第二十話 ナヨ・タケノカグヤ7
天の川銀河太陽系第三惑星管轄技術士官――ナヨ・タケノカグヤは、頭上の空に広がる星々を眺めるように見上げている。その表情は普段の彼女らしさが消え、まるで分厚い雲に覆われた月のように陰っている。
ナヨは月でのお見合い話が嫌になり、あの楽しい職場にいる事さえ負担になった。全てが父のせいだとは思っていないが、精神は摩耗し、自分が凄く不安定な状態だった事は理解している。
もしくはそうやって以前の事を冷静に考えられるくらい、この地球で心が癒されたとも言えるだろう。
「はぁ……」
ナヨは空に輝く星々から視線を月へと移し、心に溜まる不安を取り除くように溜息を一つ尽く。ナヨが地球に降りてから既に四年の月日。宇宙人類である彼女にとって、この四年の歳月は決して長いといえる時ではない。むしろ幾万年と生きる事が出来る彼女らにとっては短すぎる時間と言えるだろう。
子供だった頃よりも短い時間――たった三年といえば、たった三年だ。それはナヨの短い人生の中でも更に短い時間に過ぎず、それは今以上にこれからも、どんどん短いものとなっていく事が決まっている。
何百年――もしくは何千年もすれば、こうした記憶も次第に薄れ、これはこれで良い思い出になるだろうとナヨは考えている。
だが、それれでも――
「なのに、どうして、こんなにも胸が……心が痛いのかな?」
ナヨは自分が泣きそうになっている表情に気づかないまま、もう一度自分の頭上にある月を仰ぎ見る。それは黒い夜空に淡く輝いており、まるで優しく語り掛けてくるようだ。
月で暮らしていた時は何も感じなかった、黒と白の色が広がる大地。そこから見える景色は決して特別なものではなく、目にすらも留まらない只の書き割りのようなモノだった。
だが――それがここでは寂しくも、優しく光っている。
「ああ――」
そんな風景を見つめながら、ナヨは自分の気持ちに漸く気づく。ナヨが月で暮らしていた日々も、決して辛いだけではなかった。友人と一緒に過ごす楽しい時間や、自分で選んだ仕事にも遣り甲斐を持っていた筈である。
それが父親の変な愛情と、自分自身の見栄のせいで疲れてしまっただけなのだ。そんなどうでも良い――本人にとっては至って真面目な話ではあるけれど、破れかぶれな気持ちで地球へ降りてきた。それは褒められるような事でも、認められるような事では決してない。
「うふふ。ここに来た理由が、まず酷いもんね」
切っ掛けはどうしようもない環境と、しょうもない自暴自棄の結果の末だ。
「――うん。ナヨは地球の人たちに会えて良かった」
それでもナヨは感謝の気持ちを込めて、そう呟く。最初は食べられてしまうと思った、いつも優しいお爺さん。そのお爺さんの共犯者で包丁を研ぎながら、愛しい瞳で見つめてきたお婆さん。いつもナヨの手紙を楽しそうに読んでくれるのが分かる、誠実なミカド君。
そんな事を考えたナヨは、自分の周りに居る人達が唯々愛おしい。そしてそんな愛おしい人達が居る惑星だからこそ、そこから見る星々は――月はより美しく輝くものだと、ナヨは漸く気づく。
「――――――――――っつ」
ナヨがそんな思いに気づき、先ほどまで堰き止めていたものが崩壊する。彼女の瞳からポツポツと涙が流れ、その頬を流れるように滑り落ちる。それはナヨの着ている裳に零れ落ち、彼女の心を写すように、その染みが広がっていった。
夜にしては明るい月の下、ナヨはその灯りを浴びながら心が軋むように嗚咽を上げる。そんなナヨに寄り添うのは、この四年間――いつだって彼女の傍に居た人物だ。
「どうかしたのかい……ナヨ? そんなに目を真っ赤に無き腫らして、悲しい事でもあったのKAI?」
「お爺さん……あ、これは、その、ちょっと月を見ていたら、何故か悲しくなって」
急に現れたお爺さんの姿に、ナヨの頬を濡らしていた涙が止まる。ナヨは恥ずかしい所を見られた気持ちと、月に帰らねばならない後ろめたさを誤魔化す為に、咄嗟に誰でも分かりそうな出任せを口から出してしまう。
そんなナヨを老爺は静かに見つめ、文字通り好々爺とした笑みを浮かべる。それはまるで小さな幼子を見守るような、本当に優しい微笑みだった。
「――っ」
ナヨはこの優しいこの人を傷つけたくない、悲しませなくはないと心の底が訴える。だが自分が月に帰るのはもう決定事項であり、決して変える事は出来ないだろう事も知っている。
ならばナヨが出来るのはお爺さんを悲しませない様にする方便なのだが、そんな事がポンッと簡単に出るわけが無い。月での事を説明せずに、且つ、お爺さんが納得できる理由はないものかと――ナヨは最近あまり使っていなかった頭脳のフル回転させようとする。
「TOUTOU、天に帰ってしまうのかね――ナヨ」
だがそうしてお爺さんから放たれた言葉に、ナヨは一瞬で頭が真っ白になってしまう。そんな呆然としているナヨを見たお爺さんは、少しだけ悲しそうに表情を歪めるが、特にそれ以上喋ることは無い。
そもそも二人の出会いからして、少し可笑しな話だったのだ。老爺もナヨの事を普通の娘とは思っていなかったし、今でも天からの授かり者だったと思っている。だからこそたった四年でここまで大きくなったナヨに違和感を抱けず、同時に受け入れている。
だが、それでも――
「ナヨ――――お前は自慢の娘だよ」
「お爺さん……」
それでもこの『さぬき』の老爺にとって、ナヨは唯一人の愛娘だ。自分が小さいな頃に拾い、この四年間、連れ添いの老婆と共に出来るだけの愛情を注いできた。
例えこれが運命でも、寂しい老夫婦の暮らしに暖かい光を与えてくれた、本当に優しい――目に入れたとしても決して痛くは無い自慢の娘。
そんな自慢の娘が月明かりの下、一人泣いている。それを何とかしてやりたい、もし例え出来ることが無くとも、その悲しみを減らしてやりたいと思うのが父としての常だろう。
「お爺さん。あ、あのね、私はあの月から――」
老爺そうした気持ちが伝わったのか、ナヨは月での事をポツリポツリと話し始める。
それはナヨがあの空にある月で暮らしていた事。ある時ちょっとした諍いが原因で、その場所から思わず逃げ出してしまった事。地球に降りて来て最初は怖かったけど、お爺さんやお婆さんと一緒に過ごす日々が本当に幸せだった事。
ミカド君は他の男の人たちと違って、とても優しくて誠実だった事。そのミカド君からの手紙が来ることが、少しずつ、少しずつだけど嬉しくなっていった事。そういった話をナヨは大切な宝物を扱うように、大事に大事に言葉として紡いでいく。
これは一つの物語。
何も知らなかった小さな女の子が、大事な物を見つけて、大事な事に気づいて、大事な想いを知る物語だ。様々な出会いと経験を経て、少女がちょっとだけ大人になる御伽噺。
ナヨは声を震わせ、しかしこれから起きる事をハッキリ老爺に告げる
「ナヨは……私は、月に帰りたくはありません。ですが、今度の十五夜……あの月に帰らないといけません」
それは涙と別離が待っている――ちょっと悲しい物語。




