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短編の本棚

妻恋い

作者: 九藤 朋

 それまで共に暮らしていた相手の欠落とは、空白の誕生を意味する。

 私は長年、連れ添った妻を先日、病気で見送った。通夜やら葬式やらの手配を済ませ、妻は白い箱になって我が家に戻ってきた。今は仏間に置いてある。

 娘が一緒に暮そうと私に言ってきたが、私は断った。幸い、家事の類は妻と同じくらいに慣れていた。

 妻は着道楽だった。着物に一切関心のない娘と違い、あれやらこれやらの着物や和装小物を集めていた。私の収入は平均よりだいぶん高く、また、父母から継いだ遺産もあった為、妻の道楽も楽しませてやることが出来た。

 あとに遺された美しい着物の数々を、娘は妻の着物仲間に譲ったらどうか、それとも業者に売るか、と言ったが、私はかっとしてしまい、そんなことが出来るか、これは母さんなんだぞ、と怒鳴ってしまった。普段は温厚で通っている私の一面に触れた娘は泣きそうな顔をした。済まないことをした。


 この家で一番、広い和室の障子を開ける。

 幾つもの衣桁(いこう)に、何枚もの着物。

 妻が亡くなってからあるだけの衣桁を並べ、着物を毎日とっかえひっかえ変えて、飾っていた。

 それは私なりの弔いであり、妻を偲ぶ儀式だった。


 だがその内、私は堪らなくなった。

 いつも横に寝ていた人がいない。起きればおはようと言い、当たり前のように食事を共にした人がいない。テレビで面白い映像が流れた時、笑い合ってくれる人がいない。


 いない、ということの空漠(くうばく)に、私は押し潰されそうだった。


 いない。いないのだ。彼女はもうどこにも。

 ただ空白のみがある。

 その空白の、無情さよ。


 そうするとあれ程、輝いて見えた着物の数々が苦痛になってきた。妻の不在を声高に言い立てる、無粋な乱暴者にさえ見えてきた。

 季節は秋だった。

 殊に人恋しくなる季節に、遺された着物は無法だった。

 心臓を捩じり上げられそうな、そのまま私さえ事切れてしまいそうな痛みに、私は内心で七転八倒した。


 娘が様子見がてら、孫を連れて来た。

 初めての孫は男の子で、本来なら喜ぶところが多いのだろうが、妻は着物を一緒に楽しめないわと少し残念そうだった。しかしどこまでも甘い祖母だった。和室の障子の向こうに孫息子は興味を示した。あそこはお前には縁のないところだよ、あそこは……、と言った私の声が不覚にも震えた。私は急に立ち上がると、膝の孫息子を娘に託し、家中枢の座敷に向かった。どうしたの父さん、という娘の声を無視して。

 私は妻がよく使っていた、黒い元はプラスチックのお重であった裁縫箱から断ち(ばさみ)を取り出した。

 そうして娘たちのいる縁側に取って返すと、障子を開け放ち、一番、近くにあった着物に無作為に鋏を入れた。娘の悲鳴が聴こえる。何をやってるの、お父さん、と。私は構わず鋏を進めた。それは妻が春になるとよく着ていた(うぐいす)色の訪問着だった。

 私は殺した鶯を手に持ち、庭の柿の樹の枝を適当に数本折り取ると地面に置いた鉄のバケツに放り込み、ライターで火を点けた。娘は私がしようとすることが解ったのだろう、正気の沙汰じゃないわよと叫んだ。

 もちろん私は正気ではなかった。

 私は鶯を、焼いた。


 その時、自分がどんな顔をしていたのかは解らない。だが娘は泣いていた。泣きながら孫を連れて静かに庭の木戸から外に出て行った。


 私は毎日、着物を殺し続けた。

 ある日には更紗模様を。

 ある日には西陣織を。

 ある日には大島紬を。

 ある日には紅型(びんがた)を。

 金糸銀糸の着物たちを。


 そうして火葬した。

 着物は意外にすぐには燃えず、しつこく身をくねらせてはやがて炎に屈した。

 秋の高い蒼穹に煙が立ち昇っていた。

 かぐや姫の話をぼんやりと思い出す。

 かぐや姫は地上を去る時、帝に宛てて不死の妙薬を残したのだ。だが帝はかぐや姫のいないこの世に不死であってどうするかと、家来に命じて富士山の山頂でその妙薬を焼かせたのだという。月にいるかぐや姫に、煙がせめても届くようにと。


 今の私にはよく解る。

 その人のいない人生の味気なさ。それはごく平凡で誰の身にも起こることの筈なのに、いざ起きてみるとその重みに驚愕するのだ。

 そこまで彼の人は自分の一部であったかと。

 四十九日を迎えるまでには着物も全て燃やし尽くしてしまうだろう。

 その時に私の心がどのような状態であるか、それは私にも解らない。

 或いはこの秋の空のように澄み切っているかもしれないし、或いは疲弊し切っているかもしれない。虚しさだけが残るのだとしても。







「君にまだ、いて欲しかったよ」







 


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