、父である皇帝も、カトリーナもレトルスも、自分を見捨てず、慈しんでくれた。そんな自分を許し、存在を許し、居場所を許した。たとえ迷惑をかけたとしても、仕方がないなと諦め、そして開き直ることにしたのだ。そのうえで、これから国に対して貢献することで存在価値を生み出すことを勝手に決めたのだ。


「だからアイーシャ嬢、貴方も自分を許してあげてください」


 全身を布で覆い、フルフェイスのマスクを身に着け、完全に容姿を隠した姿。あの夜に、泣きながら水面に映る自分を拒絶した姿がそこに重なる。自分を蔑み続けていた幼い自分と、そっくり同じ慟哭を上げていた少女。そんな彼女に向けて、心からの言葉を紡ぐ。


「貴方の姿は、貴方だけのものです。どうか、自分で自分を許して(愛して)あげてください」


 シン、と水を打ったように静まり返る食堂。穏やかなマリウスの声が静かに余韻を残した。数拍の沈黙ののち、アイーシャが決心したように両手を握りしめた。震える指先がおずおずと黒い手袋を掴む。生徒たちが一挙手一投足を見守る中、ゆっくりと抜き取られた手袋の下から白魚のような小さな手が現れる。生徒たちとカトリーナたちが、息を飲んで驚いたのが伝わってきた。

 シミ一つない白い手が、今度はローブのフードに掛けられる。するりと頭を滑ったフードの奥から零れ落ちたのは、照明を受けて白銀に輝く絹の髪。今やはっきりと、食堂中の生徒たちが両目を見開いたのがわかった。

 白く繊細な指先が、頭の後ろで結ばれたマスクの紐をほどく。しゅる、と衣擦れの音だけを残して覆われていたその顔がその場にはっきりと現れた。丸く大きな瞳、つつましく形の良い鼻、小さく上品な唇。人間離れして整ったその美貌は、昼の明るさの下でも神秘性を損なうことなく凛然と輝いている。白銀の長い睫毛の奥、金色に輝く瞳がぱちりと瞬いた拍子に、目尻の泣き黒子の上を透明な涙のしずくが伝い落ちていった。宝石のように、あるいは女神のように美しい乙女――アイーシャが、マリウスを見上げて眉を下げ、小さく微笑んだ。


「……ありがとうございます、マリウス様」


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