放課後、図書館にて。(2)
ドルジラ王国。凍える大地を擁する大陸北方の大国は、長年ヒルネシア帝国と争いあってきた。ドルジラ王国の国民は、八割以上がオークと呼ばれる亜人種である。彼らは人間やエルフ、竜人ほど賢くはない。だが肉体は強靭で、種族同士の結束も固い。同時に排他的で好戦的、自分たちの領土を侵す者を徹底的に拒む。北の海の利権を欲したヒルネシア帝国とは、血で血を洗う戦争を長きにわたって続けてきた。
しかし世界的な平和のうねりは、この二国をも取り巻いていた。強大な軍事力を有するドルジラ王国も、さすがに長き戦争に疲弊していた。仇敵とも呼ぶべきヒルネシア帝国と手を組み、政略によって利益を分け合おうとしたのだ。それが、マリウスとアイーシャの婚約である。
マリウスは第三皇子、アイーシャは第五王女。どちらも正妃の子ではない。捨て駒だと、いざとなればこんな和平など無視してしまえると、互いの意図が透けて見える政略結婚。けれど、「そういうこと」にしておくのが大切なのだ。実態がどうあれ、あるいは今後がどうなるにしろ、今、「そういうこと」を事実としておくことが肝要だ。
そこに、人間の感情は含まれない。マリウスたち本人の意思や感情などは、一切考慮されない。けれどマリウスとしては、せっかくこれから結婚する相手ならば、良い関係を築いていきたいと思っている。だから努めて愛想よく、友好的に接しようとしている。相手があのアイーシャであっても。
「……その、」
マリウスの申し出に、マスクの奥でためらう気配がした。小柄なアイーシャは、フードの向こうからマリウスを見上げている、らしい。なんせ顔が全く見えないので、仕草と気配でそう推察するしかない。
笑顔を崩さないマリウスを見て、次にアイーシャはカトリーナたちをそっと窺ったようだ。気配に敏いレトルスがそっと卓上の本を片付け、アイーシャの席を準備しているのが視界の端に映った。アイーシャは再びマリウスを見上げ(た様子で)、もう一度「あの、」と小さく呟き――
「邪魔だ、アイーシャ」
――どん、と横合いから突進してきた巨体に突き飛ばされた。
「……っ!」
「邪魔だ。何突っ立ってる」
華奢なアイーシャが倒れ掛かり、マリウスも、周囲にいる全員も息を飲んだ。マリウスが咄嗟に支えるより早く、ローブの首根っこを掴んでアイーシャの転倒を阻止した手がある。アイーシャを跳ね飛ばしておいて軽々と彼女を捕らえた男は、冷たく素っ気ない口調で言い捨てた。その大男を見上げ、マリウスは眉を顰める。
「カヤーハン殿。危ないでしょう」
「……この程度、ドルジラのオークなら屁でもない」
ふん、と鼻を鳴らした男は、冷徹さを滲ませた瞳でマリウスを睨み下ろしてきた。下顎から垂直にそそり立つ牙は、アイーシャのマスクの刺繍に勝るとも劣らない立派さだ。彼はカヤーハン・ドルジラ。名の通り、ドルジラ王国の第二王子であり、アイーシャの異母兄である。学園においてはマリウスたちの一学年上に在籍している。濃い灰色の髪と灰褐色の瞳、灰色がかった浅黒い肌を持ち、二メートルに届きそうな上背と屈強な体格の彼は、ドルジラの誇り高きオークである。
オーク。国家を形成するまでは魔獣として人間に認識されていた種族で、複数存在する亜人種の中でも言語を取得したのは遅かったと言われている。外見は豚や猪に似ており、大きな鼻と尖った牙を持つ容貌は獣性を感じさせる。人間に似ているのに決定的に人間とは違う顔立ちでもって、カヤーハンは周囲をじろりと威嚇した。世界の絶対数がそうであるように、学園の生徒たちも人間種が多い。カヤーハンの睨みに、ある者は怯えたように、ある者は嫌悪感を丸出しにして、皆がさっと目を逸らした。そんな人間たちを嘲るようにまた鼻を鳴らし、カヤーハンはアイーシャを冷たく見下ろした。アイーシャはその視線を受け止め、はっきりと見て取れるほど俯いてしまった。
「……失礼します、マリウス様」
「あ、ああ……」
くぐもった小さな声で辞去を告げ、アイーシャはローブの裾を翻してさっと場を立ち去ってしまった。止める暇もなかった。その背中を見送ってから、マリウスは苦々しい思いでカヤーハンを見上げる。
「カヤーハン殿。どうしてアイーシャ嬢にはそんな態度なんですか」
「あんな出来損ない。王家の恥だ」
あからさまに馬鹿にした口調で吐き捨て、冷たい目でアイーシャの背を見送る。同郷の彼女に関わらなければ、カヤーハンは決して付き合いにくい男ではない、とマリウスは思う。現に、彼には人間の友人も複数いるようだ。けれどアイーシャを語るときだけ、カヤーハンはひどく冷淡な男になる。
カヤーハンは誇り高きオークの男だ。そんな彼いわく、アイーシャはドルジラ王家の恥、ということらしい。彼らの間に、あるいは彼の国に何があったのかはわからない。だがどの国にも、その地に住まう者にしかわからない事情というものがあるのだろう。
アイーシャがそそくさと図書館の出口に向かい、取り囲んでいた人垣がさっと割れた。ぶかぶかのローブ姿を見送ってから、カヤーハンはこちらに視線を戻してきた。その瞳にははっきりと憐憫が見える。
「貴殿も気の毒にな、マリウス殿。あんな不出来な不細工を娶ることになるなんて」
「…………」
哀れみを込めて告げられた言葉は妙にはっきりとその場に響き、周囲が静かに息を飲む声が聞こえてきた。誰もが陰で噂をしながら、しかし面と向かっては口にしなかった言葉。あまりにあっさりと、はっきりと告げられ、マリウスは返事も忘れて絶句してしまった。
アイーシャの評判は、今カヤーハンが言った通りあまり良くない。カヤーハンほどはっきりとは口にしないものの、ドルジラ王国の出身者は口を揃えて「ドルジラ王族として失格の王女」「見るに堪えない酷い容姿」と囁いている。加えて顔どころか全身を完全に隠したあの出で立ち。婚約者のマリウスですら顔を見たことがないその姿は様々な憶測を呼んでいる。ついた綽名が「不細工オーク姫」。人の目から見て異様な容姿を持つオークの中でも、ひときわ醜い姿をしているらしい、とまことしやかに囁かれている。話には尾ひれがつき、あのマスクの中をちらっと見た令嬢が卒倒した、とまで噂されている。
仮にも婚約者であるマリウスの耳に、誰も好き好んでアイーシャの悪評を吹き込む者はいない。けれど、学園は狭い社会だ。学園中で噂されている話が聞こえてこないわけはない。
ヒルネシア帝国の者、わけても人間の令嬢たちは、アイーシャを毛嫌いしている節がある。自国の皇子が、それも人形皇子と呼ばれるほど麗しいマリウスが、どうして不細工オーク姫なんかと婚姻を結ばねばならないのか。顔をさらして堂々と歩いているオークたちの姿すら恐ろしいのに、同族に蔑まれ、一部の隙もなく姿を覆い隠している女オークが、栄えあるヒルネシア帝国の美貌の皇子と婚姻など。
国家のための婚姻。必要に迫られた政略。そんなこと、誰もが理解している。その上で、ヒルネシア出身の生徒たちはマリウスの不遇の婚約を嘆いているのだ。
勝手なものだ、とマリウスは思う。自分は生まれながらに皇族だ。自分の身が国の道具だと、言葉を覚えるころから言い聞かされて育ってきた。だから婚姻相手が誰であろうと気にしない。アイーシャがたとえどんな醜い顔をしていようと、彼女と夫婦になることは責務だと割り切っている。だが、学生たちの
軽率なゴシップの種にされるのはいい気分ではない。
誰もが嘆く振りをしながら、マリウスを気遣う振りをしながら、自分とアイーシャの動向を興味津々で見守っている。他人の目を向けられることも皇族の仕事のうち、と聞かされてはきたが、こうも明確に娯楽扱いされては心穏やかでいられない時もある。
「カヤーハン殿。わたくしの未来の従弟嫁に向かって失礼でしょう」
感情を制御するのに必死なマリウスの背後から滑るように近づいてきたカトリーナが、厳しい口調でカヤーハンを窘める。言葉を向けたのはカヤーハンであるが、忠告は息を詰めて展開を見守る周囲の生徒たちにも向かっていた。カトリーナがさり気なく視線を巡らせれば、生徒の何人かが気まずそうに視線を逸らすのがその証拠だ。
「悪いな、俺は正直な性質なもんで」
「ご自覚なさってるならお控えになって」
謝罪を口にしつつも悪びれた様子のないカヤーハンに、カトリーナはつんと顎を逸らしてみせた。視線だけでマリウスを促し、レトルスが待つ方向を示す。心配そうにこちらを窺う幼馴染の侍従と視線が合い、マリウスは溜息を噛みしめた。カトリーナに守られ、レトルスに気遣われる。昔からずっと、今でも変わらない二人との関係。守られるばかりの己の身を不甲斐なく感じるのは、これでもう何度目だったかと数えることも諦めてしまった。