2.その男、けんご
案内された部屋はだいたいあの部屋より一回り小さい程度の広さで、正面には大きな窓、床にはカーペットが敷かれ、向かって右側の壁際にベッドがひとつと左側の壁際に机と椅子がひとつずつ。
ぼくには宿の部屋の良し悪しは分からないが、すごく快適そうな部屋だと思った。
…あの部屋、確かアーナさんに運んでもらったあの部屋は、どんなだっただろうか。不意にそんなことを考える。しかしよく思い出せない。
首を傾げながらもう一度室内を見回すと、なぜかベッドが気になった。
なぜだろう。宿屋の個室にベッドがある。それは当たり前だ。当たり前のはずなのに、なぜこんなに気になるのだろう。
「まあいいか」
分からないことは考えていても仕方がない。とりあえず部屋に入り、調度品の類や収納スペース、戸締りの仕方などを確認する。
一通り確認を終えてふと窓の外に目を向けると、ちょうど日が傾いてくる頃合いだった。
椅子を窓の前に持ってきて座り、目を細めて夕日を眺める。
日の光が街並みを、視界を、赤く染め始める。
綺麗、だな。
この世界にも夕焼けはあるらしい。
そして太陽が遠くの山に最も近づき、世界は最も赤くなる。
キイィン
その時、耳鳴りがした。
それは次第に強く激しくなり頭痛とともにぼくに襲い掛かる。
「っ、くぁっ!」
たまらずぼくは椅子から転げ落ちた。
夕日に染まる草原。
長い長い道。
小さな池。
赤いアヒル。
そして、深紅の巨人。
見たことのない、見るはずのない景色が頭の中でぐるぐると回る。
左肩が焼けるように痛む。
何かがおかしい。考えろ。自分の中のなにかが叫んでいる。
無理だ。苦しい。痛い。
アーナさん、けんご…。
…けんご?
目を覚ますと、ぼくはベッドに寝ていた。
そうだ、今日からぼくはここで住み込みで働かせてもらうことになったんだ。
初日から寝坊するわけにはいかない。
「よいしょ」
むくりと体を起こすと、濡れタオルが布団の上に落ちた。どうやら額に乗っていたものらしい。
「?」
風邪でも引いていたのだっけか。そういえば昨日の記憶が曖昧だ。ぼくはいつベッドに入ったのだろう。
いつのまに寝間着に着替えたのだろう。晩御飯を食べた記憶もない。
「起きたか!」
はっきりしない記憶に困惑していると、部屋の扉が開いて山田さんが入ってきた。
「あ、はい。あの、ぼくはいったい…。」
ひどく慌てた様子の山田さんに昨日のことを訊ねる。
「お前さん、この部屋の中で倒れてうなされていたんだよ。何か覚えていないか?」
山田さんはベッドの横に椅子を置くと、眉根を寄せながらそう言った。
「そうだったんですか。いえ、何も思い出せなくて…」
ぼくが倒れてうなされていた? 転んで頭でも打ったのだろうか。
「そうか…。うなされながら、けんご、けんごとしきりに呟いていたようだったが、知り合いか?」
「けん、ご…?」
…誰だ。
知り合いなんて言っても、この世界に来てから出会ったのはアーナさんと山田さんくらいだし、元居た世界にけんごなんて名前の奴はいなかったはずだ。
本当に?
出会ったのはその二人だけだったか?
…なにか、忘れている。
無意識に左肩に手が伸びる。
なんだ。左肩がどうしたんだ。
ぼくの中にいるなにかが必死に訴えかけてくる。
思い出せ。
もう一人。
その男…。
「けんごだって?」
「そうなんすよ。『すどうけんご』なんて名乗る男が、『トウヤ』に会わせろって」
「分かった。少し待つように伝えてくれ」
「なんだ、やっぱり知り合いだったのか?」
いつの間にか訪れていたらしい従業員を戻らせたあと、ぼくに向き直り軽く笑いかけてくる山田さん。
「そう、みたいです」
そうだ。思い、出した…!
「あ! ちょっとあんた!」
ドタバタと廊下の方が騒がしい。
そして、その男はもう一度姿を現す。
きっと、これからも何度も何度も。
バンッ
乱暴に扉が開かれる。
「おっす。おれはけんご。探したぜ。人間」




