夜、庭園にて。(1)
第三皇子という身分は、はっきり言ってヒルネシア帝国の皇族にとってはそれほど重要ではない。帝国において皇位継承権に性別は考慮されないし、現皇帝の直系でなくとも、つまり皇姉や皇弟であっても皇位継承権を持つ。つまり本来であれば、それほど顧みられることのない立ち位置なのだ。
だがマリウスは、その身軽なはずの身分に比べて、これまで異常なほど危険な目に遭い続けてきた。皇宮からの誘拐は数えきれないほど、食事に毒物を混入されることはざらで、直接的に刺客を送られたことも何度もあった。偏に、その美貌のせいで。
マリウスの美貌は他人を狂わせた。誰もがマリウスに手を伸ばしたがり、手に入らないとわかるや否やこの世から消してしまおうとした。老いも若いも、男も女も関係なかった。皇宮に仕える大臣たちも、幼いマリウスの友人として皇宮に招かれた国内の貴族令息令嬢たちも。誰もがマリウスの美貌に酔い、自分だけのものにしようとし、できないとわかると自分の手で壊してしまおうとした。
貴族だけではない。同じ皇族であっても、マリウスの美しさに心を惑わされた人間は多くいた。母方の親戚にも、身の回りの世話をする侍女や使用人たちにも、マリウスを狙う人間は多くいた。ひどいときには母についた侍女たちを総とっかえしたことだってある。今は信頼できる人間ばかりが側にいるが、マリウスの中から懸念は消えない。
アイーシャとの婚約だって、マリウスの身を守る方策のひとつだった。婚約者が空席なままであれば、マリウスを巡る政略の闘争が激しくなることが懸念された。折しもヒルネシア帝国とドルジラ王国の講和が検討され始めた頃。いっそ他国の、しかも人間たちが忌避するオークの姫と縁付かせれば、虎視眈々と狙っていた国内勢力を黙らせられるのではないか。帝国内では政略のためだと思われている婚約であるが、実はマリウスの身の保全が第一であった。
様々な問題を生み続けるマリウスの美貌に最初から狂わされなかったのは、同世代ではカトリーナとレトルスしか存在しなかった。同じ皇族の中では、カトリーナだけがマリウスに対して遠慮なく接してくれる。侍従として仕えてくれる少年の中では、レトルスだけがマリウスを人間として扱ってくれる。だからこそ二人は、学園においてもマリウスと行動を共にしてくれるのだ。
幼い頃から他人の欲望に晒され続けたマリウスは、人間不信の気質がある。皇族教育によって己の感情を出さず、表面的に人と接することを教え込まれてきたせいで、日常のコミュニケーションには問題がない。だが彼の本質は、常に他人の顔色を窺い、他人に害されないかどうかに怯え続けているのだ。毒で舌が痺れる感覚は、十年経っても忘れられない。刺客に命を狙われた瞬間のことは、今でも悪夢に見て飛び起きることがある。カトリーナたちはそんなマリウスの心を守ってくれている。そしてマリウスは、守られるばかりの自分にずっと負い目を感じているのだ。
きっとこんなことを打ち明ければ、二人は呆れて苦笑しながら「気にするな」と言ってくれるだろう。それは理解している。だからこれは、マリウスだけの感傷だ。二人の得難い友人たちはマリウスに安心を与えてくれる。けれどマリウスは、二人に何も与えられていないのではないか。
「はぁ……」
小さな溜息が夜の暗がりに溶けた。学園内に設えられた見事な庭園をおざなりに見回しながら、マリウスは己の身を振り返って忸怩たる思いで唇を噛む。昼間の出来事が心に引っかかって、どうにも気分が収まらない。夕食後の勉強も一向にはかどらず、こうして夜陰に紛れて散策に出てきたのだ。夜の庭園は灯りが落とされ、ひと気もない。ともすれば不気味な雰囲気だが、今のマリウスは静寂を求めていた。
『貴殿も気の毒にな、マリウス殿。あんな不出来な不細工を娶ることになるなんて』
カヤーハンの言葉が耳の奥で残響する。別に、とマリウスは人知れず唇を曲げた。
別に、アイーシャとの婚姻に不満はない。むしろ彼女は同じヒルネシア帝国の令嬢たちと違って、不必要にマリウスと接触を持とうとしない。媚びてこないどころか、必要最低限の挨拶くらいしか交わさない。彼女が人見知りなのか、故意に避けられているのかはわからないけれど、少なくとも人間不信のマリウスにとってはぐいぐいと距離感を詰められるよりは全然いい。
と、自分の口から言えればよかったのに。カヤーハンからあまりに直接的な物言いを投げつけられ、思考が停止してしまったのだ。その直前に、令嬢たちがアイーシャを冷笑しているのを聞いてしまったのも関係しているかもしれない。入学以来、マリウスとアイーシャは生徒たちの恰好のゴシップの的だ。注目される=身の危険、とすぐに結びついてしまうマリウスは、他人の耳目が一手に集中したあの瞬間に頭が真っ白になってしまった。
カトリーナはそんなマリウスの内心を見抜いてすぐに割って入ってくれた。周囲の生徒の視線も散らして、マリウス自身の視線もレトルスに注目させることで息をつかせ、その場を治めてみせた。頼もしい従姉に感謝すると共に、己の身を振り返って情けなくなってしまうのだ。
「はぁ…………」
先ほどより長い溜息をつき、両手で己の頬を叩く。ばちん、と痛みを与え、萎みかけた己の心に喝を入れなおす。何を弱気になっている。カトリーナたちが自分を助けてくれるなど、いつものことだ。そのたびに落ち込んで、でもそのたびに「二人に報いるためにも自分にできることをしなければ」と己に言い聞かせ続けてきた。
自分にできること。将来は恐らく、ヒルネシア帝国とドルジラ王国の境界にある領土を皇族直轄地として統治することになるだろう。北方の過酷な環境に近い、農作物も育ちにくい土地を、それでも精一杯治めること。そのために、しっかりと勉学に励むことが、今自分にできる最大のことだ。
しっかりしろ、気合を入れろ、マリウス・レ・ヒルネシア。ドルジラの姫と共に領土を治める。それが皇族として生まれた自分の義務だ。努力しろ、前に進み続けろ。何度も自分に言い聞かせていれば、幾分か気持ちも前向きになってくる。よし、と気合を入れなおし、夜の庭園にまだ一歩を踏み出した。
短めですがキリのいいところで。