聖書の翻訳文体について 神の霊言はどう訳されてきたのか? 私のキリスト教瞑想遍歴ノートより
(注) 以下あくまでも私の「個人的見解」になります
1、序説
聖書は文字通り「神の言葉」を集めたものです。
もっと具体的に言うならば、、
ユダヤの民(信仰者)が神に問いかけ、あるいは神の啓示に耳傾けて
それらを書き留めてまとめたものが聖書です。
旧約聖書とは
古い契約 (オールド・テスタメント)
でありこれはキリスト教徒側から見た、神との古い契約ごとが書かれているからです。
旧約の内容は大ざっぱに言うと
天地創造史
ユダヤの民と国の歴史
生きるための格言(箴言)
ユダヤに伝わるポエム(詩篇)
伝道の書(コヘレトの言葉)
予言者たちの言葉(預言書)
という内容です。
旧約外典としては
トビト記
ユディト記
などが重要です
新約聖書とは
新しい契約という意味です
ニュー・テスタメント
イエスキリストによって新たに結ばれた神との契約(救済)です
その内容は
イエスの伝記と言動が書かれた4福音書
使徒行伝(使徒の働き)
実質的なキリスト教の創始者であるパウロの手紙
黙示録
という内容になっています
2、聖書翻訳史
さてこの聖書ですが
初めて日本語に訳されたのが
室町時代にやってきた宣教師だと言われています
ですがこれは部分訳であって
完全訳ではないのです。
もちろん当時の日本語訳です。
さて一気に明治に飛びます
キリスト教の解禁により
始めて聖書の完全訳本が出るのが明治です。
それまでにあった
中国語訳の聖書からほぼ引き写して訳されたのが最初でした
ですから
書名も
旧約全書
新約全書
というタイトルでした
内容は漢文を読んでるようなもので
読解の困難だったでしょうね?
その後次第に日本語化された聖書が出るようになりました
ヘボン氏訳の聖書などが有名です
漢文を読むような文体からは改善されましたが
もちろん「文語体」訳です。
この文語体訳は戦後の昭和20年代まで通用しました。
私も当然この文語体訳で聖書を読んでいました。
ですからその後いわゆる口語体訳の聖書が出ると
すごい「違和感」を感じて、読むのが苦痛でしたね。
やはり聖書が神の書である限りは
余りにも「くだけた」口語体では
聖性が失われてしまうからでしょう。
聖なる言葉がそこらのおっさんが使ってるような「口語体」???
という拒絶反応が私のように「文語体聖書」しか読んでこなかったものには
もう、見るのも、読むのも「違和感」「拒絶反応」でしかなかったのです。
なお聖書の改訳ですが
1987年に「新共同訳」が出ています。
これがその後使用されていましたが
私から言わせればこれほどの「悪訳聖書」はありません。
というのはあまりにも「口語体」にしすぎたのです。
分かりやすくしようとしすぎたのです
くだきすぎたのです。
平明にしようとしすぎたのです。
そもそも聖なる書が
タダわかりやすければそれでよいのか?
という「大疑問」があります。
いや
聖なる書がそもそもワカリヤスイはずがないだろう、という「大疑問」があります。
以下その具体例を見てゆきますが、、、、
さてこの聖書あまり評判がよくなかったようで?
2018年に改訳されています。
ざっというと、、
文語訳にある程度「先祖返り」?していますね。
余りにも意味を取りすぎた?
あまりにも平明にしすぎた?
余りにも俗っぽくなりすぎた?
そういう反省から?なのでしょうか?
これはまあ当然と言えば当然でしょう。
聖なる言葉が、、ただわかりやすければ「よい」?はずがないでしょう?
神秘で、、
深淵で、、
まさに神の言葉が
そこらのおっさんが使うような「口語体」で良い?
ハズがないでしょうからね。
3、口語訳と文語訳の相違点
ここからは相違点と違和感を具体例でランダムに見てゆきます。
ロマ書 第12章第19節に出てくる言葉で
「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』
という言葉があります
これが1987年版ではこうなります。
「愛する人たち、自分で復讐せずに、神の怒りに任せなさい、復讐はわたしのすること、私が報復する」
はあ?
なにこれ?
「復讐するは我にあり」
じゃなかったの?
「復讐は私のすること」
ですか???
バカじゃないの?って、思うのは私だけでしょうか?
さて次に
「伝道の書」を見てゆきましょうか。
これは共同訳では「コヘレトの書」と言います
コヘレト??
何ですかこれ?
これはどう考えても
「伝道の書」以外にないでしょう。
私は個人的には「コヘレトの書」なんてタイトルは絶対認めません。
ちなみに、、、
私の持ってる古い聖書では
「伝道之書」となっています。
その冒頭の有名な句
「伝道者、言はく、空の空、空の空なるかな。すべて空なり、」
これを初めて私が読んだとき雷に打たれたような衝撃を受けました。
「日の下に新しきものあらざるなり」、、と続きますが、
この伝道の書は18歳の私には衝撃でした。
そこから私のキリスト教瞑想遍歴?が始まったともいえる文章でした。
それが、さて、共同訳ではどう訳されているのか。
こうなります
「コヘレトは言う、なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」
え?
なんじゃ?
これ?
そこらのおっさんが一杯飲み屋で酒飲んで、、くだまいて、、
「空しいよお、」、、って言ってるのとおんなじでしょう。
これではダメです
この訳は最悪です。
(と、思うのは私だけでしょうか?)
もし17歳の私がこれを読んだら?
キリスト教って、なんて詰まらない宗教だと見捨てたでしょうね。
このように翻訳文の違い一つで
内容がこうも激変してしまうのです、。
ある意味、とても、恐ろしいことです。
とくにそれが聖なる言葉であった場合には
致命的ですね、
さすがにそれに気づいたのか?
2018年改訂版では
「空の空なり、、、、」
という風に戻されているようですが
いずれにしても私はこういう口語体訳を一切、認めませんから
どうでもよいですが、、。
3、結論
以上たった二か所だけの新旧の翻訳文の比較でしたが
余りの相違に驚かれたでしょう?
一事が万事
このように文語体訳と
共同訳では
雲泥の差が翻訳文にあるのです。
同じ聖書とは思えないほどの相違と違和感です、
というか私などはもう、
共同訳版の聖書は開くのもいやです。
見るものいやですね。
そこらの飲んだくれおやじの「ボヤキ」にしか読めないような口語訳でしかない共同訳版聖書
それに対して、
深淵な真理を伝える高雅な麗しい日本語訳である「文語体訳聖書」
その相違は、、ツキとスッポンです
差は歴然ですよね。
まあ
そういうわけで
私は一切の口語体訳聖書は、否定ですから
新共同体訳などは、まあどうでもよいのですが、、、、
それでも日常、日頃思っていることを今回
改めて述べさせてもらったという次第です。
皆さんはどう思われますか?
それとも
別にどうでもいいですか?
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