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夜、庭園にて。(2)


 急に視界が開けた。たどり着いたのは円形に開けた形で植え込みが設えられた場所。円の中央には、大理石で作られた見事な意匠の噴水がある。夜間でもたっぷりと湛えられた水面に、月の灯りが青白く輝いていた。

 その、噴水の向こう。縁に腰を下ろし、両手で顔を覆った小柄な人影が見えた。静かな夜半、静寂を乱さない程度のささやかな声で、すすり泣く声が聞こえてきた。よく見れば、小さく肩が震えている。泣いているのか、と思い当たった時には、足がその人影へと向かっていた。

 平素であれば、マリウスは見知らぬ人間が泣いていても、それが同じ学園の学生服姿であっても、声をかけようなどとは考えなかっただろう。わざわざ面倒ごとに首を突っ込む趣味などない。けれど何故か、その小柄な人影には足を向けてしまっていた。それほどに、繊細な嗚咽が心を波立ててきたのだ。


 歩み寄ってみれば、その人影が小柄な少女だとわかった。両手で覆われているせいで顔立ちはわからないけれど、ゆったりと肩に流された髪は見事な白銀だった。繊細な絹糸のような髪が、月明かりを浴びてきらきらと輝いている。このように美しい髪を持つ少女など、この学園にいただろうか。不思議な、夢心地な気分のまま、そっと歩み寄りポケットからハンカチを取り出す。


「どうかされましたか?」


 努めて優しく、静かに声をかけたマリウスの声に、華奢な肩がびくりと震えた。恐る恐るといった仕草で少女が顔を上げる。両手が離れて露わになった顔に見上げられ、マリウスは危うく声を上げそうになった。音を立てずに息を飲むことでそれを堪えたのは、偏に皇族教育の賜物だ。

 噴水べりに腰を掛け、ひとり泣く少女。その顔立ちは、目の覚めるような美しい顔立ちだった。抜けるように白く滑らかな肌、涙をたくさん纏わせた白銀の睫毛は頬に影を落とすほど長い。その奥で涙に溺れる瞳は、月も恥じらうほどの美しい金色だった。垂れ気味の目尻に泣き黒子がひとつ添えられ、それが可愛らしい顔立ちの少女に色気を添えている。控えめながら通った鼻筋には知性があり、小さな唇は愛らしく上品だ。

 どこを切り取っても完璧。泣き顔すらも美術品のように美しい少女を目の当たりにして、マリウスは数瞬の間呼吸を忘れた。が、気取られないように穏やかな微笑を浮かべて見せて、極力自然に見える動作でハンカチを差し出した。


「どうぞ、よければお使いください」

「あ……ありがとう、ございます……」


 礼を返してくれたのは、鈴すらこうは美しく響くまいと思わせる嫋やかな声。涙声でこんなに美しい声があるものか、とマリウスはいっそ感動すら覚えていた。


 生来、自分の美しい顔立ちは自覚して生きてきた。母も美姫と呼ばれていたし、皇帝に召し上げられた姫たちは誰もかれもが美しく、皇族は軒並み整った顔立ちをしている。だが、マリウスの美貌は群を抜いてた。だからこそ付けられた「人形皇子」の異名である。

 けれどそのマリウスの目から見ても、目の前の少女の美しさは殊更に際立っていた。自分が人形なら彼女は宝石か、妖精か、月の女神か。マリウスが他人の欲望を集めるなら、彼女の美貌は他人の憧憬を集めるような。およそそんな美しさだった。

 夢見るような心地で少女を見下ろしながら、はて、と首を傾げる。こんなに美しい少女が、この学園にいただろうか。他の学年の生徒たちまで顔を認識しているわけではないが、これほどの美貌を持つ彼女であれば間違いなく有名人のはずだ。だがここまで人間離れした美しい少女の噂など、ついぞ耳にした覚えはない。エルフなど、人間から見て美しい顔立ちを持つ少女は幾人もいるが、こうも目立つ美しい顔の話は耳にしたことがない。


「あの……貴方は……」


 どなたですか、どこかの姫君ですか、この学園の生徒でいらっしゃるんですよね。どう言葉を継ごうかと考え、どれも選びかねて言葉に詰まる。今まで限られた人間としか交友関係を築いてきていなかったせいで、マリウスは自分から誰かに声をかけるということをしたことがなかった。何と声をかければスムーズに話ができるのか、マリウスの頭には咄嗟に言葉が出てこない。

 言葉に詰まったマリウスを見て何を思ったのか、少女はまた顔を覆ってさめざめと泣き始めた。こんなとき、どう相手を扱っていいものかわからず、マリウスはおろおろと少女の隣に腰を下ろす。


「す、すみません、不用意にお声をかけてしまいましたか……?」

「ちが、違うんです、私が、わたしが……!」


 絞り出すように美声が唸り、小さな顔が激しく横に振られる。マリウスのハンカチを握りしめたまま顔を上げた少女は、視線を噴水へと落とし、憎々しげな、苦々しいような、悲痛を込めた表情で唇を噛んだ。振り上げた白魚のような手が、月明かりを映す水面を叩きつける。ばしゃん、と水が跳ねて、少女の美しい泣き顔が千々の細波に引き裂かれた。


「こんな、こんな見た目になんて生まれてきたくなかった……!」


 身を切るような慟哭。心の底から突き上げる衝動に駆られたように、吐き出された言葉はまるで悲鳴だ。痛切なその声に、マリウスは心を貫かれたような気持ちになった。それは、その悲哀は、まさしくマリウスが抱え続けてきたものだったからだ。


 人形皇子。そんな風に呼ばれたいなどと、願ったことは一度だってない。周囲から褒めそやされる美貌だって、己の身になってみれば煩わしいものでしかなかった。代われるものなら代わってほしい。こんな顔で、他人からの注目を集め続け、好悪によらず多大な感情を押し付けられるような、こんな人生を送りたくはなかった。

 そうして美貌を嘆くなど、他人には聞かせられない。美しさは他人にとっては羨望の的で、「羨ましい」とは言われても「おかわいそうに」と慰められたことは一度もないのだ。己の美しさが己を害するなど、他人は想像だってしたことがないだろう。

 誰とも共有できない悲しみ。誰にもわかってもらえない悔しさ。ずっと諦め続けてきた共感。しかし、自分と悩みを同じくする存在が、今まさに目の前にいる。感動と感激のあまり、マリウスは少女の手を取って噎び泣きたくなった。


 きっとこれほどの美貌を持つ少女だ、幼い頃から己の容姿を褒めそやされ、崇め奉られ、不自由なまでに囲い込まれてきたことだろう。まして女性ということもあって、怖い目にだって遭ってきたのではないだろうか。けれど己の容姿を嘆くほど、嫌味や皮肉かと勘繰られてしまう。そんな苦しい立場で、彼女はずっと過ごし続けてきたのだろう。


「わ、わたしだって、わたしだって……っ! みんなと同じようになりたかった……!」

「……わかります」


 わかる。とてもわかる。心から共感できる。共感しかない。そんな心からあふれ出た思いが、つい口をついて出てしまった。ぽつりと呟いた言葉に、マリウスがハッと唇を押さえたのと、少女が弾かれたようにこちらを向いたのは同時だった。ぽかん、と小さく口を開いた表情すら愛らしく、小首を傾げた仕草はいかにも可憐だ。


「ほ、んと、に……?」

「え……?」

「ほんとに、わかりますか……?」


 幼い迷子が縋るような口調で少女が問う。月の光を受けて、白銀の髪が、睫毛が、黄玉の瞳がきらきらと輝いている。幻想的なまでの美しさに、ぐらりと感情が揺らいだのを感じた。ああ、まずい。惑わされてしまいそうだ。美貌に狂わされるとはこういう感覚なのか、と初めて知った。


「……わかりますよ。僕だって、こんな顔好きじゃない。子供の頃から、母に心配をかけ、カトリーナたちにも迷惑をかけて、少しも報いることができていない。誰が好き好んで、こんな目立つ姿に生まれたかったものか」


 母のことは愛している。父である皇帝も尊敬している。カトリーナにもレトルスにも感謝している。けれど、自分の容姿はいつまで経っても好きになれない。美しいことが良いことだなんて誰が決めた。少なくとも度の過ぎた美貌は、自分にも周囲にも毒にしかなりえないのだ。

 思わず感情がこもってぶっきらぼうな口調で吐き捨ててしまって、マリウスは我に返った。見れば、少女は呆気にとられた顔でこちらを見ている。急に恥ずかしくなって、思わず視線を落とす。頬が熱い。


「す、すみません、いきなり熱くなってしまって……」

「……いえ」


 恥じらって詫びたマリウスに、しかし少女は静かに首を振った。見れば、どこか納得したような表情で少女はひとつ首を振った。形の良い唇が、淡い微笑を綻ばせる。月夜に咲く花のような繊細な笑顔で、少女はまた「いえ」と繰り返して首を振った。

 ぎゅうっ、と心臓が引き絞られる。胸の中心の時間が一瞬止まり、次いで一気に解放されたかのような感覚。耳の奥でどくどくと血潮が熱く逆巻いている。ここが夜の庭園でよかった。マリウスの顔はきっと真っ赤になっていることだろう。


「安心しました、私だけじゃない、ってわかったから」


 可憐で美麗な声が耳をくすぐる。その言葉の意味を必死に理解しようとするのに、頭は馬鹿になってしまったように一気に思考が鈍ってしまった。視野が急激に狭くなり、目の前の少女しか見えなくなる。体の中で心臓が肥大化したのかと思うほど、心臓の音が大きく響いている。目が離せない。彼女しか見えない。手を伸ばしたいのに、爪の先ひとつ動かせないほどに緊張している。


「あの……聞いてくださってありがとうございました。これ、洗ってお返しします」


 それでは、と告げて少女がぺこりと頭を下げ、軽やかな足取りで庭園を辞去する。その背中を見送りながら、マリウスはしばしその場から動けないでいた。

 初めて会った少女。初めて得た共感者。そして、初めて落ちた恋。たった数分の内に起こった怒涛の事態。内心で大きくうねる感情を飲み込みながら、マリウスは己の人生が大きく舵を切ったのを感じていた。


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