放課後、図書館にて。(1)
オルコント大陸のちょうど中央辺りに位置する、大陸最大面積を誇る湖。各国によって呼び名は変わるが、ヒルネシア帝国においては黎明の湖と呼ばれる汽水湖の中には、小さな島が存在する。どの国からも永世相互不可侵を貫くその島には、国家は存在しない。あるのは島全土に築き上げられた学園都市だ。
デメイア学園都市。あるいは単純に「学園」とだけ呼ばれるその場所は、オルコント大陸全土から、ひいては全世界から皇族王族貴族諸氏が集って学びを修める大教育機関である。デメイア学園に入学するのは皇族王族や貴族の特権であり、ある種の義務だ。学園において彼ら彼女らは外交を学び、社交界の縮図を経験する。また人間と亜人種同士の平和的 交流にも一役買っており、世界の平和は学園から生まれるとすら言われているほどだ。
また学園において教えられる歴史は大陸共通史というもので、どの国にも阿ることのない平等な真実である。どの国も、本来ならば自国に有利な歴史を教育したいと考えるのは当たり前のこと。だがその教育の差が国家間の争いに発展した例を、世界は嫌というほど経験してきた。
であれば、教育格差をなくせばいい。全世界の王侯貴族に対し、同じ教育機関を用意すればいい。ついでに思想が固まりきってしまう前の柔軟な子供のうちから、違う文化に触れさせ、外交の神髄を学ばせればいい。そんな設立目的をもって、デメイア学園都市は創設された。今からおよそ二百年ほど前の話である。
(――歴史、か)
ちょうど大陸史の書架の前で背表紙を目で追いながら、マリウスは今日の授業を振り返っていた。パックス・オルコント。ドリ・マーレ講和以降、爆発的に増えた国家間の政略結婚。数百年以上前の話なのに、その制度はいまだに続いている。
何せこの大陸には数十に及ぶ国家が存在するのだ。その中で最大級の国家であるヒルネシア帝国は、これまで数々の戦争を経験し、そして数々の講和を結んできた。小国であれば戦力で圧し潰して飲み込んだりもするが、やはり講和となれば選択肢は限られる。国家間婚姻はその最たる切り札だろう。
(ただの歴史として学ぶだけならどれだけよかったことか……)
ふ、とつきかけた溜息を飲み込む。己の感情を殊更に表に出さない教育が、それを許さなかった。誰もいないとわかっている場所でも、長年の習性は消えないものだ。
国家間の政略結婚。マリウスにとっても他人事ではない。マリウスの母は序列のそれほど高くない側妃だ。現皇帝の血を引く第三皇子とはいえ、皇位継承権には程遠い。ともすれば皇帝の実姉の娘であるカトリーナの方がまだ皇位に近い。しかし皇子という肩書だけは、政治的な利用価値が大いにある。否、皇位継承戦に絡まないからこそ、と言うべきか。ヒルネシア帝国がこれまで何度も繰り返してきた政治手法だ。皇家に生まれた者にとって、何ら珍しいことではない。
――あっ、マリウス殿下よ。
ひそひそと、しかし弾む口調で囁かれた声が耳に引っかかった。静謐に満たされた図書館において、囁き声というのは意外と通りやすい。特に自分の名が発せられたそれを、聴覚は自動的に拾っていた。努めて聞こえていないふりをしながら、気配だけで声の発生源を探る。マリウスの後方左斜め、書架の間からこちらを覗く数人の気配があった。言葉の癖はヒルネシア帝国のもの。だが口調は高位貴族のものではない。大方、帝国内では皇族に目通りも叶わない中位以下の貴族令嬢たちだろう。
――まぁ素敵だわ。
――噂通りね、本当に芸術品や……お人形のよう。
ぴく、と動きかけた表情を気合で御した。人形。幼い頃から言われ慣れた言葉だ。発する人間たちは皆一様に、褒め言葉としてその言葉を使う。だがマリウスにとってそれは、賞賛でも何でもなかった。
さらさらとした金髪は絹糸のようで、同じ色の睫毛は長く揃っている。黄金比を追求したような美しい曲線に形どられた、カトリーナとよく似たアイスブルーの瞳は宝石のごとく。シミ一つない白磁の肌はなめらかで美しく、それらが顔立ちの美しさをいっそう引き立てていた。男らしさを感じさせない細身の出で立ちも、皇族として徹底的に教育された物腰柔らかな仕草も全て、マリウスをビスクドール然として見せていた。
ついた綽名が「人形皇子」。女性ならまだしも男に向かって人形とは、と幼い頃は反発を抱いたが、あまりに中性的で繊細な美しさを持つマリウスには似合いの綽名となった。良い意味でも悪い意味でもそれを思い知らされる人生を送ってきたのだ。諦めもつこうというものだ。マリウスは己の美貌についてよくよく理解していた。自惚れではない。正当な自覚である。
――あんなに美しい方なのに、残念ね……婚約者があれだなんて……
――シッ、誰が聞いてるかわからないわよ。
誰も何も、マリウス本人が聞いている。だが一切気付いていなさそうな令嬢たちは、さざめくような冷笑を含んだ声でなおも噂話に興じている。また零れ落ちそうになった溜息を奥歯で噛み、マリウスはさり気なく一冊の本を手に取って振り返った。途端、令嬢たちの気配は三々五々に散っていった。これも、いつものことだ。
書架の間をすり抜け、自習スペースへと戻る。確保しているテーブルの辺りに視線を向ければ、カトリーナとレトルスが軽く手を挙げてくれた。書架スペースでは私語が許されていないが、自習スペースではその限りでない。先ほどの沈んだ気分を二人との会話で晴らそうと踏み出したところで、唐突に横合いから誰かが踏み出してきた。小柄なその人影がちょうど死角にいたため、あ、と気づいたときには肩と肩が強くぶつかっていた。カトリーナたちが目を丸くし、二人して立ち上がったのがやけにゆっくりと視界に入った。
「あ、っ」
「っ、し、失礼、」
マリウスがいかに細身とはいえ、相手は更に小柄で華奢だ。反動で後ろによろめいたその人影に思わず手を伸ばし、その腕を咄嗟に取る。そこで初めて自分にぶつかってきた人物を見て、マリウスは動きそうになった表情をすんででこらえた。
「失礼しました、アイーシャ嬢。お怪我は?」
「……いえ」
くぐもった声が短く答えた。深くかぶられた黒いフードの奥からこちらを窺っている様子が伝わってきたが、あいにくその表情が読めない。物理的に。フードの奥にあるのは、完全に顔を隠してしまう黒い布のフルフェイスマスクである。目出し帽どころか、目も口も出ていない。メッシュになっているため通気性があることは見て取れるが、奥にある顔は顔立ちも表情の動きも何も読み取れない。そんなマスクには、金糸の刺繍が施されている。ちょうど口のある辺りに、大きく裂けた口と、下顎からにょきにょきと生えた大きな牙の図柄が。
制服を着ているかどうかすら定かでないほど長いフード付きローブと、真っ黒なフルフェイスマスク。刺繍の図案も相俟って、異様な風体である。一目見ただけでは人相どころか性別すらもわからないこの人物。白を基調とした図書館の中にあって、一滴落とされた墨インクのように佇む少女。
アイーシャ・ドルジラ――彼女こそが、マリウスの婚約者であった。
「アイーシャ嬢、よければ一緒に勉強しませんか」
婚約者という関係ではあるが、実はこれまでアイーシャとまともに話をしたことはない。学年は同じだがクラスが違っていて、接点がそれほどないのだ。廊下や昼休みの食堂で見かけては、軽く挨拶をする程度。だがマリウスとしては、せっかく同じ学園に通っているのだから、学生のうちに交流を深めておきたいと考えていたのだ。ここで顔を合わせたのも巡り合わせ。この機会を逃す手はない。
周囲がこちらの様子を窺っている。否、そんな可愛いものではない。マリウスとアイーシャの一挙手一投足を逃すまいと、意識を張り詰めさせて注目している。そんな慣れた空気の中、マリウスは皇族としての微笑でもってカトリーナたちの席を示した。カトリーナとレトルスも立ち上がり、アイーシャに向かって略式の礼をしてみせた。同学年の生徒でありながら、公爵令嬢であるカトリーナが頭を下げる相手。それもそのはず、アイーシャはドルジラ王国の第五王女である。