明日を閉ざす英雄
邪神の時代が、終わりを告げた。
長かった。
あまりにも長く、惨憺たる激闘の時代であった。
終わりを齎したのは、一人の英雄と、彼を傍らで支え続けた少女、そして2人の勇士たち。
まるでありふれたおとぎ話。
輝かしい冒険譚とその結末を、人々は祝福した。ある者は歓声と共に、またある者は落涙と共に。
彼らは知らない。
英雄たちが帰還してからというもの、連日に渡って終戦を祝う祭りが王都全体で催されている、そんな中で、王都から遠く離れた地で繰り広げられている戦いのことを。
邪神を討ち果たした英雄が今、かつての仲間達と対峙していることを。
◇
木々の隙間を疾走する者がいる。
一般的な革製の旅装束を着る、黒い髪の少年。
目立たぬ格好ではあるが、木々をはじめとした障害物をものともせず森林を踏破する様は、尋常のものではない。
しかも、背には何者かを背負っている。
「リィナ、もう少しの辛抱だ。あと少しで……おまえの故郷だ」
彼が背負っているのは、月の光を受けて輝く銀色の髪を持つ少女だった。
少年がリィナと呼んだ彼女に対して、前を向いたまま呼びかける。
しかし、反応はない。
「心を守れ、リィナ。神なんかに負けるな」
リィナはピクリとも動かないが、眠っているわけでも、死んでいるわけでもない。
彼女は目を見開き、少年にしっかりとしがみついている。
ただ、意志がそこに宿っていない。
瞬きすることすら忘れ去ったかのように見開かれた翡翠色の瞳。
故郷へと続く道なき道を映している瞳で、彼女はここに在らざるセカイを、己の意志とは無関係に視ている。
否。
視ることを、強制されているのだ。
まだ人類が存在すら知らぬ、未知と狂気が無限に広がる、神々の世界を。
この世界に、未来をもたらす為に。
「"こっち側"を想え。故郷のことや、王都での祭り、美しい景色、美味い食べ物――ッ!?」
ふと、反応があった。
背にしがみつく少女の細腕に力が加わる。
「……ゲ……テ」
逃げて。
意味するところが警告だと一瞬で解釈し、少年は反転しつつ右腕を前方へ向ける。
「アガートラム!」
音もなく、魔術を行使する前兆の光すらなく。
まるで以前からそこに存在していたかのように、邪神を討ち滅ぼした銀の聖剣が少年の右腕に把持されていた。
そこにかつての絶対的な力は存在しない。邪神を滅ぼす為に、その力の殆どを失ってしまったのだ。
それでも、少年は巧みにアガートラムを操ってみせる。
背後より迫りくる脅威は、無色透明の刃――風の魔法、ゲイルカリバーの連射であった。
「うおぉッ!」
常人にとっては不可視の刃を、銀の刃が次々と打ち砕く。
僅かな空間と音の歪みを違和感としてとらえ、少年は合計6発のゲイルカリバーを完全に防ぎきっていた。
「ロイドか」
「俺以外、誰がいるってんだ」
上方より、男の声がした。
少年にとっては、余りにも聞き、親しんだはずの声だ。
これまで幾度となく助け合ってきた男が、今、明らかな敵意をもって、大木の上から少年たちを見下ろしていた。
「ちょ、ちょっと、ロイド! 今、本気で殺そうとしたでしょ!?」
更に、ロイドの背中から、戸惑い混じりの上ずった女の声がする。
その声もまた、少年が頼りにした仲間の一人だ。
「甘いぜ、ミリア。殺す気でかからねぇと、腕や足の一本すらとれねーぞ。まさか、説得出来るなんて思っちゃいまいな?」
「……できる、わよ」
ロイドの背にしがみついていたらしいミリアは、躊躇いがちに言うと、大木の上から飛び降り、少年の方へと僅かに歩み寄る。
「さ、さっきはごめんね。ロイドだって冷静じゃないんだよ。さ、みんなで王都に帰――」
「すまない、ミリア。それはリィナをエルフ・ヘイムに帰してからだ」
リィナを庇うように、後ずさる少年。
ミリアの表情が凍り付く。
「そんなことしたら……あなた、どうなるか分かっているの?」
「決めたんだ。――俺は英雄としてではなく、人類の明日を閉ざした反逆者として、裁かれる為に王都へと帰還する」
◇
邪神を倒す為に、アガートラムはその性能を如何なく発揮した。
この星のあらゆる魔術の源たるアザトース。
普段は大気に溶けて遍在しているその物質を一点に集束した究極の一撃によって、少年はこの世界を百年に渡って影から蝕んできた邪神を滅ぼした。
だが、代償は大きかった。
世界中でアザトースが枯渇し、魔術の行使が出来ない地域が出始めている。
今のところ王都に大きな影響はないが、時間の問題だった。
◇
「はじめまして、リィナと申します」
「これはこれはどうもご丁寧に。名乗る程の者ではありませんが、今後ともよろしく」
なんだこいつら、と言いたげなロイドとミリアを尻目に、エルフたちから差し出された少女とアガートラムに選ばれた黒髪の少年が挨拶をかわす。
黄金の葉が降り注ぐ、エルフヘルムの奥地。妖精王のひざ元たる秘境である。
邪神を倒す為に旅をする少年たちは、エルフ・ヘイムを捜し、幾多の冒険を経て、ようやくたどり着いたのだった。
古の時代、エルフの技師によって鍛造されたものの、本来の力を失っていたアガートラムにその力を取り戻させる為に。
森に巣食う魔物の討伐に貢献することと引き換えに、アガートラムに無限の力を与える為の"鍵"を渡すと約束した妖精王。
彼が一行に"鍵"として差し出した存在こそ、リィナであった。
妖精王は厳かに言った。
「その少女こそ銀の鍵」
「世界から神が消え、未来が閉ざされた時、その者が扉を開く」
「そして、世界に明日を齎すだろう」
だが、少年よ――
もし、未来を犠牲にすることになったとしても――
その娘の背負う代償を厭うのであれば――
◇
「多分、死にますよ。肉体だけが残って、魔力を生み出す為だけの器になるんだと思います」
聖剣を使って邪神を倒した後、自身に起きるであろうことを、リィナはあっけらかんと明かす。
「心配しないでください。それだけが、私の生まれた意味ですから」
ミリアもロイドも、驚いてはいなかった。
二人とも、それなりにアガートラムについて研究していて、アザトースの存在についても詳しかったからだろう。
「その役目、俺の命に代えても果たさせてやる」
国や民を邪神に奪われた王族の末裔、風の魔術師ロイドは彼女の覚悟を認め、守ることを誓う。
「貴女の覚悟を無駄にはしないわ。……こうして一緒に旅ができたこと、忘れない」
退魔の一族に生まれ、幼い頃より邪神との戦いに身を置いてきた魔槍使いの少女、ミリアもまた、涙を流しつつも、彼女の覚悟を尊重した。
「みなさん……ありがとう。短い間ですが、どうかよろしくお願いしますっ!」
少年だけが、何も言わなかった。
◇
邪神を倒す為にアガートラムの真の機能を使用すれば、世界中からアザトースが消失し、やがて魔術の使用には大きな制限がかかることになる。
魔術に頼って生きてきた国の技術レベルは後退し、世界のバランスは大きく崩れることだろう。
邪神が存在する間はなりを潜めていた、資源を奪い合う人間同士の争いが再び始まる可能性もある。
そんな事態を防ぐのが、リィナの役目だ。
世界中からアザトースが消えた時、彼女は外世界の神、アザトースの源たる神とこの世界を繋ぐ役目を担っている。
生きた魔力炉となり、世界に再びアザトースを満たす。
リィナはその為に生きてきた。
ひとたび神と繋がれば、彼女の心は外世界に囚われ、肉体は不滅なるアザトースの器として世界に繁栄を齎し続けることだろう。
代償は、たった1人のエルフ。
より良い未来の代償としては、余りにも安い。
「だが、てめぇにとっては違ったらしいな。世界を救う英雄が聞いて呆れる」
「俺は一貫して同じことをしているつもりだよ」
失望を隠そうともしないロイドに対し、少年もまた動じることはなかった。
「俺が救いたいと思うのは、いつだって目の前で苦しんでいる人々だ」
リィナが己の運命を語っている間、少年は無言で考えていた。
優先順位を、だ。
「あの時は、邪神に苦しめられている人々を救いたいと思った。今はリィナが苦しんでいる。俺は、英雄として何も変わっちゃいない」
「リィナは、人じゃないわ」
いつの間にか右手に青色の槍を顕現させていたミリアが呻くように言った。
「エルフであるかすら怪しい。鍵となる為に生きてきたって、言っていたじゃない」
「ああ、言ってたな」
「なら、今の状態が正しいのよ! 彼女だって、望んでいたじゃない!?」
必死に訴えかけるミリアは、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
だが、少年の決断は揺らがない。
「それは、皆が望んでいたからだよ」
「な、なによ……それ。私、私は……ちゃんと……彼女が居なくなるのは、つらくて……」
「よせよ、ミリア。そういうのは口に出すもんじゃねぇよ」
狼狽するミリアを諫めたロイドの右手には魔導書が握られていた。
戦うつもりだ。
「てめぇはその女を選んだ。人々の未来を、明日を閉ざす者に成り果てたわけだ」
「俺が助けたいと思うのはいつだって、いま目の前で苦しんでいる人々で、リィナもその1人だ。それを踏み躙って描く未来なら、俺はいらない」
アガートラムが、歴史上初めて、邪神以外の者に対して向けられた。
出力は絞られているが、並の戦士ではとても太刀打ちできるものではない。
故に、
「なら、加減はなしだ。――合わせろ、ミリア」
「……わかった」
明確な殺意が二つ、リィナを背負ったままの少年に襲い掛かった。
◇
妖精王の元に辿り着いた少年は、右腕を肩先から失い、腹には折れた槍の穂先が突き刺さったままになっていた。
「その傷では、もう長くはないな。……仲間を殺して辿り着いたか。人間は愚かだな」
少年はリィナをそっと下に降ろしてから口を開く。
「2人なら、森の中で、ノびてます。あ、王都に戻るって約束、守れそうにないな……コレ」
「余計に愚かだな」
「それより、彼女は……ゴホッ……どうなるん、でしょう」
血反吐混じりに問う少年。
白い床に赤黒い斑点が散りばめられるが、妖精王はさしてそれを気に掛けることもなく、淡々と答える。
「既に神との接続を断ち、貴様らとの旅の記憶を抹消した。目覚めた時には全てを忘れ、ただの愚かなエルフの娘へと戻っている」
「そう、ですか」
世界を蝕む邪悪を滅ぼした英雄。
英雄の起こした奇跡は、そう遠くない未来に、災厄を引き起こす。
災厄を打ち消す為には、とあるエルフの少女を、神への供物として捧げる必要があった。
「貴様は、英雄たり得なかった。世界は再び、混沌に包まれるであろうよ」
「そう、でしょうね。けれど――」
邪神を斃し、今の世界を救った少女が、穏やかな寝息を立てている。
久方ぶりに目にしたその顔を見て、血まみれの英雄がくすりと笑った。
「俺たちには、今が精いっぱい」
これはエルフに伝わるおとぎ話。
遠い昔に滅びた世界にまつわる、ありふれた英雄譚の一つ。
子供たちに読み聞かせる、当事者の少女にとっても、それは同じこと。