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           3  研修医一年・八月

       3 《研修医一年・八月》

              一


 八月五日、土曜日に、二人はバッカスへ向かった。

 何時もより、早めに夕食を済ませて、夜七時頃には、アパートを出る。

「ここから、電車使って四十分くらい?」

「だな。 バイクで行くのは、止めとくか」

「そうだね。 あそこ行ったら、深酒になるのは目に見えてるもんな」


 利知未の左手の薬指には、倉真から貰ったエンゲージリングが光っている。 今日は、パールのネックレスもして来た。 最近の癖で、口紅くらいは塗っている。 腕時計は美由紀から貰った、女持ちの物だ。


 あの頃から約二年が経ち、随分、利知未の女っぷりが上がっている。 倉真は確りと、その腰に手を回しながら、宏治がどんな反応をするのか、楽しみだと思っていた。


「久し振りに行くんだから、看板まで、ゆっくりしたい所だけどな」

「終電、なくなっちゃうでしょ?」

「二人で泊まるのは、流石に気も引けるか」

「昔の状態ならイザ知らず、今の状態では、ちょっと恥ずかしい感じだな」

 利知未が、照れ臭い顔をして言った。

「それも解る」

「倉真は、泊まって行きたい? 多分、美由紀さんも喜んでくれるんだろうけど……」

「こーゆー事が、し難いだろ? あの家じゃ」

 利知未を軽く引き寄せ、耳元で囁いて見た。 軽く、耳の横へキスをする。

「…恥ずかしいな」

「平気だ。 俺の顔が見える高さに目のあるヤツは、この車両には居ないみたいだからな」

チラリと周りを視線だけで見回して、倉真が言う。

「…そーだけど」

 少し、赤くなってしまった利知未を見て、倉真は小さく笑った。


 利知未の気遣いに、倉真なりの思い遣りで返事をした。 それは、解った。

 恥ずかしいと思う反面、嬉しいとも思う。 十五分後、電車を降り、駅から徒歩十分の距離にある、バッカスへと歩き出す。



 バッカスの、懐かしい鈴の音を響かせて、二人で店内へ踏み込んだ。

「いらっしゃいませ!」

 営業スマイルで振り向いた美由紀が、一瞬、目を丸くする。

「晩は」

倉真が、コンバンワ、の短縮形で挨拶をした。

「利知未! 倉真! 二人とも、久し振りねぇ!」

思い切り嬉しそうな笑顔で、迎えてくれた。

「宏治も、役に立ったのね」

くすりと笑って呟いて、二人を手招いた。

「早く、いらっしゃい。 ボックス席で、のんびりして頂戴」

美由紀に言われて、二人はチラリと顔を見合わせる。

「こっちで、良いですか?」

利知未が答えて、カウンター席へ向かって歩き出した。

「カウンターじゃ、ゆっくり出来ないでしょう?」

「いいえ。 昔から、ここが私達の指定席でしたから」

大人っぽく成長した利知未の女らしい笑顔に、美由紀も目を細める。

「…そうね。 良く、そこの隅の席で飲んでいたわよね。 懐かしいわ」

まだ二年しか経っていないのに、可笑しいわね、と言って、美由紀が笑った。


 カウンター席、昔から何時も座っていた角の席へ腰掛けて、倉真が言う。

「宏治は?」

「今、ちょっと買い出し中なのよ。 牛乳、切れちゃって」

「そうですか。 …じゃ、のんびり飲んで、待ってようか?」

「そうだな」

利知未の言葉に頷いて、倉真が答えた。 美由紀が一端ボックス席を立ち、カウンターへ入ってくれた。

「まだ、キープボトル残ってるわよ? 三男と末っ子が、定期的に来て入れ替えて行ってるわ」

笑いながら言って、『FOX』のタグがついたボトルを用意してくれた。

「綺麗になったわね。 倉真も随分、逞しくなった様だけど、利知未の変わり様に比べたら大した事無いわね」

「相変わらず、スッパリ切ってくれるっすね」

そう言った倉真の顔を見て、コロコロと笑う。

「息子は甘やかさないのよ。 娘は可愛がってあげるけど」

「そう来ますか」

「当たり前でしょうが。 男は社会の荒波に揉まれても平気な精神力を身に着けさせてあげるのが、母親の勤めよ」

「そっか、覚えておこう」

「何? 子供、出来たの?」

「そう言う意味じゃなくて。 …将来の為に」

「利知未も、将来の子育てを考えるようになったのね。 はい、ロックで良かったわね?」

「流石、俺たちの癖、良く覚えてるな」

「何年、目の前で飲んで来たの? あんた達、未成年の癖に何時もロックで、ガンガン飲んでいたでしょう。 忘れる訳、無いわ」

「お世話になりました」

「これからも、お世話させて頂戴。 余りにもご無沙汰で、少し心配になっていた所だったのよ」

「済みません」

素直に二人で頭を下げた。 息の合った様子に、美由紀が笑う。

「呼吸がピッタリね」

笑われて、二人も照れ臭くなって、はにかんだ笑みを見せる。

「美由紀ちゃん、誰だい?」

酔っ払った常連・商店街店主席から、声が掛かった。

「やだ、忘れちゃったの?」

利知未と倉真よ、と言い掛ける美由紀に、倉真は人差し指を立て、内緒の意思を示す。 利知未が面白そうに笑っている。

 倉真は、椅子ごと振り向いた。

「久し振りっす。 まだ、手作りコロッケ、やってますか?」

「家の看板商品だよ」

先を言い掛けて肉屋店主・大熊氏は、目を見開いた。

 倉真を酔っ払った目で確りと凝視する。

「もしかして、一番どうしようもなかった息子か? 美由紀ちゃんに世話やかし切ってた」

「そりゃ、キツイな。 確かに俺が一番、世話焼かしてたっすけど」

「もっと世話を焼いて貰った、娘も居ますよ?」

利知未も椅子ごと振り向いた。

「こいつは驚いた! すっかり、落ち着いた様子だな」

「誰だって?」

「あいつ等だよ、最近、顔出さなかった、残りの二人!」

「倉真と…、もしかして利知未か? ……随分、綺麗になったもんだ」

蕎麦屋の大野は、相変わらず常連組みの中でも紳士的だった。

「そう言われると、照れ臭いな」

「本当に利知未か?」

八百屋の佐々木は、やっと口をきく。

「久し振りでしょう? 昔、この子達のこと良く面倒を見て貰ってました」

美由紀が言う。 魚屋・田島は何時も通り、人一倍飲んでいた。

「何だ、何だ? 誰だって? おお! 不良少年少女か? テメー、良くも良くも今まで顔、出さなかったじゃないか?! あぁ? アンだけ美由紀ちゃんに世話になっておいて、冷た過ぎだぞ! そーは、思わネーか?」

「また随分、酔ってるな。 久し振りで説教、されちまった」

 参った顔で倉真がぼやく。 それを見て利知未が笑って、田島に答えた。

「本当に、申し訳ありません。 やっと大学を卒業して、日々、忙しくしていたら、あっという間に二年も経っちゃいました」

 絡み酒には、何を言っても始まらない。 昔から田島のコレが始まると、利知未は素直に聞いていた。

「何時もの事だよ。 奥さんに迎えに来られる前に、たらふく飲むんだよね、田島さんは」

利知未に言われて、倉真は軽く首を竦める。

「違いない」

「利知未は相変わらず、賢いな」

蕎麦屋の大野は、そう言って笑った。


 カウンター席から、商店街店主組みの席へ言葉を投げながら、賑やかに飲んでいた。 裏口の扉が開き、宏治が買い物袋を片手に戻って来た。

「ご苦労様! 宏治、早くカウンター入って」

美由紀が声を掛けた。 宏治には、まだ二人の姿は目に入っていない。

「了解。 …人使い荒いな、お袋は」

ぼやきながら、店内への扉を開いた。


 店へ入り、先ずは倉真の後姿を見つける。 五日前に会ったばかりだ、直ぐに気付いた。

「ただいま。 倉真、来てたのか!」

宏治の声に、倉真が軽く振り返る。 利知未はまだ店主組みの方へ身体を向けて、ニコニコと、田島の説教に相槌を打っている。

「来たぜ。 利知未も一緒だよ」

倉真の声に、利知未が振り向いた。

「久し振り。 …元気だったか?」

 一瞬の間で、気分が少し昔に戻る。 宏治は、二年前より更に男っぷりが上がっていた。

「………」

振り向いた利知未を見て、宏治はビックリした顔で、止まってしまった。

 二年前より綺麗になっている。 口紅を塗り、髪も整えて眉も綺麗に整え、細い首筋に倉真から貰ったパールのネックレスが、上品な光を放つ。


「なーにやってんの、この子は。 利知未よ、判ってる?」

 美由紀が、息子の目の前で手をヒラヒラと振る。

「随分、変わったからな、無理も無い。 俺達だって、信じられないよ」

大野は軽く笑みを見せる。

「本当にね。 じゃ、宏治、カウンターお願いね」

美由紀は、まだ呆けた顔をしている宏治を見て小さく笑う。 カウンターを出て、ボックス席へと移動して行った。

「……本当に、利知未さんっすか?」

 宏治の様子に、利知未もくすりと笑みを漏らす。

「そーだよ。 そんなに変わったか?」

「倉真、おれには別人に見えるんだが、本物だよな?」

「当たり前だろ。 手、出すなよ?」

 倉真が、恐れ入ったかと言わんばかりの笑みを見せた。

「……へー。 随分、女っぽくなったな。 マジ、驚いた」

「ありがとう。 褒め言葉として、受け取っておくよ」

利知未はグラスを宏治へ傾け、乾杯の意思表示をした。

「言葉は相変わらずですね。 やっと理解できました」

 倉真の前、美由紀の前、利知未の前、客の前、其々で、宏治の言葉は昔からクルクルと変る。昔、利知未の前に居た時の調子を、やっと取り戻した。

「昔から言っていたでしょう。 利知未はちゃんとしたら、見違えるくらいの美人になるよって。 だから早くに掴まえてしまうべきだったのよ」

 美由紀がボックス席から声を投げる。

「捕まえるって、嫁に来いってこと?」

「そうよ。 もっと宏一と宏治に、発破掛けとけば良かったわ」

「あはは、ありがとうございます。 けど、宏一と宏治じゃ、兄貴と弟にしか見れなかっただろうな。 ……付き合い、長過ぎて」

「大して、変わらないでしょうに」

倉真の事を指した美由紀の言葉に、チラリと二人、視線を合わせる。

 美由紀は、大熊が渡してくれた水割りに口を付けていた。

「好いヤツでも、出来たんじゃないのか?」

佐々木の言葉に、宏治が答える。

「好いヤツも何も、こいつ等、婚約したんですよ」

「こいつ等ぁ? だったら、相手を連れて来いってんだ!」

 田島は酔っ払って怒鳴る。 吹き出して、宏治がもう一度、説明をする。

「だから、二人が婚約したんです。 倉真と、利知未さんがフィアンセです」

美由紀も流石に驚いていた。

「水臭いわね。 何でもっと早くに言わないの?!」

付き合ってる事は当然、知っている。 同棲中な事も勿論、判っている。 婚約までしたと言うのは、初耳だった。 宏治も言っていなかった。

「婚約指輪、してるじゃないか? お袋、気付かなかったのか」

利知未の左手を見て、宏治が言う。

「そんなチッチャなダイヤのリングが、婚約指輪だ何て思わないでしょう」

「…キツ」

「倉真、平気?」

痛い顔をする倉真に、利知未が囁いた。 美由紀は二人を見て笑っている。

「倉真、給料いくら貰っているの? 私の可愛い娘に手を出したんだから、キッチリ、三か月分のお給料、払ったんでしょうねぇ?」

 笑いながら、倉真をからかってやった。

「いいんです。 金額の問題じゃ、無いんですから」

利知未はハッキリと言い切った。

 美由紀の冗談は判っている。 始めの言葉通り、美由紀は息子達に対しては、昔から容赦がない物言いをして来た。

「あらあら、当てられちゃったわ」

美由紀が言って、くすりと笑って言い足した。

「おめでとう。 じゃ、今夜はお祝いに、私の奢りにさせて頂戴。 熊さん達も三千円均一で良いわよ。 ささやかだけど、パーティーにしましょう!」

「いいのかい? 美由紀ちゃん。 俺達も、もう結構、飲んでるよ」

「いいのよ。 皆、揃って、あの子達の事、良く気に掛けてくれて来たでしょう。 身内のパーティー。 宏治。 看板、片付けてしまって」

「了解」

 美由紀に言われて、宏治が看板を片付けに外へ出た。

「本当に、良いんですか?」

「当たり前でしょう? 何を遠慮してるの。 あなた達は私の子供も同然なんだから。 親の厚意は、素直に受けなさい」

「ありがとうございます」

 美由紀の言葉に、利知未が頭を下げて礼を言う。 倉真も頭を下げる。


「看板、片付けたよ。 貸し切り札、出しておいた。」

 外から戻った宏治の言葉を受け、美由紀が頷いて言う。

「良いわよ。 さてと、じゃぁ久し振りに、お店で料理の腕を振るわせて貰おうかしら」

「あたしも手伝います」

「そうね。 元、従業員だし、娘だし。 遠慮はしないわよ」

「そうして下さい」

 美由紀に返して、倉真に軽く頷いて、利知未はカウンターへ入った。

「じゃ、何でも良いから、材料見て作ってみて」

利知未は頷いて、冷蔵庫を検分した。

「倉真、この前のあれ作れそうだよ?」

「どっちだ?」

「倉真の好きな方」

「そりゃ、良いな。 宏治、日本酒もあるよな?」

「勿論。 この店に無いモノは無いよ」

親友二人はニヤリとし交わした。

「じゃ、冷酒にして出してくれ」

「OK、何が出てくるのか楽しみだな」

宏治は言いながら、日本酒を用意した。

 美由紀と話しながら調理を開始する利知未を見て、大熊が倉真を呼ぶ。

「こっちで飲んでようじゃないか」

「っすね」

席を立つ倉真に、宏治が、栓の開いた高級ブランデーのボトルを渡す。

「半年以上前の、キープボトルだよ。 金は貰ってある」

「良いな、サンキュ」

 期限切れボトルの残りは昔から、宏治と倉真や仲間達の腹へ収まっていた。 美由紀もその事は大目に見ていた。

 酒の注文は宏治が引き受けて、美由紀と利知未は、一時間以内で乾き物やフルーツを含めた、十皿を仕上げてしまった。

 十皿の中には、浅利のヌタも並んでいた。



 宏治も混ざり、ボックスのテーブルを繋げた席へ移動した。 全員で乾杯をして、パーティーが始まる。


「何時、婚約したんだ?」

 大野に聞かれて、倉真が答える。

「婚約って言っても、略式で。 まだ一週間っす」

「じゃ、正式にする時に、もっと高い指輪、買う訳か?」

さっきの美由紀の冗談を持ち出して、宏治が突っ込んだ。

「お前な、当てられてる仕返しか?」

「良く判ってるじゃないか?」

「ったく」

二人の会話を聞いて、利知未が美由紀と顔を見合わせて、くすくすと笑う。

「だったら宏治。 その前に、もっと立派な婚約指輪を用意して、利知未にアタックなさい。 お金は出してあげるわよ?」

美由紀が笑いながら、更に冗談を続ける。

「って、お袋も言ってるし、マジ、アタックしようか?」

「テメ、ふざけろ」

宏治の頭を抱え込んで、ウリウリと反撃してみた。 親友同士のじゃれ合いを見て、また笑い声が響く。

「にしちゃぁ、本当に、おじさんも口説きたくなるようなイイ女に成ったなぁ、利知未は。 ……何、したんだ?」

佐々木が倉真に突っ込んだ。 倉真は宏治を開放して、話をする。

「何って?」

「家のカミさんでも綺麗になる秘訣ってモンを、教えろって事だ」

「そう言われてもな」

「ちゃんとセックス、してる?」

美由紀が隣から突っ込んだ。

「また、ストレートだな、お袋」

倉真から開放され自由になった宏治が、我が母の言葉に目を丸くする。

「女が綺麗になる秘訣は、愛情と満足するセックスしか無いのよ」

「極論だな。 美由紀さん、彼氏居るんだ?」

利知未は照れ隠しに突っ込み返した。

「当たり前でしょう。 こんないい女、ほっとかれると思うの? 利知未」

「ごもっとも」

首を竦めて笑って、利知未が肯定する。

「誰だ? 我らのアイドルを独り占めするフテー野郎は?!」

「内緒よ。 肉切り包丁、振りかざして乗り込まれたら大変だもの!」

「そりゃ、そーだ」

倉真も頷いて、また、笑い声が上がる。

 笑いの中で、宏治が倉真に聞いた。

「けど、マジ、おれが利知未さん口説いたら、どうする?」

「いくらお前でも、タダじゃおかネー」

倉真は指の関節を鳴らして、軽く宏治を睨んでやった。

「はいはい。 血生臭いのは、ごめんよ。 利知未も困ってるでしょう」

「言い出しは、お袋だぞ?」

「それもそうだったわね」

「平気ですよ。 襲われそうになったら、投げ飛ばします」

「そうね、利知未は家のより強かったものね」

「力は、もう適わないとは思うけど。 合気道、習ってたから」

「そうだったのか。 俺達は知らなかったな」

「色男が、良く利知未に腕、捩じ上げられていたでしょう?」

「色男って? ああ、あの、哲とか言うキザなアンちゃんか!」

「哲、か。 懐かしい名前。 ……まだ来てるんですか?」

「偶には顔を出してくれていたわね。 このブランデー、佐久間さんの期限切れよ」

「そう言えば、そうですね。 じゃ、半年は顔、出さなかったんだ」

「奥さんと海外旅行へ行くって言ってたな。 半年前には戻る予定だけど判らない、期限が切れたら新しいボトルを入れにくる、って言って」

「相変わらず、遊ばせる金、持ってるんだ」

羨ましい事だと、利知未は軽く首を竦めた。

「けど、私は利知未が娘になってくれたら幸せね」

「美由紀さんまで、止めてくれよ。 親子でタッグ組まれたら、勝ち目、無いかも知れネー」

「随分、弱気な事、言ってくれるじゃない? 倉真」

「お、亀裂が入るか?!」

佐々木が割って入った。

「そんな事、有りませんよ。 倉真のセコンドは、あたしが入るんですから。 一緒に戦っちゃいます」

「ですって。 残念だけど、宏治の入る余地は無さそうよ。 諦めましょうか?」

「みたいだな。 おれもダチに、ボコボコにされたくは無い」

小さく笑って、宏治がタバコへ手を伸ばす。

「結婚は、何時の予定?」

「まだ一、二年は先になるかな」

「それまで、大丈夫なの?」

「勿論。 ……倉真だったから、決めたんです」

利知未の言葉に、美由紀が優しい笑みを浮かべた。

「ご馳走様。 でも、何かあったら遠慮なく私に相談するのよ。 何時でも店開けて待っているからね」

「ありがとう」

 利知未も笑顔で、礼を言った。


 結局、看板までパーティーは続いた。

 利知未と倉真は、美由紀の奢りで浮いた金を使って、タクシーを利用して帰る事にした。 タクシーが来るまで、利知未も片付けを手伝った。



 店を出る前、泊まって行けば良いのにと言う美由紀に、宏治が言った。

「勘弁してくれよ? これ以上、二人に当てられたら、夜、眠れなくなっちまうよ、お袋」

「そう? コップ壁に当てて、聞き耳立てるのも楽しそうよ?」

酔っ払った美由紀は、何時もより過激な冗談を言って笑っていた。


 これからは、もう少しチョコチョコと顔を出すことを約束して、笑顔でサヨナラをした。



 八月は、まだ始まったばかりだ。 今月、二人はもう一件、飲み会をする事になる。 その前に急な来客が、二人のアパートへやって来た。




              二


 翌週から利知未は、遅出、夜勤、通常勤務を繰り返した。

 忙しい生活の中、あっという間に月の中旬に差し掛かる。 利知未が休日の平日、懐かしい顔・第二弾がやって来た。


 翌日は、利知未は遅出の予定だった。 倉真とのんびりと晩酌をしようと思い、今日も空いていた時間を使って、摘みを何品か用意していた。


 夕食も終わり、入浴も済ませた夜・九時過ぎ。 来客を知らせる呼び鈴が鳴る。 リビングで二人が、顔を上げる。

「誰だ? こんな時間に」

テキストを開きかけた手を止め、倉真が呟いた。

「あたしが出るよ? 倉真、勉強してて」

「…夜だしな。 俺が出る」

少し考えて、利知未を制して玄関へと向かった。


 ドアチェーンを掛けたまま、扉を細く開いた。 隙間から覗かせた顔を見て、倉真は目を丸くする。

「バンワ」

「準一! どうしたんだ、こんな時間に?!」

慌ててチェーンを外して、大きく扉を開く。

「別に、仲間の家へ遊びに来てみただけだよ」

ヘラリと笑っている。 缶ビールをワンケース抱えていた。

「はい、土産」

ダンボールごと倉真に手渡して、ニコニコしている。

「どうしたの、倉真。 誰だった?」


 奥から利知未が顔を出す。 倉真と同じ様に、目を丸くした。

「ジュン? 行き成り、どうした?」

また、少し昔の自分が顔を出す。

「二人で同じ事、聞くんだな」

「当たり前だろーが。 行き成りの訪問にゃ、チョイ時間が遅過ぎだ」

ビールケースを片手で支えて、倉真が準一の頭を軽く小突いた。

「イッテ! 相変わらず手が早いな」

「兎に角、上がって? 折角、来たんだから」

「お邪魔」

「マジ、邪魔者だよ」

 利知未に促されて、準一が上がり込む。 倉真が呆れてぼやいていた。


 三人でリビングへ戻り、倉真はテキストをテーブルの端に寄せた。

「結構、広いんだな」

キョロキョロとリビング中を見回して、一人掛けのソファへ勧められる前に腰掛ける。

 その様子を見て、相変わらずの準一に利知未は小さく笑ってしまう。

『すっかり弟、だな』

 利知未だけじゃない。 倉真にとっても、弟分だ。

「で、本当にどうしたの?」

「住所改めて見たら、バイクで二十分位で来れそうだったから、試してみた」

「それだけか?」

「それだけだよ。 酒屋に寄って来たから、二十五分掛かったな」

時計を見て準一が言う。

「にしては、どうせなら冷えたビール持って来いよな?」

「冷凍庫へ入れとけば、直ぐ冷えるよ?」

「じゃ、折角だから、そうしようか?」

利知未がリビングを出た。 ドアの脇へ置いてあったビールを、箱ごと持とうとする。

「俺が持ってくよ」

倉真が、利知未の変わりに持ってくれた。

「ありがと。 今夜は、晩酌にしちゃおうか?」

「…だな」

準一がいるのでは、勉強どころでは無さそうだ。 二人の仲良い様子を見て、準一はニマニマしていた。


 先に、冷やしてあったビールを出して、昼間から用意してあった摘みも、冷蔵庫から取り出して来た。 五ヶ月前の、透子の結婚式の時、貰って来た引き出物に8客セットのグラスが有った事を思い出して、利知未は棚の奥から引っ張り出した。

『始めて、この部屋へお客が来たって事だ』 改めて、驚いた。

引っ越して来て、一年四ヶ月以上が経っている。 こんな時間でもなければ、ワクワクする事なのかも知れない。 現在、夜の九時半を回っている。


 利知未が用意してくれた摘みと酒を、三人で飲んだ。

「樹絵とは、会えてるの?」

「連休の度に、泊まりに来るよ」

「その為の引越しだったのか?」

「大半ね」

倉真の質問に軽く答える。 倉真は、準一が引越した切っ掛けは聞いた事が無かった。

「それより、この前バッカス行ったんだって? 呼んでくれよな」

「バッカスには、顔出してたってな」

「アダムにも良く行くよ? 樹絵が泊まりに来ると、アダムのマスターに挨拶をしに行くからね」

話を聞いて、樹絵も確りしている、と思う。

 利知未は、アダムにも最近、行っていなかった。 忙し過ぎるのは、理由としてはある。

「その内、あたし達も顔出さないとね」

「そうだな」

倉真は、偶にはアダムへ行く事もあった。 その度に、今度は利知未も連れて来いと、マスターから言われている。


「それよか、いい眺めだな。 利知未さん、何時も家だとそんな格好してんのか?」

暑さに負けて、利知未はチューブトップに、短パン姿だ。

 素肌にバスタオルを巻いているのと、露出度的には指して変わらない。 利知未は、口に運んでいたグラスを持つ手が止まる。

「いやらしいな」 少し赤くなって、呟いた。

「いいよ、着替えてくる」

「別に、いいじゃん? 倉真の前で手を出す程の、馬鹿じゃないよ」

「お前が、行き成り来るからだろうが」

「お陰で、良い目の保養が出来た」

 準一は、倉真に睨まれても、気にもしないで酒を飲んでいる。

「そろそろ、ビール冷えたんじゃん? 持って来ようか」

「あたしが行くよ」

準一を止めて、利知未がソファから立つ。 冷蔵庫の中身は、余り見られたい物ではない。

 ついでに寝室へ寄り、上着を引っ掛けて来た。


 冷えたビールを追加して、再び飲み始める。

「遊びに来るには、丁度イイ距離だったな」

「今度、来る時は連絡寄越せよ?」

「そーしたら、ご馳走でも作ってくれるのか?」

「バカ言え、礼儀だろうが。 二人とも居なかったら、どうするんだよ?」

「諦めて帰るよ? したら、和尚の所まで遊びに行くのも良いし」

「礼儀ねぇ……。 倉真は、何時か克己の所へ行った時も、連絡したの?」

利知未に突っ込まれて、しまったと言う顔をする。 利知未がくすりと笑う。

「行き成り行ったんでしょう?」

「何だ! 人のコト、言えねーじゃん!」

準一も調子に乗って、笑い出した。

「……ま、俺の事は置いといて。 家は、利知未の仕事も時間がまちまちだろうが? 克己の所は、休みが決まってるからな」

「克己の事だから何時、行ってもニコニコして迎えてくれるんでしょ?」

利知未はお見通しだ。 準一と同様、倉真も克己の前では弟分になってしまう。


 克己は何時、行っても、何時も笑顔で迎えてくれていた。 兄貴分の克己には、倉真もつい甘えてしまうのだ。 倉真は一応、反省をした。


「ま、それは置いといて。 先に連絡寄越せば、ご飯くらいは食べさせてあげるけど?」

「じゃ、今度はそうしよう」

「そうして。 今夜は偶々、摘みを用意してたから良かったよ」

「何時も酒の肴、作ってくれてるんじゃないんだ」

「仕事時間まちまちだからね。 出来る時と、出来ない時がある」

「じゃ、今夜はラッキーだった! 利知未さんの料理、美味いよな」

準一は一人で、パクパクと口へ運んでいる。

「飯、ある?」

「摘みで食べるのか?」

「酒の摘みって、飯のおかずにも丁度いいよな。 オレ今日、食ってない」

準一の遠慮のなさに、利知未は吹き出してしまった。

「いいよ。 まだ少し残ってたから」

「やった! 流石、姉御だ!」

笑いながら利知未はキッチンへ消える。

「姉御だ?」

「だって、昔っからそうだったじゃん? 兄貴の方が、合ってたか?」

 知り合ってからコレまでの利知未を思い出して、準一が言う。

「確かに兄貴分、って感じの方が強かったな」

 倉真も昔の利知未を思い出して、懐かしげに笑った。


 利知未は、夕飯の残り飯を持って来た。 惣菜の残り物も出してやる。 準一は喜んで平らげてくれた。


 その夜、準一は二人のアパートへ泊まってしまった。 ソファを借りて、夏掛けの布団を一枚、貸して貰って眠った。

 翌朝、朝食までご馳走になって、ここから仕事へ向かって行った。



 準一が遊びに来た翌週、利知未は火曜日から、通常勤務だ。 その後、休みが明けて夜勤となり、月末は遅出となる。

 倉真は、このタイミングを見て思い付いた。


 出勤し、休憩時間に保坂へ声を掛けた。

「木曜、夜、時間あるっすか?」

「飲みにでも、行くか?」

「っすね。 紹介しますよ」

「女をか?」

「って言うか、取り敢えず、婚約者を」

「いいな。 それなら他の連中にも声、掛けとくよ」

「全員に、紹介する事になるのか?」

「いいだろ、別に。 将来のカミさんだろ? 顔、知って貰っといた方が何かと便利だと思うぞ」

「そうなのか」

「そうだよ」

ニヤリとして保坂が言った。

 まともな深い意味など無い。 ただ、全員で倉真をからかってやろうと、考えただけだ。


 それから保坂に声を掛けられて、先輩従業員と、社長までチラリと顔を出してくれる事になってしまった。



 帰宅してから、利知未に伝えた。

「二十四日、夜七時半頃、間に合うか?」

「大丈夫だと思うけど。 良いの? あたしが行って」

利知未には、ただの飲み会だと言ってある。 紹介するから、等と言っては構えてしまうと考えた。 社長が来る事も内緒だ。

「リクエストされたんだよ、連れて来いって」

「なら、行かなきゃだ。 仕事の都合で、少し遅れる可能性はあるけど」

「構わないよ、言って置くから」

 結婚前から、内助の功だ。 下っ端従業員は、先輩方からの要望には応える義務がある。 城西中学応援団で覚えて来た事だ。

 男社会では色々、縦系列の繋がりも重要な事は確かだろう。


 仕事へ行く前から服装を考えた。 硬過ぎも、その逆もいけないと思う。 時々、病院へ行く時の出勤着として使っている、パンツスーツを着て行った。

 場所は、倉真の働く整備工場近くの居酒屋だった。 兼ねてからの予告通りに、三十分と少し遅れて、八時過ぎに到着した。


 利知未が到着するまで、倉真は先輩方の接待に忙しかった。


 始まって其々、一杯は飲んでいた。 社長と娘婿は、八時に工場を閉めてから二人で遅れてやって来る。 保坂と、もう一人の先輩と、三人が待っている居酒屋へ利知未がやって来た。

「ごめん、やっぱり遅れちゃったよ」

先輩に勺をする倉真の後ろから、声を掛けた。

「悪かった、忙しかったか?」

「うん、少しね」

 二人の会話途中に、保坂が声を掛ける。

「彼女が、お前の婚約者か? ……面食いだったんだな」

利知未を見て少し驚いた。 背も高い。 保坂と大して変わらない。

 利知未は二人に会釈をして、促されるまま席へついた。

「下田さんと、保坂さんだよ。 彼女が、婚約者の利知未です」

「瀬川です。 館川が、お世話になっております」

照れながら、利知未も挨拶をする。

「美人だな」

下田は一言しか出なかった。 目を丸くしている。 利知未は照れ臭い笑みを見せる。

「ま、飲みましょ」

倉真が言って、下田のグラスにビールを注いだ。 保坂は、利知未のグラスにビールを注いでくれた。 会釈して勺を受け、返杯した。

 始めの一杯を飲み終えた頃、社長と娘婿がやって来た。

「社長が来たぞ」

保坂が倉真に耳打ちをした。 それを小耳に挟んで、利知未は驚いた。

「倉真?」

袖を引っ張って、少しだけ倉真を睨む。

 社長まで顔を出すとは、利知未は聞いていなかった。 慌てて立ち上がって頭を下げた。


 精悍なイメージの、ガッチリした人だった。 頭を下げた利知未を軽く手で制して、従業員に促されながら上座へ通った。

「彼女か? 館川の婚約者」

娘婿が、倉真に聞いた。 利知未は、社長と並んだ娘婿にも頭を下げる。

「始めまして。 館川が、何時もお世話になっております」

「確りしたお嬢さんだな」

社長は、そう言ってくれた。

「瀬川 利知未です」

バックから名詞を取り出した。 口で医者だと言うよりは、良いだろうと思う。

 社長も名詞を返してくれた。

「(有)日高自動車整備工場、代表、日高 杜夫 様、ですね」

「瀬川さんは、大学病院にお勤めですか」

感心していた。 成る程、道理で確りしたお嬢さんだと、呟いていた。

 外科医である事は、口に上せなかった。 それは社長の思い遣りだと思う。

「娘婿の、昇です」

自己紹介は終えたが、利知未は緊張してしまった。

『帰ったら、倉真に文句、言ってやらなきゃ』  内心で、そう思っていた。

名詞も偶々、財布に入れていただけだ。 先輩方だけの飲み会なら、職業も詳しく説明するのは、止めようと思っていた。

 ただ相手が社長となると、家を飛び出し、実家と連絡も取り合っていない倉真にとっては、社会での親代わりの様な物だ。 従業員の婚約者を紹介されて、仕事の話をはぐらかす事はしないだろうと考えた。


 それでも倉真の職場仲間は、社長始め、気の良い人たちの集まりだった。 酒が進むに連れて、利知未の緊張も段々と解れ始めた。

「しかし、不公平な世の中だな。 館川にどうして、こんなに良いお嬢さんが、くっ付いたんだ?」

下田の言葉に、保坂も突っ込む。

「本当だ。 館川には、勿体無い美人だよ」

言われて、倉真は言い切った。

「俺じゃなきゃ、駄目なんすよ」

「惚気か? この野郎」

保坂が、倉真の脇を軽く肘で小突いていた。

 社長と娘婿は、それから暫くして席を立った。

「祝い代わりだ。 これで払っておけ」

そう言って、社長は財布から三万円を取り出した。

 恐縮する倉真の前に金を置いて、言った。 倉真は立ち上がって、キッチリ礼をして見送った。

「お前ら、明日、遅刻するなよ?」

「はい! ご馳走様です!」

保坂が元気に答えていた。 それから暫くして、下田も席を立つ。

「社長の置いて行った金で、足りるか?」

「平気っす。 ここ、そんなに高くないですから」

保坂が倉真の変わりに答える。 この店を指定したのは、彼だった。

「そうか、じゃ、悪いな。 お先」

「お疲れっす」

 社長達が立った時と同様、倉真が立ち上がってキッチリ礼をして見送った。 利知未も立ち上がり、頭を下げた。 それが、十時半前だ。

 保坂と三人で、もう暫く酒を飲んで、十一時過ぎには、お開きにして帰宅した。


 帰り道、倉真に利知未が、少し膨れて言う。

「緊張した……。 社長さんが来ること、何で言わなかったの?」

「余計に緊張しただろ、先に言っていたら」

「…そりゃ、そうだけど」

「名詞、持ってたんだな」

「一応、持たされてるよ。 今日は、持たされてて良かったと思ったけど……。 何時もは、殆ど使わない。 名刺の出し方なんて、バッカス手伝ってた十ヶ月が無ければ、全然、判らなかったよね」

「いろいろ身になってる訳だ」

「あたしみたいに、どうしようもない生活をしていた奴は、社会で勉強した事の方が、学校で覚えた事より役には立ってるとは思う」

「お前がどうしようもないんじゃ、俺はトンでもなくどうしようもない奴って事に、なるんじゃネーか?」

「大して変わらないでしょ。 男か女かで、行動範囲が広いか、狭いか? 程度の差だよ。 あたしも、FOXやアダムのマスターや美由紀さんに出会えなかったら、今頃、どうなっていたのか……。 考えると、恐ろしいな」


 その出会いが無かったのなら、あの、悲しい死を迎えてしまった由美のような道に、足を踏み込んでいたかも知れない。 女としては、その方が有り得る人生だったと思う。


 あの頃を思い出して、悲しい気分が、少しだけ蘇ってしまった。


 目を伏せ、歩き出す利知未の変化に、倉真は気付いた。

「どんな人生、生きて来てたって、俺はお前とこうなっていたと思うぜ」

肩を抱いて、確りと引き寄せた。 引き寄せられて、利知未は気持ちが落ち着いた。 少しよろけて、寄り添ったまま、黙って歩き出した。



               三


 利知未を職場仲間に紹介した、その二日後。 二十六日・土曜日。 倉真は保坂に誘われて、夜、また飲み屋へ行った。

 利知未には、職場から連絡を入れた。

「保坂さんからの相談事ね。 いいよ、夕飯は明日の朝ご飯に回すから。 ゆっくりして来なよ?」

 電話口でそう言われて、安心して出掛けて来た。



 居酒屋で酒を飲み始めて、保坂が言い出した。

「滅多な奴には、相談出来ないんだけどな……。 館川の意見、聞かせてくれないか?」

「まず、その内容が判らないと、何とも言えないけどな」

「もう少し、待ってくれ。 今に来るから」

どうやら、紹介したい奴でも居るらしいと思う。 女か? とは、思った。

 暫くすると倉真も知った顔が来店し、保坂を見つけて近付いて来た。

「こんばんは。 館川さん、だったよね?」

目の前に現れた女はそう言って、保坂の隣へ腰掛ける。

「飯野さん、でしたっけ?」

 飯野 愛美まなみ と言う、つい最近、整備工場へ高い車を車検に出した客だった。

「何だ、誰かと思ったら。 館川さんの事だったのね」

愛美は、保坂にビールを注いで貰った。 口をつけて言った。

「これから仕事だから。 あんまり、ゆっくりはしていられないわ」

今は、もう九時近かった。 この時間からの仕事とは、いったい何なんだろうと倉真は思う。

「一緒に、行くんでしょ?」

 そう言って愛美は、べたりと保坂にしな垂れた。


 夜の商売の人らしい。 これは、同伴出勤と言うヤツなのだろうか? 愛美の態度にやや辟易しながら、倉真はそう考えた。 それなら保坂に対する態度も、サービスの一環だと思って頷ける。 スナックか、キャバクラだろうと考えた。 財布の中身を考えて断り掛けると、保坂が耳打ちをする。

「館川、一緒に来いよ? 金は出すから、彼女の仕事、判ってくれ。 それからじゃないと、話が出来ないんだ」

「いらっしゃいよ? サービス、してあげるから」 水商売らしい笑顔で、愛美が言う。

 保坂の悩みは、ここからが本番らしい。 どうせ、利知未は夜勤だ。 倉真は付き合ってやる事にした。


 それから三十分ほどで、居酒屋を出た。 店を出て向かった先で、倉真は目を丸くした。

「ここが、あたしの仕事場。 何してるの? 早く!」

立ち止まってしまった倉真を振り向いて、愛美が言う。 保坂は頭を掻いて、困ったような顔をしていた。


 一時間、一万五千円。 パートナーは、保坂が適当に決めてしまった。 個室へ通され、やる事は、……コスチューム・プレイ。

 愛美の職場は、そう言う職場だった。



 延長もせず、時間キッカリで出て来て保坂を待つ。 店の外でタバコを吸って、考えてしまう。

『こりゃ、利知未にばれたら、事だな』

 昔から、その手の店へは通っていた倉真だ。 コスプレは流石に初めてだったが、やる事は結局、同じだ。

 保坂が、何を悩んでいるのか? 相談の本番は、これからになるだろう。


 店に入って、何もせずに出てくる倉真では勿論、無かった。

『けど、アンマ良くは無いな。 この店は』 二、三の店は知っている。 それと比べて、そう考えた。 好みの問題かも知れない、とは思う。

利知未にチャイナドレスを着せた夜の方が、盛り上がったと思った。



 二十分程して、保坂が出て来た。 面目無さそうな顔をしていた。 それから道端の屋台のラーメン屋で、ビールを飲みながら話をした。

「で、いったい、どういう流れで、彼女とこうなったんすか?」

「お前、あんまり驚いては居ないみたいだな」

「……まぁ、チョット。 って、それはどうでもイイっすよ」


 下手な事は言わないに限る。 自分がその手の店へ通っていた事実は、漏らさない事に決めた。


「中学時代の、先輩に当るんだよな。 ……車検、高い車を持って来ただろう? おれは四輪が好きでこの仕事やってるからな。 女が乗る車じゃないと思って、興味本位で聞いてみたんだ」

「で、話が盛り上がった、……って事じゃ、無いだろーな」

倉真も、あの車のオーナーは別人だろうと見ていた。 愛美は、ただ乗るだけの人間だ。 運転技術も、危なっかしい事この上なかっただろうと思う。

 頑丈な車のため流石に凹んでいる所はなかったが、細かい傷はかなりついていた。 バックの時、どこぞの車か壁にでも擦りつけていた様な痕だ。

「車より、客として誘われた、って処か」

「意外と鋭いな」

ラーメンを食いながら、保坂が顔を上げる。

「客とソープ嬢の関係なら、悩むことも無いんじゃないんすか?」

「……それだけならな」 溜息を付く。

 保坂は、何を考えているのか。

「この前、女紹介しろって、言ったよな? このままじゃ、ヤバイと思ったからなんだよ」


 元々、好意を持っていた相手と言う訳ではないが、愛美は、何故か保坂にご執心な様子を見せ始めた。  そう言う態度を取られて、嫌な気は勿論しない。

 ただ、それが単に客を相手のサービスなのか、それとも二心があっての事なのか……?

先ずは、そこの点が不明だと言う。


 保坂も健康な男だ。 良くしてくれるソープ嬢が居るのなら、つい通ってしまったりもする。 金も掛かる。

 愛美は、中学時代の先輩だ。 住所は割れているし、職場も知れている。 今の態度が客に対するサービスなだけなら、店から足が遠のいたからと言って、しつこく迫ってくる事も無いとは思う。

 けれど、もしも違う気持ちが、あっての事なら……。


「…って、言われてもな。 ……俺も、女の気持ちは、良く判らないっすよ?」

「だよな。 ただ、客観的に見て、どう思う?」

「どの辺りを?」

「彼女の仕事も判った上で、これから、おれは、どうするべきなのか」

「話し合うより、無いんじゃないっすか?」

「どうやって切り出せって? もしかして、おれに惚れてるんですか? とでも、聞けば良いって言うか?」

「…それは、確かに」

 頭脳労働は苦手だ。 けれど、この事を利知未に話して、意見を聞く事もし難いのは事実だ。 あの店へ行った事を伏せても、言える事じゃないと思う。

「サービスだとしても、肯定するだろ? そうじゃ無いにしても……」

「どっち道、解決はしてくれないか」

「だと思うよ」

「ちゃんと彼女、出来てからなら、いくらでもし様が有りそうな気もするな」

「それは、おれも思ったよ。 だから、この前の話な訳だ」

「……成る程」

 取り敢えず、利知未に恋人募集中のナースでも紹介して貰うのが、先決かも知れないと倉真も思った。



 帰宅したのは、明け方近かった。 利知未は勿論、まだ帰っては居ない。

 倉真はシャワーだけ浴びて、ベッドへ潜り込んだ。



 翌日は日曜だ。 帰宅して爆睡している倉真を見て、利知未は起こすのを止めた。 朝食を済ませて風呂へ入り、洗濯物を干した。

 午前十時半過ぎには、利知未も寝室へ引っ込んだ。 倉真は、まだ眠っていた。

「……昨夜、何時に帰って来たんだろ?」 呟いて、そっと倉真の隣へ身体を横たえる。

直ぐに寝息を立て始める。


 二人揃って、午後三時過ぎまで眠ってしまった。



 倉真は、腹が鳴って目を覚ます。 利知未は隣で眠っていた。

「もう、こんな時間だ」

枕元の目覚まし時計を見て、倉真が呟いた。 半身起き出して、大きく伸びをした。 また腹が鳴る。 その盛大な音で、利知未も目を覚ました。

「……ん? おはよ」

「悪い、起こした」

利知未も半身起き上がり、軽く目覚めのキスを交わした。 また倉真の腹が音を出す。 その音を聞いて、利知未は小さく吹き出してしまった。

「昨夜の残りで、良い? 半端な時間では有るけど」

「構わネーよ。 昨夜は、悪かったな」

「いいよ。 保坂さんの悩みは、解決したの?」

言いながら、ベッドを降りた。

「解決するには、お前の協力が必要そうだ」

「何? ……ま、いいや。 ご飯食べながら、話そう?」

キッチンへ出て行く。

 顔を洗って、倉真の為に昨夜の惣菜を温め直して、食卓へ並べた。 倉真はガッツいていた。


「あたしが、何の協力を出来そうなの?」

「女、紹介してくれ」

「保坂さんに?」

「そうだよ」

「そう言う悩みだった訳?」

「ま、解決策として、必要そうだな」

詳しく話すのは、止めにした。

 あの手の店へ通っている事を除いては、保坂も悪い奴じゃない。 余り綺麗でない事実は、隠すに限るだろうと考える。

「良いけど、来月になるよ」

「もう月末だからな、それで良いだろ」

「でも、ナースは紹介、出来ないかも」

自分と倉真を考えて、これほど時間が合わない相手を紹介するのも、気の毒だろうと考えた。 しかもナースには、笹原フリークが多過ぎる。

「会計でも薬局でも、大学時代の友人でも、誰でもいいよ」

「好みは無いの?」

「……聞くの、忘れた」

倉真が少し、情けない顔をした。

「それじゃ、聞いて来てよ。 そしたら、探してみるから」

「判った」

話は、それで終わった。

 これ以上、詳しいことを話すのは禁句だ。 また、大喧嘩になってしまい兼ねないと思う。


 倉真は利知未に、新しい内緒事が出来てしまった。


 倉真の頼みを引き受けた利知未は、香にでも、誰か探してみて貰おうと思った。 夜勤明けの勤務で、香に話してみようと考えていた。





   二〇〇六年 九月十八日 (2008,4,13 改)  利知未シリーズ・番外2

           研修医一年・六月から八月  二人で見る未来   了


お付き合い、ありがとうございました。 ここまでが、番外の二つ目となります。

 予定通りの週一更新とはなりませんでしたが、今週中に、必ず続きをお届けできるように頑張っております。 また、宜しくお願い致します。<(__)>


 次回、番外の3つ目のタイトルは、『見つけてくれて、ありがとう』 また今回同様、利知未シリーズ と、検索キーワードへ入力しておきます。それでは、またお会いできる事を楽しみにしております。

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