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           2  研修医一年・七月

     2  《研修医一年・七月》

            一


 七月は、二人が連休で同じになる日が、二回あった。 後半の連休前も一日だけ、日曜日で一緒だ。 シフトを見て、倉真が言っていた。

「連休で同じなのは嬉しいが、随分、変わったシフトになってるな」

「七月、コンベンションがあるから。 あたしは行かないけど、先輩方との兼ね合いで、こうなったみたい」

「ま、休みが多いのは、結構な事だ」

「けど、現時点でオペの予定も、何時もより多い見たいだな。 また突発で何か起こる可能性もあるから……、来月の給料は、多いだろうな」

「手術手当て、みたいなモンか?」

「そんな所。 折角、二人一緒の連休が二回もあるし。 どっか泊まりで行けたら、良いかもね」

「考えてみるか?」

「そうだね」

 六月最終週に倉真と、そんな会話になっていた。



 七月の頭は、まだ梅雨が残っていた。 休日にも、洗濯物はバスルームだ。

 始めの日曜日は、二人でゆっくりと過ごした。 利知未はオペの下調べがあり、倉真も勉強、続行中だ。

「来週中頃には、梅雨も明けるって」

「漸くか。 今年は、長かったな」

「そうだね。 その分、勉強が進んだんじゃない?」

「色々、あり過ぎだっただろーが」

「そーだけど」

 利知未の不妊症と浮気疑惑に、心を悩まされた梅雨時期だった。

 利知未は、倉真の態度に悩まされた梅雨だった。

「けど、頑張って進めておいてよ? 月末、空けておきたいし」

「まだ、何処行くとも、決めてないだろ?」

「それでも行くの。 そのつもりで、考えておいてよね?」

 可愛く笑顔を見せて、お願いしてみた。 倉真は乗せられてしまう。

「んじゃ、気張るか」

「頑張れ! 珈琲、淹れて来るよ」

「頼む」

 医学書を閉じて、利知未がキッチンへと出て行った。



 梅雨が明け、始めの休日は平日だ。 利知未は思い立って、今までの写真の整理を始めた。 その為に、普段は手をつけない荷物を引っ張り出す。

「物、増えたな……」

 リビングの開きスペースに広がった、細々とした物たちを眺めて呟く。

「どうせ、アルバムも買って来ないと駄目そうだし……。 決めた!」

一端、荷物をダンボールへ収め直して、買い物へ出掛けた。


 久し振りに下宿へ連絡を入れ、里沙に車を貸してもらう約束をする。

 その日、利知未はアルバムと、木目調の小さな棚を新しく購入して来た。


 部屋の整理と写真の整理で時間を取ってしまったので、夜はカレーにしてしまう事にした。

『倉真、カレーも好きだって、言ってたし。 煮込んで置けば良いし』

 合い間に夕食の準備をこなしながら、部屋を片付け、落ち着いて写真の整理を始めた。 二人で住むよりも、ずっと前からの物だ。


 下宿時代、里真が良く撮っていた。 カメラ嫌いの利知未だが、流石に6、7年分も集まれば、結構な量になる。 アルバム三冊分、溜まっていた。

 勿論、倉真の写真もある。 同じ写真も、何枚か出て来た。 年代順に並べ直して、一組は封筒に入れ、新しい棚の中へしまった。

『……何時か、倉真のご両親に、渡して上げられれば良いよね?』

倉真が家を飛び出して、もう7年以上だ。

 恐らく、ご両親はその間の息子の様子と成長を、気にされているのでは無いだろうか……?


 自分は、家を飛び出したと言う訳でもない。 母親とは折り合いが悪いなりに、時には手紙のやり取りくらいはして来ている。

 裕一の法事で、顔を合わせた事だってあった。 最後に母と会ったのは、裕一の七回忌の時だ。 あれから、更に四年半の月日が流れている。


 次の十三回忌は、一年半以上も先だ。

『……その頃、あたしはもう、結婚してるのかな?』

 予定通りであれば、微妙な年だ。 ……子供は、出来ているのだろうか?


 七回忌の法事後、優が言っていた。

「兄貴の歳を二歳も越えて、三歳になる娘を持って、漸く、兄貴に少しだけ近づけた気がする」

そう言っていたのだ。

 自分も結婚して子供を持ったら、裕一に少しは近づけるのだろうか……? それ以上に母として、自分の母親に対する理解は、生まれてくるのだろうか……?


 そこまで思って、首を振る。

『あたしは、あの人のようには、成りたくは無い』  では、どうなりたいのか?


 その目標として掲げる母親象は、美由紀だろうか? 智子だろうか? 明日香だろうか?  ……それとも、倉真の母親だろうか?


 まだ、会った事は無いが、自分が愛した男を、この世に産んで育ててくれたその人には、感謝に似た思いも感じている。

『だから、何時か。 この写真、必ず倉真のお母様に、渡してあげたい……』

 そっと、封筒を仕舞った棚を眺めた。


 改めて写真を眺めながら、アルバムに整理をして行く。 それなりに、楽しくなって来た。 昔の倉真の写真を見て、懐かしいモヒカン頭と対面した。

「この頃、まだ、倉真この頭だったんだ……!」

まだ、今よりも少し、あどけないかも知れない。 可愛いと思う。

 隣の自分を見て、男っぽい姿に、改めて愕然とする。

「こんなだったんだよね、あたしも……」  呟いて、次の写真を手に取り、笑ってしまった。


「ただいま」

玄関から倉真の声がして、利知未は写真を見ながら、声を掛けた。

「お帰り! 倉真、チョット来て見て? 懐かしいよ」

キッチンへ入り、扉が開いたままの、リビングを覗く。

「何してるんだ?」

利知未は手を止め、一枚の写真を倉真に見えるように、差し出す。

「アルバム買って来て、写真、整理してた。 したら、こんなの出て来たよ?」

倉真は写真よりも、箪笥の隣の物入れに注目していた。

「で、カラーボックスも増えた訳だ」

「片付かないからね。 最近、物が増えて来たから。 ね、懐かしいよ」

上着をソファの上に置きながら、利知未が見せている写真を手に取った。

「こりゃ、里真ちゃん達と、キャビン行った時のか? ……確かに」


 自分の、その頃の頭を見て、少し恥ずかしい感じがした。

『俺も、歳食ったって、事か』

あの頃は、これが格好良いと思い、ポリシーを持っていた筈だ。 恥ずかしいと言う感想が、自分の心に浮かんで来た事に、年齢を実感した。


「これ、集合写真の後の、一瞬だよね。 こんなに上の方までたくし上げて、絞っていたんだ」

 利知未は、くすくすと笑っている。

「ちょっと、ドッキリショットだったな」

「そう? この頃は、本当に男みたいだったから。 あんまりドッキリもしなかったんじゃないの?」

「…でも、無かったよ」

「物好きだな」

 言いながら、少し赤くなってしまった。

「何とでも言ってくれ。 ゆっくり眺めていたいが、腹へって、死にそーだよ」

「あ、そうだよね、ごめん。 つい夢中になっちゃった。 直ぐ、用意するね」

写真をアルバムの上において、キッチンへ出て行った。

「カレーだけど、良い?」

「好物だよ」

「って、言ってたよね。 お風呂、準備出来てるよ。 先に入っちゃえば? その間に温め直しておくから」

「そーするか。 着替え、上だよな?」

箪笥に手を掛け、呟く声に、利知未が反応する。

「いいよ、出しておくから」

「…頼む」

 素直に甘える事にした。 何時か、上から順番に引き出しを開けていた時より、事情が変わっていた。 倉真の引き出しに裕一のお古が増えた関係で、中身は移動済みだった。 真ん中の引き出しは、現在、二人の共通になってしまっている。

 倉真が入浴を済ますまでに、カレーを温めて、サラダの仕上げに掛かった。


 食事の途中、倉真が言う。

「キャビンに行った時も、カレーだったよな」

「そうだったね。 写真見て思い付いた訳じゃ、無かったんだけど」

ふと、思い付いて、倉真が提案をした。

「月末の旅行、あそこへ行くか?」

「鳩ノ巣渓谷? …良いかも知れない。 丁度、蛍の時期だね」

「ギリギリな。 思い出の渓谷、行きたくなったよ」

「でも、今からじゃ、予約取れないかも」

「キャビンじゃなくても、良いだろ? キャンプ場は、まだ空きが在るんじゃないか?」

「かな? 判った。 明日、遅出だから、仕事の前に問い合わせて見るね」

「任せた」

「任された」

笑顔で請け負った。 利知未も、あの思い出の場所に、行きたくなっていた。

「準備は、俺がするよ」

「そうだね、休みの日とか使って、宜しく」

「おお」

 それから、あの頃の思い出を話しながら、夕食と晩酌を済ませた。



 翌日、利知未はアパートを出る前に、キャンプ場の管理会社へ連絡を入れた。 あの頃の資料の一部が、写真と一緒に出て来ていた。


 予約状況を確認して、キャビンも一応は空いている事を知る。 けれど、二人にあの広さは、金額の面から言っても無駄がある。

 テント広場は大丈夫だと聞いて、予約だけしてしまった。 メモにその事を書き残して、利知未は仕事へ向かった。


 帰宅してメモを見つけた倉真は、小さくガッツポーズをする。

『丁度、いいな。 ……あの場所で』

 エンゲージリングを、利知未へ渡したいと思った。




              二


 間の日曜日は、月末の準備をするため、二人で出掛けた。

 倉真が、今度はバーベキューをしたいと言い出したので、今から揃えられる物だけ、購入しようと話す。 ボーナスも出た。 いっその事、一式揃えるのも、良いかも知れないとも思ったが、余分な金は、貯金に回すに限る。

 倉真が昔、贔屓にしていたレンタル屋で、借りて来てくれる事になった。


 買い物の途中で、倉真がシルバーアクセサリーの店へ足を向ける。 昔は、へビィメタルやパンクロックを好んでいた倉真だ。 ライブにも足げく通っていた頃がある。 その手のアクセサリーは、今も何点か持っている。

 特に不審に感じる事も無く、利知未も倉真の後へ続いて店へ入った。

「何か、良いのあった?」

「あの辺りの、どうだ?」

 倉真がペアリングを指差して、利知未に言う。

「倉真は、ああ言うのが好き? ……あたしは、その隣のが好いかな?」

 二人でリングを眺めていると、店員が近寄って来た。

「ケースから出して、ご覧になりますか?」

「お願いします」

倉真が答える。 店員が幾つかのペアリングを、ケースから出してくれた。

「これか、これが好きかな?」

 利知未は出されたリングを二、三、右手の薬指や、人差し指、中指に取っかえ引っかえして、嵌めてみる。 倉真は、そのサイズに注目していた。

 右手の三本は、10号から12号くらいだ。 左手は、恐らくそれより1号分は細いと見る。試しに9号の指輪を見つけて、渡してみた。

「これ? 多分、左手(こっち)サイズだな」

 利知未は素直に、その指輪のサイズを確かめ、左の薬指へ嵌めてみた。

「ここだと、チョイ大きいな。 中指だと丁度くらいかな? うん、ぴったり」

嵌めた指を倉真に見せて、問い掛ける。

「倉真は、これが好きなの?」

「それも、嫌いじゃないけどな」

 大き目のクロスを模った物だった。 利知未は少し眺めて、幾何学模様の掘り込まれた、それよりは少しシンプルな物を選ぶ。

「あたしは、これが好きかな?」

「それも良いな」

「これ、10号ありますか?」

店員が、同じデザインのリングをケースから取り出す。

「こちらですね」

それを受け取り、嵌めてみた。

「倉真なら、何処につける?」

「これなら、右の薬指か?」

「サイズは?」

「15か16だな」

 男性用のリングを手に取り、倉真の右の薬指に嵌めてみた。

「良いんじゃない?」

「そうだな」

「じゃ、あたしも右の薬指だ」

ニコリと笑って、左の人差し指から、右の薬指へ付け替えた。 リングの着いた手をケースの上に並べて見て、満足そうな顔をする。

「買ってっちゃおうか?」

「良いんじゃないか」

「ペアで、おいくらですか?」

「こちらは、一万二千八百円の商品です。 只今、キャンペーン中ですので、20%割引になりますので…、一万二百四十円ですね」

電卓を叩いて、店員が笑顔を見せる。

「俺が出すよ」

「じゃ、半額、宜しく」

二人で折半して、一人・五千百二十円ずつ、出し合った。 利知未に声を掛けられて、店員がレジに向かう。

「ケースは、どうしますか?」

「一応、持って来ます」

会計を済ませて、買ったばかりのリングを着けたまま店を出た。

 倉真は、利知未が先に店を出るのを見て、店員に再び近付いた。

「彼女の左の薬指、9号でしたよね?」

「少し、大きめでしたから、8号で大丈夫だと思いますよ。 頑張って下さいね」

店員が微かな笑みを見せる。 倉真は激励されてしまった。

『判るもんなのか?』

これで彼女の指のサイズを測る男は、意外と沢山、居るのかも知れない。

 少し、照れ臭い思いをした。


 倉真は、利知未の指のサイズを確かめて、いつかの宝石店で、エンゲージリングを買おうと思っていた。



 買い物をしたビルの6階に、イタリアンレストランがあった。 用事を片付け、夕食を済ませてから帰る事にした。

「チョット、余計な出費しちゃった?」

席に落ち着き、利知未が指輪を眺めて倉真に聞く。

「ボーナス出たんだから、良いんじゃないか?」

「自分への、ご褒美って所か。 …初めて、ペアのアクセ買ったね」

「そうだな、手頃じゃないか? シルバーなら、俺も着けるし」

「いくつか、持ってたよね。 ……何か、幸せな気分だよ」

利知未の嬉しそうな笑顔を見て、倉真も幸せな気持ちになった。

 それから食事をしながら、月末の話しをする。

「バーベキューは、食材切って行っちゃえば良いけど、問題は朝ご飯だな」

「また、釣りでもするか?」

「倉真、嫌いでしょ。 それに、あたし達二人じゃ心許ないな。 樹絵でも居れば、話は別だけど」

「そーいや、上手かったよな。 双子で揃って」

「秋絵は、意外だったな」

「性格的には、納得だけどな。 樹絵ちゃんは、元気でやってんのか?」

「手紙も無いけど。 便りが無いのが、良い知らせって言うし、頑張ってるんじゃないかな。 樹絵は結構、根性あるから」

「それも、そうだ」

「そう言えば、あのキャビンの夜から妙に仲良かったよね、倉真と樹絵。 あの時、何かあったの?」

「それは、焼き餅か?」

 利知未の質問に、倉真がニヤリと笑う。 照れ臭くなって、利知未は膨れる。

「…ンな訳、ねーだろ」

照れ臭いのを誤魔化す為と、少し怒った利知未が、懐かしい言葉使いになる。 それは、利知未の癖らしい。 面白いと思う。

「戦友ってヤツに、なったんだよ。 あの時」

「戦友? 何だ、それ」

「その内、話すよ。 …言葉、昔に戻ってるぞ?」

 くすくすと笑っている。 利知未は少し、赤くなってしまった。

「…ま、イイけど。 ……焼き餅、焼かれたいの?」

「これ位の焼き餅は、可愛いと思うぜ?」

 益々、照れ臭くなってしまった。 誤魔化すために、また剥れてみせる。

「いいよ。 もう、焼かないから」

「それは、寂しいな」

「じゃ、どうして欲しいの?」

「適当に焼いてくれ」

「我が侭」

「俺は、昔から我が侭だ」

倉真は小さく笑みを見せながら、タバコに火を着けた。


 今の倉真を見ていると、昔のヤンチャが随分、なりを潜めている気がする。

 最近、利知未は倉真が年下である事を忘れてしまう。

『昔は、どうしようもない、弟分だったんだけどな……』

 自分の為に、大人の男らしく成ろうとしている倉真を、愛しいと思う。

「さっき剥れてたのに、何、行き成りニヤけてるんだ?」

「良いでしょ? 別に。 倉真、変わったと思っただけだよ」

「そーか? 相変わらず、馬鹿やってるぜ」

「一緒に住んでても、こうして過ごす事が少ないから、見えないよね」

「また、バカなガキに戻るか?」

「家出でも、する気?」

「…それは、出来ないな」

「どうして?」

「お前の飯が、美味過ぎるからな。 腹が減ったら帰っちまう。 家出にならネーだろ?」

「今日も、何か作れば良かった?」

「偶にはサボらネーとな。 …何時もサンキュ。 今日は、俺が奢るよ」

「ありがと」

 利知未の表情に、照れ臭くなってしまった。

「すっかり、餌付けされた犬の気分だよ」

「照れ隠し?」

「ほっといてくれ」

今度は、久し振りに倉真の幼い表情を見た。 小さく笑ってしまった。

 食事を済ませて、帰宅した。



 その翌週、倉真は忙しかった。

 仕事の後、一日は、宝石店へ向かう。 いつかの店員に相談して、ダイヤのリングを購入した。


 それから勉強の合い間に、月末の準備を、少しずつ片付けた。

 思い出の渓谷へ出掛けるのは、もう次の土日だ。 保坂に頼んで、当日は車を借りる事にした。


「泊まりで出掛けるのか、羨ましい」

「アンマ、アイツと休み合う事、無いからな。 車、ありがとうございます」

「事故だけは、起こしてくれるなよ?」

「十分、気を付けます」

「その内、おれにも女、紹介してくれ」

 言われて、目を丸くする。

「いつかの電話の、彼女だろ? 一緒に行くの。 お前の恋人も見てみたいが、おれにも彼女が必要だよ」

保坂はニヤリと笑って、倉真の背中を叩いて、行ってしまった。

『そりゃ、バレるか』  妙に、納得してしまった。


 利知未の事は、まだ誰にも話しては居ない。

けれど、何時も就業後、真っ直ぐに帰宅して行く倉真を見て、社内の仲間は全員、薄々は感付いている。

 倉真は、キチンとプロポーズを済ませてから、改めて仲間に紹介しようと思い始めた。



 そして、あっと言う間に、週末はやって来た。




              三


 翌日の相談をしながら、早めに晩酌をした。

「明日は、俺が運転してくよ」

「長距離だし、途中で交代するよ? 八王子バイパス手前位で、丁度、真ん中でしょ?」

「間の休憩を、長めに取れば平気だろ」

「倉真の運転する車、初めて乗るな。 大丈夫?」

「何がだよ」

「何時もバイクばっかりだから、危ない運転、しないでね」

「これでも、仕事中はチョクチョク乗ってるんだ。 客の車を運転する事もあるんだから、平気だよ。 お前より、よっぽど安全運転だと思うぞ?」

「そんな、荒い運転、した事なかったと思うけどな」

 利知未が少し膨れる。 倉真は、その表情を見て小さく笑う。

「ガキみたいな顔になるよな。 膨れると」

この前のように、利知未の頬を、突いてやった。

 何時ものように、倉真の身体に背中を預けて寄り掛かっていた。 肩に掛かった手の指で、頬を突かれて、そのまま頭を抱き寄せられてしまう。

「お酒、零れるよ」

「邪魔なモノは、排除だな」

一瞬身体を離して、利知未のグラスをテーブルの上に置いた。 改めて、その頭を抱き抱えるような姿勢になる。

 頬をその胸につけて、利知未も素直に抱き締められていた。

「……マジ、結婚、しような」

 ふいに、倉真が呟く。

「…うん。 長く待たせちゃうけど、ごめんね」

 小さく頭を頷かせ、利知未が小声で謝った。

『エンゲージリング、忘れないようにしないとな』

利知未の返事を聞いて、倉真はそう思った。

 夜、寝る前。 倉真は指輪を、翌日、着て行くベストのポケットへ入れた。


 翌朝、利知未は倉真よりも、二時間近く早起きをした。

まだ五時前だ。 昼食用にサンドウィッチを作り、水筒へ温かい珈琲を入れる。 それから、バーベキュー用の食材を準備した。

六時半を過ぎてから、倉真が大欠伸で起き出して来る。

「もう、起きてたのか?」

「おはよう。 八時前には出たいからね。 朝ごはん出来てるよ、顔洗って来て」

「おお」

 再び大欠伸をする。 寝ぼけ眼の倉真を見て、利知未は微笑む。

『寝惚けてる時と眠ってる時は、やっぱり子供みたいな顔に成るな』

自分も、そうなのかも知れないとは思う。 けれど倉真の姿を見て、それが可愛く感じてしまう。 母性本能が反応するのかも知れない。

『けど、子供や弟じゃなくって、未来の、旦那様って事だよね』

 昨夜も、その言葉を聞かせてくれた。 幸せな気分に浸ってしまう。


 朝食を済ませて、最後の準備と、車への積み込み作業を終え、予定通り八時前には出発した。


 途中のファミレスで、小一時間程のんびりと休んだ。 それでも十時半過ぎだ。 ここから後、一時間半も走らせれば、思い出の渓谷へ到着する。

 倉真は何度も、ベストのポケットに入った指輪の箱を、服の上からそっと確かめていた。


「後、一時間半。 倉真、大丈夫? 眠くない?」

 再び車へ乗り込んで、利知未が倉真に聞く。

「俺は良く寝たからな。 お前、眠いんじゃないか? 寝て行っていいぞ」

「そうだね、チョット睡眠不足かも。 眠っちゃうと思う」

 小さく欠伸をして、利知未が眠そうな、トロンとした瞳になる。 その目が可愛くて、つい、瞼の上にキスをしてしまう。

「寝とけ」

「うん。……良く、眠れるかも」

 助手席のシートを軽く倒して、利知未はもう一度、欠伸をした。



 利知未がトロトロとしている間に、思い出の渓谷へ車が差し掛かる。 急なカーブの揺れに、まどろみから、ふと目覚めた。

「…ん、ここ…? あ、もう、御岳だね」

 丁度、JR青梅線の井沢駅前だ。 五年前、この駅前にバイクを止めて、楓橋を目指して歩いた。

「良く寝てたな」

「うん、良く眠れたよ。 あと、少しだね」

「二十分も、掛からないだろうな」

「じゃ、起きてよう」

 そのまま車窓から、渓谷の眺めを堪能して行った。

「禁煙車じゃ無いんだ」

 灰皿が開いていて、4、5本、倉真の吸殻が覗いていた。

「保坂さんも吸うからな。 返す時には、綺麗にして返すよ」

「じゃ、あたしも目覚めの一服でも、させて貰おう」

 ポケットからタバコを取り出す。 火を着けて、景色を眺める。 静かに煙を燻らした。

「中々、止められないな」

「まだ、子供が出来た訳じゃ無し、良いんじゃないか? 随分、減ったよな」

「前の、三分の一位にはなったかな? 一箱、三日は持つよ。 …こう言う、絶景を眺めながらの一服は、やっぱ、美味い」

昔の言葉使いに戻って、少しだけ、少年チックな笑顔を見せた。

 タバコを吸い終え、改めて運転席の倉真を見てしまった。 4WDの車内は、普通の乗用車よりも天井が高い。 それでも背の高い倉真には、少しだけ窮屈そうに見える。 タバコを銜えたので、利知未が火を着けてやった。

「サンキュ」

唇から煙を薄く吐きながら、倉真が礼を言う。 渓谷のカーブは、少し緩やかになった。

 それから十分もしない内に、鳩ノ巣渓谷キャンプ村の駐車場へ、車が滑り込んだ。


 到着して、先ず始めに昼食を済ませる事にした。 まだ十二時だった。

朝から準備して来たサンドウィッチと水筒だけ持って、あの集合写真を撮った河原へ、歩いて行った。


 腰を下ろして、弁当を広げて倉真が驚いた。

「よく、そんな時間あったな」

「時間は作る物。 睡眠時間を削りました。 感謝してね?」

「海より深い感謝の思いで、戴くとするか」

「そーして。 はい、珈琲」

「サンキュ」

「けど、お陰で寝不足だったから、良く眠って来ちゃったよ」

 珈琲を渡して、利知未が大きく伸びをする。

「良く眠れるくらいの安全運転だっただろう? …美味い」

「見直しました。 量、足りる? 食パン二袋、使ったけど」

「大丈夫だろ。 これ食ってエネルギー充電したら、テント張っちまわないとな」

「任せるよ。 勿論、手伝うけど」

「益々、見直して貰うとするか」

「期待してる」

 話しながら、食パン二袋分のサンドウィッチは、どんどん倉真の腹へと収まって行く。 利知未も慌てて手を伸ばした。 三分の二以上、倉真が平らげてしまった。

「耳がない分、量が入る」

「呆れちゃうくらいの食欲だな。 耳は冷凍庫に入ってるから、帰ったらクルトンにでもしちゃおう」

「クルトンって、カップスープの中に入ってるヤツか?」

「そう。 食パンの耳、小さく千切ってトースターでカラリと焼けば、クルトンの出来上がり。 シーザーサラダの上へ乗っけたり、シチューの時、入れて食べれば良いでしょ?」

「流石だな、無駄がない」

「甘いもの好きなら、油で揚げた耳に砂糖を塗して食べれば、お八つになるんだけどね。 あたし達じゃ、無理でしょ」

「確かに」

「あの、水浴びしてる小学生くらいなら、喜んで食べてくれるかな」

少し離れた場所で、小学生が水遊びをしている。

「懐かしいな……。 あの辺りで、集合写真撮ったよね」

「丁度、あの辺だな」

 倉真もそちらを眺めた。

「あのね、倉真」

「ん?」

「あの時。 ……花火をしてる時、樹絵に呼ばれて、ベンチから、あたしを引っ張って行ったよね?」

「そうだったな」

「倉真の力が、凄く強くなっていて、実は、ちょっと戸惑った」

先週買ったペアリングを嵌めた右手首を、愛しげに擦る。

「あれが、切っ掛けだった。 ……倉真の事、一人の男として見始めた」

 照れた笑顔を倉真に向ける。

「だから、あたしにとっても、この場所は思い出の場所」

「……俺も、同じだよ」

照れる利知未が可愛くて、肩を引き寄せた。 そのまま寄り添って水面を眺めていた。

 魚の腹が、チカリ、チカリと、陽光を照り返している。


 暫くして、利知未が言う。

「そろそろ、行こうか。 夕飯のバーベキューの、準備もあるし」

「そうだな、早めにテント張っちまおう」

 倉真が立ち上がり、利知未に手を貸した。 素直にその手を掴んで、立ち上がった。



 駐車場の脇に管理小屋がある。 戻ってチェックインをするついでに、台車を二台、借りて来た。 車から、設営道具と、荷物を下ろして、台車へ積み直す。


 倉真が借りて来たテントは、二人〜三人用のドームテントだった。 ロッジテントの設営道具よりは、コンパクトだ。 それでも、利知未が思った以上の大荷物で、台車を押しながら、息が切れそうになる。


 テント村へ到着すると、場所を決め、大きな石を片付け始めた。 利知未も手伝い始めると、倉真が軍手を渡してくれた。

「外科医が指の怪我したら、大変だろうが。 やらなくて、構わないぞ」

「ありがと、気を付ける。 けど、手伝うから」

ニコリとして、軍手を嵌めて作業を再開した。

 言い出したら聞かないのは自分と同様、分かり切っている。 倉真は心配しながら、なるべく危なくない事を選んで、指示をする事にした。


 二人が手際よく設営していく様子を、そろそろ白髪も目立ち始めた年頃の、紳士が眺めていた。

「なかなか、慣れたもんですな」

 ペグを打つ倉真を見て、紳士が声を掛ける。

「え? ああ、昔から、ちょっとやってたんで」

照れ臭そうな笑みを見せながら、作業を続ける。

 設営は、倉真の指示で、すばやく確実に進んでいた。

「上手いものだ。 後で、お茶をご馳走させて貰えませんか? 私のテントは、あのロッジテントなんですが、話し相手が欲しい所でした」

「いいですね、良ければ、お邪魔します」

昔、一人でテントをバイクの後ろへ積んで出掛けていた頃から、旅先での交流は、積極的に持って来ていた。 笑顔で答えて、利知未へ指示を出す。

「利知未、そっちから、固定できるか?」

「分かった。 …あれ?」

「大丈夫か?」

「私が、見て来ましょう」

「済ンません、お願いします」

ゆっくりと設営途中のテントを回りこんで、利知未の傍らへしゃがみ込んだ。 指を指し、教えてくれる。

「ここ、かな?」

「そう、そこです。 ポールを確り支えないと、テントが崩れてしまいます」

「え? あ、有難うございます」

利知未も笑顔で礼を言う。

 利知未は、紳士に教えて貰いながら、倉真と協力して、立派にテントを組み終えた。

「やった! 完成!」

「お疲れ様。 これなら、台風が来ても、きっと平気ですよ」

紳士は冗談を言いながら、手を叩いて利知未を労ってくれた。

 荷物を整理して、一時間後、利知未と倉真は、ロッジテントへお邪魔した。



 ロッジテントでは、紳士の奥さんが笑顔で迎えてくれた。

「丁度、お三時の時間ですね。 対した物はありませんけど」

 ダッチオーブンで焼いたカウボーイブレッドに、色々なジャムを挟んでお八つ風にアレンジした物を、紅茶と一緒に出してくれた。

「今朝、作り過ぎてしまったから。 明日は明日で焼かないと、硬くなってしまうでしょう?」

「テント設営で丁度、小腹が空いてた所っす。 戴きます」

倉真が笑顔で礼を言う。

「お昼、あんなに食べてたのに。 もうお腹、空いてたの?」

利知未が呆れ顔で倉真に言った。

「そんなに沢山、食べてらしたの?」

「食パン一袋半が、彼のお腹に納まりました」

呆れたまま笑顔で、奥さんの言葉に利知未が答えた。

「まぁ。 けど、それだけ大きな身体をしていたら、栄養も人一倍、必要なんでしょうね」

 コロコロと笑っている。 利知未は、この婦人が好きになった。


 上品で優しげな雰囲気の人だった。 ダッチオーブンを使って美味しいパンまで焼けるのだ。 料理の腕も、きっと素晴らしいのだろう。

自分の母親もこんな人なら良かったのにと、心の奥では呟いていた。

「家内も始めて連れて来た時には、中々、解りませんでね。 苦労したものです」

紳士は奥さんの入れた紅茶を飲みながら、パイプを銜えている。 利知未は大叔父を思い出した。

『……じいちゃんも、パイプだった』

良く、銜えパイプで、利知未をモデルにして絵を描いていた。


「私は、この人が言っている事が全然、解らなくて。 怒らせてしまったのよ。 手先もそれ程、器用な方ではなかったから。 貴女は随分、手先が器用みたいだって、さっき主人に聞かされましたよ。 お前ももう少し器用だったら、あの頃も楽だっただろうにって」

 少し、旦那に対する当て付けが入っている様だ。 仲が良いのだと思った。

「旦那さんに色々、教えて頂きましたよ? だから出来たんです」

「あら、若くて綺麗なお嬢さんには、お優しいのね」

「おいおい、この歳になって、焼き餅もないだろう? 娘みたいな年頃だよ」

「おいくつ、何ですか?」

「五十六に成ったばかりだ。 身体が利かなくなる前に、のんびりと過ごしたいと思ってね。 子供達には振られてしまったよ」

「お子さんは、おいくつ何ですか?」

「息子が二十三歳で、娘が二十歳よ。 息子は仕事が忙しくて、休みが取れなかったの。 娘は、大学のお友達の方が大切みたいで」

 仕方ないわね、と、言いたげな雰囲気だ。

「家は、遅くに出来た子供達だったから、随分、可愛がって来たんだけどね。 年頃と言うヤツで、どうしようも無い」

少し、肩を竦めて紳士が言う。

「貴女たちは、新婚さん?」

婦人に言われて、倉真と目を合わせた。 微かに笑みを見せ、利知未が言う。

「…まだ、一年と一寸です」

 嘘をついた。 同棲と言う響きは、あまり良い印象ばかりでも無さそうだ。

「そう。 じゃ、まだホヤホヤなのね。 一番、幸せを感じる時期かしら?」

「ええ、そうですね」

これは、嘘とは言い切れない。 大問題も片付き、今、二人は幸せだと思う。

 倉真は話を合わすのも照れ臭くて、紳士と話を始めた。

「そう言えば、名前も聞いてなかったっすね。 俺は、館川です」

「おお、そうでしたね、私は、山内 孝夫と申します。 家内は敏子」

「倉真です。 館川倉真」

「奥さんは?」

 問われて、やはり恥ずかしくなる。 利知未は笑顔で答えている。

「利知未です。 …お二人は、ご結婚が遅かったのですか?」

「結婚は、人並みだったんだけど。 ただ、中々、子供に恵まれなくて」

 そして、小さな声で利知未に耳打ちをした。

「二人とも、キャンプで出来た子供達でした」

 ニコリとして、更に言う。

「館川さんも、今夜で恵まれるかも知れませんね」

 利知未は赤くなってしまった。 その様子を見て、倉真が首を傾げる。


 倉真は、山内氏と話をしていた。

「家は、姉さん女房でね。 普段は頭が上がらないんですよ。 こうしてキャンプに来た時だけは、偉そうにしていられる」

 冗談なのは解る。 相槌を打つ倉真に、婦人が言う。

「本気にしちゃ駄目よ。 家でも、何時も威張り散らしてますから」

首を竦める主人を見て、笑顔になる。

「子供が出来たら、忙しくて、とても、とても、ゆっくり何てして居られないから。 今の内に十分、二人の時間を楽しんだ方が良いわよ」

「そうですね、そうします」

 それから話が盛り上がって、夕食まで一緒に済ます約束をした。


 利知未たちは一度テントへ戻り、バーベキュー道具を運んで来た。 それから四人で楽しい夕食時間を過ごした。

 利知未は、ついでに奥さんからいくつか、料理と酒の摘みのレシピを教えて貰った。


 バーベキューの後片付けを済ませ、山内夫妻と温泉へ向かった。

 のんびり浸かっているからと言われて、一足先に風呂を上がり、蛍狩りへ行く事にした。 入浴中も其々、男同士、女同士で話が弾んだ。


 利知未は、山内夫人が自分の娘と接するように接してくれていた事に、心から感謝をした。 背中の流し合いもした。 夫婦の仲の良いエピソードも、沢山、聞かせてもらった。

 子育て中の話は、特に興味深かった。

「昔は、家族で良くキャンプへ来ていたのよ。 主人の道楽だから、子供達もすっかりアウトドア通に育ってしまったわ。 私の方が付いて行けない位」

「それくらいの方が、いいと思いますよ。 いざと言う時、困らないでしょう」

「そうね、その点は主人の手柄だと思います。 館川さんも、ご主人、お好き見たいだから。 何時かお子さんが出来たら、家族共同キャンプにお誘いしてもいいかしら?」

「そうですね、私の仕事の関係で、あと二、三年後になりそうですけど。 そうなったら、是非」


 山内夫妻と利知未たちは、一晩のキャンプで仲良くなれた。


 倉真も、物分りの良い親父と過ごしている気分になった。

『うちの親父とも、これ位、気楽に付き合えればな』 そう思う。

こちらも良い気分になった山内氏から、姉さん女房の扱い方についての、薫陶を貰ってしまった。

 湯船に浸かりながら、山内氏の言った言葉は倉真の心に残った。


「三十年、色々あったが……。 私は敏子と結婚して、心から良かったと思っています」


 いつか自分もその言葉を言える時が来ればいいと、心から感じた。



               四


 ポケットの指輪の箱に、そっと触れる。

 今、倉真は利知未を右腕にぶら下げて、あの思い出の場所へ向かっている。


「ここ、花火した所だね。 今年もやってる」

他のキャンプ客が、子供達の嬌声を響かせ、炎の花を咲かせている。

「花火のベストポジションだな」

「お父さんと、お母さん達は、あのベンチで眺めてるのかな?」

「そうかもな」

 始めて倉真の力強さを感じたあの場所で。 利知未は、絡めていた腕に力を込めた。

「……こうして歩いてるなんて、あの頃は思っても見なかった未来の姿だ」

くすりと小さく笑う。

『俺は、いつかはと思っていたけどな』

 心の中で呟いて、口では別の言葉を返す。

「あン時、まだ俺は、十九だったな」

「あたしが、二十歳。 …歳、取ったな」

「まだ、早くネーか? その感慨は」

「だって、あの頃はまだ学生だったし。 倉真もバイトだったね」

「バイク便は楽しかったぜ?」

「今の仕事は楽しくないの?」

「楽しいとか、そう言う次元じゃネーな。 好きな事だから、遣り甲斐はかなり感じてるぜ」

「ただ、バイク便の頃みたいな感じは無いんだね」

「そりゃ、そうなるな。 お前は、医者として働き始めて、どう感じてるんだ?」

「……遣り甲斐は、あるよ。 けど、大変。 まだ難しい症例に合った事は無いけど。 そう言うのは、先輩が引き受けてくれるから」

「そんなモンだよな。 ……けど、凄いと思うよ」

 医者になれるヤツが、そうそうゴロゴロしている筈は無い。 何より利知未の周りに居た連中は、自分も含めて、勉強からは足が遠い奴らばかりだ。

「裕兄の、お陰かな……? 今は、倉真のお陰」

「そう言って貰えると、嬉しいよ」

 利知未の最愛の兄、裕一。 その姿を追い越す事は、難しいと思う。

「自信、持ってよね? 今、あたしが一番大切なのは、倉真なんだから」

「…俺も、同じだ」

 倉真の短い返事に、喜びを感じた。 益々、ピタリと寄り添った。


 このキャンプ村は、何処も彼処も懐かしい。

二人は寄り添い歩いたまま、思い出の、蛍の小道へ踏み込んだ。


「五年振りだけど、今年も、見事だね」

 蛍の仄かな光が、呟く利知未を益々、綺麗に見せていた。

「そうだな」

 腕を組んだまま、道を進む。 河原へ降りて腰を下ろした。

「……あの日、この蛍の光を見ながら、泣きそうになったよ」

マスターへの想いを、浄化させなければならないと、必死だった。

 これからは自分が仲間達を守って行こうと。 そうする事で、彼に対する想いを塞ごうと、決心した夜。

「……それでも、泣かなかったよな。 お前は」

「秋絵もいたし。 倉真も、居たでしょ? ……あの頃は、まだ倉真たちの事、弟分として守って行こうって、考えてたから。 ……今は、倉真に守られっぱなし」

 小さく笑顔を見せる。 その横顔に、見惚れてしまう。

「守らせて、貰ってる感じだな」

「そんな事、無いよ? 今、倉真が居なくなったら……。 あたしはきっと、ボロボロになっちゃうと思う」

 利知未の身体を引き寄せる。 寄り添って、倉真が呟いた。

「約束、ちゃんとしよう」

「約束?」

「俺が、一生お前を守る約束だ。 ……利知未、渡したい物がある」

肩を抱いたまま、ベストのポケットから、片手で指輪の箱を取り出した。 指で蓋を跳ね上げる。

利知未の目の前に差し出した。

「……これ?」

「婚約指輪。 本当は、結納とかする必要があるかも知れないけどな。 ……俺達の場合は、事情があるだろ? お前の母親、まだニューヨークだよな。 俺も、格式ばったのは苦手だ。 ……両親とも、何年も顔を合わせていない」

「……うん」

「受け取って、くれるか?」

 嬉しさで、利知未の頬が赤くなる。 照れた笑顔で頷いた。

「ありがとう。 ……指に、嵌めてくれる?」

言いながら、倉真と改めて体を向かい合わせた。

左手を、そっと差し出す。

「何か、照れ臭いな」

倉真の呟きに飛び切りの笑顔で、行動を促す。

「はい」

指を軽く開いた。


 その左手を取り、倉真は指輪を、利知未の薬指へ嵌めた。

 手を、目の高さに上げて、利知未は目を丸くする。


「凄いな。 サイズ、ピッタリだよ」

「当たり前だ。 誰が、用意したと思ってるんだ?」

 照れ臭くて、少し威張ってみる。 くすりと笑って、利知未が言った。

「倉真。 ……愛してるよ。 これからも、ずっと……」

「絶対に、幸せにする」

「うん。 …信じてる」


 見つめ合い、唇を重ねる。

 蛍の光が、二人の周りを、飛び交っていた。


 指輪を受け取って貰って、倉真の気が、少し抜けてしまった。 一息ついた表情を覗き込んで、利知未が言う。

「これで、本当のフィアンセだ。 ……良かった。 倉真で」

「俺は、気が抜けた。 ギリギリまで、断られたらその指輪をどうしようか、これでも悩んでた」

「あたしが断る訳、無いでしょ? ……前に、言ったけど。 結婚するなら、倉真以外は考えられなかったんだから」

「その言葉が、嘘じゃなくて良かったよ」

「嘘だと、思っていた訳?」

「…思ってなかった」

「じゃ、取り越し苦労って、ヤツ」

 ニコリと利知未が笑う。 改めて引き寄せて抱しめた。

 暫くそのまま止まっていた。 利知未が言い出す。

「五年前の、あの時には、考えても見なかったよ。 ……倉真と、こうしている所なんて」

「俺は、何時か必ずって、思っていたぜ?」

「……あの頃から?」

 ビックリした利知未の身体を、静かに離した。 肩を抱いて、倉真が言う。

「って言っても、当時は自分の心が解らなかった。 お前を好きな気持ちに、気付く事が出来なかった。 ……この場所だよ、気付いたのは」

「……そうだったの?」

「ああ。 だから、今夜この場所で、ちゃんとプロポーズをしたいと思ってた」

「良い、ムードだね」

「だろ? あの頃、樹絵ちゃんが丁度、同じことで悩んで居たんだよ。 ジュンに対する気持ちが、恋愛なのか何なのか解らないってさ」

「…そんな事、話してたんだ」

「そう、それで、戦友な訳だ」

「成る程。 けど、二人がタッグ組んでたとは、気付かなかったな。 それは、何時からなの?」

「あの夜だよ。 二人で、アイス買いに行ってただろ? そこで、悩みを聞いた」

「あの時か。 ……道理で、帰りが遅かった訳だ」

膝に頬杖を付いて、利知未が呟く。

「ジェラシー、感じたか?」

「…何、言ってンだよ?」

剥れた利知未の、言葉が変わる。 小さく笑って倉真が言う。

「冗談だ」

 利知未は、頬杖を付いたまま、顔を倉真に向ける。

「……そんなに焼き餅、焼いて欲しいの?」

「愛情を実感できるからな」

「他の愛情表現じゃ、物足りない……?」

色っぽい目つきになって、手を倉真の頬へ伸ばす。

 キスをして、腕をその首筋に絡める。 倉真はキスに、夢中になってしまった。

「……そんな事、無いよ」

 やがて、唇を離して、倉真が囁く。 利知未を改めて抱き寄せた。

「……ね、テント、戻ろ?」

「そうだな」


 色っぽい雰囲気に流されて、腰を上げる。

 利知未が立つのに手を貸して、腰を抱き合って、蛍の小道を後にした。



 Tシャツ一枚をパジャマ代わりにした利知未と、シェラフの中へ潜り込んだ。 そのまま、下着へ手を掛ける。

「…ノーブラ、だよな?」

「寝る時は、邪魔だから」

 見つめ合い、囁き合う。 Tシャツの下から、倉真の手が進入していく。

「…ん、声、出さないように、しなきゃ……」

薄いテントの外へ、音が漏れたら恥ずかしい。

「我慢、出来るか?」

「我慢、するよ…。…ぁ、ん、…倉真」

 倉真の手は、既に利知未の身体を這い回っている。 首筋に唇を感じて、利知未の切なげな息が漏れる。

 確りと腕を、倉真の背中へ、回して行った。


 更に進入して来た、倉真の指の動きに、利知未の息が、また漏れる。

「直ぐ、行けそうだな」

「倉真は…、…もう、元気みたいだね…」

「我慢、出来ないな」

「…良いよ………ん…」


 利知未の返事より早く、倉真が、進入していく。

 何時もよりも、静かに、ゆっくりと……。

 その刺激に、あの人との行為が、重なってしまう。


『……駄目。 あの人じゃ、無い、今の私の、一番大切な、……倉真』

 想いを集中して、声が上がってしまった。

「…ん、あ、あ、…ダメ…!」

自分の声を塞ごうとして、倉真の唇と重ねる。 その動きに、倉真の動きが一瞬、止まる。

「…いや…止めないで……」

「利知未」

 再び動き出す。 必死に声を押し殺す姿に、また気分が上がった。

『……早く、倉真の子供、欲しいな……』  切ない快感に、利知未の心が、疼きだした。

 その夜の行為は、何時も以上に、体力を使ってしまった


 身体を離して寄り添い直し、囁く。

「何か、ちょっと、緊張しちゃう。 …こういう所で、するのって」

「そうだな、俺も、初めての経験だよ」

「……本当に、始めて?」

「何を根拠に?」

「慣れてる見たいだったから」

「そう思ったんなら、俺の愛情の成せる業って事だ」

「しょってる」

「何とでも言ってくれ」

身体を起こして、Tシャツとパジャマ代わりのパンツを、履き直した。

「何時までも丸出しにしてたら、蚊に刺されちゃいそう」

「それもそうだ」

倉真も起き出して、服を着直した。

「そう言えば、山内さん、子供は二人ともキャンプの時の子だって、言ってたな。 ……館川さんも、今夜、恵まれるかもねって言われたよ」

「出来そうか?」

嬉しさ半分、期待半分、不安がスパイス、そんな気分で倉真が聞く。

「残念でした。 今日も、ちゃんとピルを服用済みです」

「…なんだ、そうか」

「がっかりした?」

 力が抜けて、倉真が寝転がる。 その体の上に乗って、利知未が聞く。

「チョイな」

 体の上に圧し掛かって来た利知未の背中へ、手を回して引き寄せた。

「けど、ホッともしてるな。 まだ、稼ぎに不安あり、だ」

「それ以前に、結婚前の子供になっちゃうよ?」

「ガキが出来たのが判ったら、その日の内に届けを出しに行く」

「…ありがと」

「当然だろ」

 軽く、溜息を付いて続ける。

「……しかし、静かにスルのは、勢いでスル時より体力使うな」

「……あたしも。 何か、珍しく疲れちゃった。 やっぱり、声を殺すのって、辛いかも……?」

「じゃ、明日の夜は思い切り声が出せる所にでも、行くか?」

「ホテルとか?」

「アパートでも、我慢してるだろ?」

「……まーね、だって。 角部屋とは言え、やっぱり気を使うよ」

「下には、響いてたりしてな」

「そっちは、平気そうだよ? 下の生活騒音、殆ど聞こえない」

「そうかもな。 前、一人で住んでた部屋とは、偉い違いだよ」

「倉真の部屋は、結構、壁も薄かったよね。 あの時も、堪えるの大変だった」

「明日は、やっぱ、寄ってかネーか?」

「……良いよ。 じゃ、今夜は大人しく寝ましょうか?」

「そうするか。 お休み」

「お休み。」

キスを交わして、眠りに付いた。

 今日は、やはり体力と精神を使い切った。 設営や荷物運びの疲れも手伝って、その夜二人はぐっすりと眠った。



 朝食は、山内夫妻が誘ってくれた。 朝から焼きたてのパンを戴いた。

 利知未は昨日からのお礼も兼ね、腕を振るって美味い珈琲を淹れ、朝食の席で振舞った。 二人とも、喜んでくれた。


 奥さんは、写真を撮るのが好きな人だった。 何枚か、同じフィルムへ収まり、現像したら送ってくれると約束をして、住所を交換した。

 二人には新婚だと言ってある。 メモに書いた名前は館川姓で、利知未の名前も、倉真の隣に連名して記入する。

 メモを見て、倉真は少し照れ臭くなってしまった。


 一時間ほどで、テントを片付け終わった。 後、もう一泊して行くと言う山内夫妻に挨拶を交わして、食材の残りを使ってくれる様に頼んで渡し、二人は車へ乗り込んだ。



 十時前には渓谷を後にした。 車の中で、将来の事を話し合った。 その流れで、利知未は始めて、倉真の家庭の事情を聞かせて貰った。

「つまり、跡取り息子の反逆、だった訳だ」

「そうなるな。 ……って言うか、俺が和菓子職人なんか、向くと思うか?」

「…思わない。 けど、職人気質は、お父さん譲りって事だね」

「喧嘩っ早さもな。 お陰で小学校卒業の頃には、あの辺りのガキ大将だったぜ? 中学生とも、ダチ守るために喧嘩してた」

「倉真らしい。 でも、お父さんは倉真に後、継いで欲しいと思ってるんだね。 ……いいの? このままで」

「その内、親父に会いに行くよ。 俺のやろうとしてる事も、話して来る」


 そう言った倉真の真面目な顔に、利知未は心からエールを送った。

 そして、これからは自分も助けになるからと、改めて約束を交わした。



              五


 七月の日曜は、後一日残っている。 キャンプから戻った、その二日後。 懐かしい仲間から、連絡が入った。

「おう、久し振りだな、どうした?」

「どうしたって、訳でもないんだけどな。 久し振りに、ツーリングにでも行かないか?」

電話の相手は宏治だ。

 久し振りの親友からの連絡を、倉真は嬉しいと思う。


 宏治はバッカスを手伝って働いている。 普段、帰宅してからでは既に仕事中である。 こちらから連絡をする機会も余りなかった。


 時計を見ると、現在バッカスは営業中の筈だ。 店から暇な時間に連絡をくれたらしい。

「いいぜ。 どうせ次の日曜は利知未も仕事だ」

「そうか。 上手く行ってるんだな」

「ああ。 ……婚約したよ」

照れ臭いながらも、宏治には報告するべきだろうと思う。 利知未の始めの弟分で、倉真の親友。 利知未と倉真の微妙な関係の、見届け役みたいな奴だ。

「そうか、おめでとう! じゃ、祝杯挙げるか?」

「サンキュ。 で、何処まで行く?」

「箱根辺りが、適当じゃないか?」

「そうだな」

「偶には、あの辺りの温泉にでも浸かってくるか」

「お前にしちゃ、珍しく爺むさい事、言ってんな」

「悪かったな。 偶には、のんびりしたいんだよ」

「ま、良いんじゃないか。 利知未も温泉は好きみたいだからな、良く行ってたよ」

「そうなのか、意外だな」

「疲れが取れるから良いんだと言ってるな」

「成る程。 ついでに一杯引っ掛けて、祝杯挙げてくるか」

「そうするか」

「…急に、悪かったな。 じゃ、日曜に」

店の鈴が、鳴る音が電話口から聞こえる。

「昔通りの場所で、九時でいいか?」

「ああ、じゃーな」

「おお、日曜にな」

 電話を切って、脱衣所からの利知未の声に答える。

「電話、誰からだった?」

「宏治だよ」

「へー! 久し振りだね! 何だって?」

「日曜にツーリングへ行かないか、って電話だ」

「そうなんだ。 宏治、元気そうだった?」

「代わり映え無さそうだったけどな」

「そっか」

そこで話を切って、ドライヤーを使い始めた。


 利知未は、今日は休みだった。 今月のシフトは色々だ。 明日はまた通常出勤になっている。 昨日、遅出で出掛けて一日休んで三勤務。 一休日、そして、また三日夜勤で出勤。 八月に入れば、夜勤明け休日から、また六月の勤務状態へ戻る予定だ。


 変則的な休日設定で、今月は二回も倉真と連休が同じになってくれた。

 お陰で、あの夜。 倉真からエンゲージリングを貰える運びと成った。

『偶には、こう言う機会が有っても、良いよね』  髪を乾かしながら、鼻歌交じりでそう思う。 指輪は仕事中、ネックレスに通して身に着けている。 パールのネックレスは、今は箱の中だ。


 結婚指輪ならしたままでも仕事が可能だが、小さなダイヤ付きリングは、仕事中には邪魔になってしまう。 箱に仕舞ってしまうのも、まだ勿体無い。

『もう少ししたら、持ち歩かない様にした方が、いいとは思うけど……』

もう暫く幸せの象徴を、身に着けていたい気分だった。


 利知未が風呂から上がり、晩酌時間になる。 倉真は、さっきまでテキストを開いていた。 何時もの落ち着く姿勢でグラスを傾ける。

「宏治に、よろしくね」

「ああ、言っておくよ。 ……里真ちゃんとは、上手く行ってンのか?」

つい一昨日、思い出の渓谷へ、行って来たばかりだ。

あの時、お互いの想いを伝え合い、カップルになったのは、宏治と里真、和泉と由香子の二組だった。 思い出して、何気なく倉真が呟いた。

「……別れたらしいよ。 もう、半年くらい前の話らしいけど」

「そうだったのか?」

「うん。 樹絵が、そんな事を言っていたって」

「樹絵ちゃん、ね。 連絡も無かった筈だよな?」

「樹絵とは会ってないけど。 五月にジュンが、病院へ来たから」

「あいつ等は、上手くやってるのか?」

「五月の時点では上手くやっていたみたい。 新しい住所の葉書が来てたでしょ? 引越し、樹絵の休みに手伝わせて、そのまま泊まって行ったって、ジュン情報」

「ジュンが、病院へ行ったのか?」

「健康診断にね。 カメラマンの弟子になったって。 一応、就職だから健康診断が必要に成ったんだと、言ってたけど」

「お前、今まで話にも上らなかったよな?」

 倉真が、少し呆れたような顔になる。

「だって、その後から色々、あったでしょ? 話す機会、無かったよ」

「…そりゃ、そーだったな」

誤魔化して酒を飲む。 話を変えた。

「ジュンのヤツ、ちゃんと働いてるんだろうな」

「向いてるみたいよ? 楽しいから、やってみようと思ったって言ってたし」

「ま、何事も無く真面目に働いてりゃ、問題ないか」

「倉真が、ジュンの事、心配するようになった…!」

場違いな驚きを、利知未が言葉に表した。

「どう言う言い草だ?」

「あはは。 だって、ねぇ…?」

「…言いたい事は、分かる気もする」

「ね?」

喧嘩にはならなかった。 お互い、仲間との昔話は語り合う必要も無い。


 話は上の空で、倉真は日曜、宏治の様子がどうなっているのか? そちらが気になりだした。 別れて半年も経つのなら、気持ちも落ち着いた頃だろうとは考える。 それでもアイツから言い出さない限り、突っ込むのは止めようと思った。

 一時間ほど酒を飲み、寝室へ移動した。 利知未を思う存分抱いて、疲れに紛らせて眠った。 余計な事を考えない為だった。



 二十八日の夜から、利知未の夜勤が始まる。 倉真と宏治がツーリングへ出掛けるのは、三十日の事だ。 利知未は昼間、仮眠を取ってから、また夜、出勤しなければならない。

 倉真が出掛けるよりは少し早くに帰宅出来た。 倉真は洗濯機を回してくれていた。 昨夜、利知未が頼んでおいた事だ。


 利知未が眠い目を擦りながら、朝食の準備をしてくれる。

 食事を終え、洗濯物を干すのは、倉真が出かけるまで時間があるからと、手伝ってくれた。 お陰で家事は早めに片付き、利知未はゆっくりと仮眠を取る事が出来た。

 出掛けに送り出す。

「気を付けて行って来てね。 夜は、八時までに帰って来れるなら、一緒にご飯、食べよう?」

「ああ、そんな遅くはならないと思うけどな。 土産、買って来るか?」

「別にいいよ? 何時も行ってた所だし。 もし、買って来てくれる気があるなら、漬物と黒卵でも有れば、ご飯の足しには成りそうだけど」

「見てくるよ。 じゃーな、行って来る」

「うん、行ってらっしゃい」

仕事へ向かう朝のように、キスを交わして出掛けていった。 すっかり、新婚夫婦のようだ。

 自分の幸せ気分はさておき、今日は宏治の話を聞いてやろうかと思った。



 約束の場所へ、ほぼ時間通りに到着した。 宏治がバイクへ寄り掛かり、海を眺めてタバコを吸っていた。 足元に、吸殻が何本か転がっている。

「悪い、待たせたか?」

「おれが早かったんだよ。 久し振りだな」

「二年振り位か?」

「二年も会わなかった感じは、しないな」

「俺もだ」

バイクを止めて、倉真もタバコを一本、振るい出した。

 二人で出掛ける時の、昔からの習慣だった。 宏治が先に吸い終わり、足元の吸殻を缶珈琲の空き缶へ拾い集める。

「利知未さんが見てたら、大目玉だ」

 呟く様子に、昔からの真面目な宏治が思い出される。

「俺は携帯灰皿、持たされてるよ」

「彼女らしいな」

 小さく笑って宏治が言う。 倉真も一本吸い終わり、携帯灰皿へ吸殻を捨てる。

「んじゃ、行くとするか。 コースは、昔通りで構わネーよな?」

「任せるよ」

 二台のバイクが、海の見える京浜公園を後にして、走り出した。



 宏治は漸く里真と別れた思いから、立ち直り始めた頃だった。

 だからと言って新しく恋人を見つけようとは、考えられない。 朱美は約二ヶ月前、マンションを引き払って、実家へ戻って行った。

 最後の夜に、言っていた。

「感謝、してるわよ。 貴方との半年間で、あたしは気持ちの整理、着けられたみたい。 彼女には、悪い事をしてしまったわね」

「元々、住む世界が違う恋人だったんだ。 …おれも朱美さんのお陰で、漸く彼女を解放することが出来た。 感謝、してるよ」

 返した宏治の言葉に、朱美は切なげな微笑を見せて、最後に一言、残した。

「貴方、優し過ぎるわよ。 …その優しさが、貴方をこれ以上苦しめないように、祈ってるわ」


 それ切り会ってもいない。 店にも勿論、来なかった。 連絡さえ、する相手ではなかった。

 ただ、この事を通して、宏治にまた男としての哀愁が備わった。

 今はバッカスに宏治目当てで来る客も、多くなっている。 中々、モテている。 それでも客に手を出す事は、朱美以来、二度としてはいない。



 山道のカーブを遊んで、目的地へ到着した。 入湯料を払って、冷房の効いた屋内へ入る。 夏休みの日曜だ。 客層はカップル、新婚、熟年夫婦、家族サービス中の大黒柱。 そんな顔ぶれが殆どだ。 男の二人連れは少し目立った存在だ。 二人の身長差も、その珍しい姿を引き立ててしまう。

「目的地の選択、誤ったか?」

流石に、宏治が呟いた。

「良いんじゃないか。 一応、俺たちと似た様な奴等も、チラホラとは居るぜ?」

「ま、こんなモンだな」

 女子大生の友人グループも、居る事は居る。 宏治に注目している。

「…色男だな」

「何だよ? それは」

「つーか、俺はどうやら、良い広告塔になってるらしい」

人よりも、頭が飛び出している。 そこに注目して、一緒に居る男前な友人に視線が移動する。 …そんな構図だ。

 気にも留めない様子で、宏治は休憩所を覗いてみた。 混んでいた。

「先に風呂、済ませるか?」

「その方が、良さそうだな」

 方向転換して、大浴場へ向かった。


 露天風呂へ浸かって、宏治が顔を湯でバシャッと洗う。

「偶には男同士、裸の付き合いってのも、いいだろう?」

「そりゃ、悪くは無いがな」

「昼間から露天風呂へ浸かって、風呂上りにビールで一杯、とか」

「テレビで野球中継でも眺めてた日にゃ、まさしく休日の親父だな」

「言えるな。 …お前は、そう遠い未来でも、無いんじゃないか?」

「結婚は、二年は先になるよ」

「そうなのか?」

「ああ。 利知未が研修医終わって、正勤医師になって、あいつ自身が納得するまではな」

「…別れたり、するなよ。 ……って、余計な世話か」

「利知未が、俺に愛想尽かさないように健闘するさ」

「尻に敷かれそうだな」

宏治に笑われて、倉真も薄く笑う。

 どう考えても、亭主関白には成れないだろうと、自己分析をする。

 利知未は、倉真を立ててくれ様としているが、正直、あいつには勝てないと、倉真は思う。 …泣き顔や、可愛い笑顔を見せられれば、結局、負けてしまう。 それでも、その利知未の素顔を守り通そうと決めているのだから、当然なのかも知れない。


「付き合い始めて、二年位か?」

「そう言う計算に、なるな」

「一緒に住み始めてからは?」

「一年と四ヶ月くらいだな」

「そーか、長いな」

「でも、無いだろ? 世間じゃ七、八年付き合って、漸く結婚ってカップルだって居る位だ」

「それは極論ってヤツだろ? それ言ったら、三ヶ月も経たずに結婚するヤツだって居るんだ」

「そりゃ、そうだな」

 暫く、会話が止まる。 宏治が、湯船をぼうっと眺めて、言い出した。

「里真と、別れたんだ。 …もう、半年になる」

「…そーか。 …ま、色々あるさ」

「…ああ」

 呟いて、自嘲的に笑う。

「いい加減、お前に報告する事でも無かったよな。 ガキの恋愛じゃあるまいし」

「いいんじゃネーか? 敢えて黙っている必要も無い」

「そうだな…。 そろそろ、出るか。 ビールが恋しいよ」

昔のような、少しはにかんだ笑顔を見せ、宏治が立ち上がる。

 その身体つきは、また男らしく逞しくなっていた。 背も少しは伸びて来たようだった。 小さく息を付いて、倉真も立ち上がった。


 休憩所は、まだまだ混んでいた。 つい、ぼやいてしまう。

「混んでるな」

「昼時だ、仕方ネ―よ」

 人より頭が出ている倉真が、視線の先に、屋外のテラス席を見つける。

「外、行かないとタバコも吸えなそうだな」

「ん? ああ、禁煙だな」

「出るか?」

視線を斜め下に、宏治の表情を見る。

「そうだな。 折角、祝杯挙げようとしてるんだ。 タバコが無いと寂しいだろう?」

 宏治は、それ程のヘビースモーカーでは無かった。 倉真が、一日一箱以上は確実に消費していたのは解っている。

 ビールと定食と、摘みに枝豆を食券で購入して、二人はテラス席へ出た。


 中学・高校時代、倉真は良く、家出して宏治の部屋へ転がり込んでいた。 その度に、夜中まで付き合わせて飲んでいた。

 久し振りに向かい合いグラスを傾けて、あの頃に戻ったような錯覚に陥った。

「それにしては、お前らも随分、時間が掛かったよな。 付き合い始めるまで」

乾杯して、ビールを飲んで、宏治が言い出した。

「そうだな。 三年、待ったよ」

「成る程な」

「何だよ?」

「三年待って、やっと思いが通じたんなら、その後、四年待とうが五年待とうが、大して苦じゃないって事か? と、思ったんだよ」

倉真はグラスを置いて、タバコへ手を伸ばした。 火を着けながら、答える。

「…そうでもないぜ。 アイツ、モテるみたいだからな。 結構、シンドイよ」

「そうなのか? おれは、もう二年近く会ってないからな。 そんなに女が上がったのか?」


 中学時代から、大学四年時代まで、身近な存在だった利知未を思う。

 昔はそれこそ男みたいだった。 最後、バッカスを手伝ってくれた十カ月間は、それでも少しは、女らしくなっていたかも知れない。


「そりゃー、もう。 今のアイツは、フリーのお前には合わせたくない位だ」

 ニヤリと笑って、軽く惚気てやった。

「どう言う意味だよ?」

「親友に女、取られたくないって事だ。 …男っぷりが上がったお前の前には、マジ連れて来たくないかもな」

「そんなに変わったのか? 一度、見てみたくなったな。 今度、三人で飲まないか」

「止めとけよ、俺達に当てられるぞ? お前も彼女同伴なら、考えてやる」

「相変わらず口の悪い事だな。 その言葉、痛いぞ?」

「羨ましいか?」

「あー、羨ましいよ」

 宏治もタバコへ手を伸ばす。 鼻で笑って火を着ける。

「そうだな…。 今度、店の招待状を利知未さん宛に送るか? 倉真抜きでご来店下さいって、一言書いて」

「あ、テメー! そりゃ、どー言う了見だ? いい女に成ってたら、口説こうとか思ってネーだろーな?」

「それも、いいな」

 今度は宏治がニヤリと返す。

「止せよ、だったら二人で店に行く」

笑いながら話していた。 真面目な顔に戻った宏治が言った。

「そうだ。 顔、出せよ? お前ら最近、全然来なくなったからな。 お袋が会いたがってるよ」

 美由紀には、あの仲間全員が大層、世話になっている。

「美由紀さんか。 随分、世話になりっぱなしだったな」

「お袋にとっては、お前らも子供みたいなモノらしいからな。 寂しがってるんだよ、最近」

「そーだな。 顔、出しに行くか。 利知未にも言っとくよ」

「そうしてくれ。 和泉やジュンも偶には来てるぞ。 一番、世話焼かせた次男坊と長女が顔を出さないのは、どう言う事だ? って、兄貴も言ってたよ」

「宏一さんか。 元気なのか?」

「元気だよ。 今、見合い攻撃に辟易してる」

笑いながら、宏治が言う。

「家の家族構成は、五男一女だって笑ってるけどな。 誕生日の関係で、おれは次男から四男に格下げだよ」

「そうなるのか。 和尚が三男、ジュンが末っ子って事だな」

「賑やかなもんだ」

「…そうだな」

 近々、バッカスへ二人で行くと、約束をした。


 それ程、飲んでいた訳ではなかったが、帰りの運転がある。 適当に切り上げ、もう一度、湯船に浸かり、酔いを冷ましてから帰宅した。

 倉真は利知未に言われた通り、漬物を買って帰る事にした。

「土産か?」

「飯の足しになるもん、頼まれた」

「流石、利知未さん。 確りしてんな」

宏治は土産を買う倉真を見て、笑っていた。



               六


 倉真が帰宅したのは、七時過ぎだった。 利知未と向かい合い、土産の漬物を食卓へ乗せて、夕食を取ることが出来た。


「バッカスか。 行ってなかったね、確かに申し訳なかったな」

「出掛けに発破掛けられて来たって、言ってたぜ。 俺と会うなら、約束して来いって」

「成る程。 じゃ、次の休みは…あ、丁度いい日がある」

バックからシフト表を出して、利知未が言う。

「倉真、五日の土曜日、休みだよね? あたしも、休みになってるよ。 日曜はバッカスが休みだから、この日が良いと思うけど?」

「明日、給料出るからな。 何とかなるか」

「…ごめんね、今月、お金掛かったでしょう?」

「指輪の事、言ってるのか? 気にするな、少しは貯金があったよ」

「これからは、将来貯金を始めない?」

「将来貯金?」

「結婚式。 それから将来、倉真の城を持つ為の貯金。 …その内、子供が出来たら、またお金が掛かるだろうし」

「…確かにな」

「生活費、十万円ずつ出してるでしょ? 上手く遣り繰りすれば、月末に一万から二万、残せるんだよね。 成るべく、お弁当を作るようにして、小遣いを少し減らして、生活費の残りと足して月々、責めて三万〜四万円。 二人で出し合って、貯金する。 三万でも一年で三十六万。 ボーナス出たら、もう少し足して、年間責めて五十万は貯めて行くでしょ? 二年後には、百万。 けど、そこで結婚式に掛かる可能性があるから、また、始めないとね。 …本当は、式とかはしなくてもイイけど」

 倉真の実家が、どう言う反応をするのか、判らない。

「式、しないで構わないのか?」

「あたしは、平気だよ? ウエディングドレスとか、特に着て見たいとは思わないから」

「…俺は、見てみたいな」

「写真だけ、撮る…?」

「それでも、イイけどな」

「取り合えず、今は、もう少し先の話だけどね」

少し照れ臭い。 倉真とこんな話をするなんて、昔の自分には考えられなかった事でもある。

 照れた顔をする利知未を、倉真は笑顔で見つめてしまった。 ……ニヤケ顔かもしれない。

「それから先は、その時の収入に合わせて徐々に金額、増やして行って。 お互いの貯金は、お互いの管理と責任で、し続ける……。 何て、考えてみた」

 食事をしながらの会話だった。 そろそろ、八時になろうとしている。

「また、ゆっくり話し合おうね?」

「そうだな」

 倉真も利知未も、其々で貯金はして来ている。

 その金も勿論、将来貯金と一緒にして、何時か、倉真の夢を叶える足しにしようと考えていた。


 利知未の貯金は、現在、六十万。 研修医として働き始めて、まだ四ヵ月だ。 それまでに貯めた分と合わせても、そんな物だ。

 倉真は、二人で住み始めてから、それでも頑張っていた。

 それ以前の貯金と合わせて、七十万弱はあったが、三十万円は婚約指輪代に消えている。 現在、利知未よりも稼ぎは少ない。

 給料三か月分のリングなど、無理な話だった。


 八時半前に、利知未が仕事へ向かった。 明日の朝、帰宅すれば、夜勤明け休みになり、八月に突入だ。

 八月一日が休みで、翌日からまた遅出が三日。 話は明日の夜に、のんびりと晩酌でもしながらにしようと言って、アパートを出た。


 利知未が出てから、倉真はテキストを開いた。

『資格、取れれば給料も上がるしな。 ……何より、自分の城を持つためだ』

 改めて気分を引き締め直して、今夜も裕一のお古に願掛けをする。

『居睡り、しないように』  そんな願掛けだったりする。

 勉強は、やっぱり自分で頑張るより仕方がないと思った。



 翌朝、利知未の帰宅は、倉真が出る時間には間に合わなかった。 これから先、夜勤明けは、そうなって行きそうだ。


 今までは研修医として、少しだけ楽をさせて貰っていた。 本来、夜勤で出勤した場合、八時から出勤してくる通常勤務の医師と、遅出の日と同様、預かり患者の症状報告もして行くのが、普通だ。

 五月から利知未は、水曜の午後、外来を担当するようになっていた。 自分の担当患者が、流石に増え始めてしまった。

 勤務時間のずれを調整する為、預かって貰う患者も増えたと言う事だ。 その関係である。

それでも、倉真との関係が落ち着いた、この時期まで。 楽をさせて貰って来れたのは、ラッキーだったと言えるかも知れない。


 帰宅して、倉真が朝食に、味噌汁だけは用意してくれた事を知る。 飯は勿論、まだ残っている。 感謝して、戴く事にした。

 昨日の土産の漬物も、まだ残っている。 いつも夜勤明けの朝は、軽く腹を満たすだけだ。 それだけで、十分だった。

 朝食を済ませて、シャワーを浴びる為に脱衣所へ入ってみると、洗濯機が唸っていた。 脱水中だ。 つい、声が漏れた。

「洗濯、回して置いてくれたんだ。 …助かるな」

そこにも、倉真の優しさを感じて、嬉しく思う。


 倉真は流石に、一人暮らしが長かっただけの事はある。 ピンポイントで、上手い具合に家事の協力をしてくれている。

『結婚しても、この調子で居てくれるのかな……?』 ふと、そう思う。

 自分が専業主婦に成れるのなら、問題は無いが。 将来、倉真の整備工場を立ち上げると言う、夢がある。 金は、幾らあっても足りない位だ。

 出来るだけ、医者として働き続ける必要があるだろう。 つまり、共働きだ。 そうなった時に、倉真が今のまま家事の協力を厭わないでくれるのなら、生活もし易いだろう。


 洗濯物を干し、簡単に掃除を済ませて、利知未は仮眠を取った。

 午後二時半過ぎに起き出して、買い物へ出掛けた。 今夜は倉真の好物を、作って上げようと思った。 家事の協力への、ささやかな感謝を込めて。



 夕飯には、丼物が好きだと言っていた倉真の為に、中華丼を作ってみた。 美味そうに平らげた倉真から、次のリクエストが入る。

「今度は、カツとじが食いたい」

「カツ丼より、カツとじ、が、いいの?」

「好きだぜ? 裕一さんも豚肉料理、好きだったって言っていたよな」

「そうだね。 裕兄は豚肉料理、全般が好きだったから。 優兄と一緒になって、喜んで食べてたのは、カツ丼だったな」

「じゃ、頼む」

「OK。 明日、作っておくね」

「お前は、休みだったな」

「そう。 今夜は、ゆっくり晩酌が出来そう」

「んじゃ、早めに勉強、終わらせるか」

「短期集中の方が、倉真向きかも知れないね。 どうせ、長くなると眠っちゃうんだから」

「ソコを突っ込むか? 最近は居睡りしなくなって来たぞ」

「みたいだけど。 あたしも、今夜はチョット、勉強しないとならないから」


 食事が終わり、利知未は食器を片付けていた。 洗い終わり布巾で拭き始めると、倉真が立ち上がって棚へ片付けてくれる。

 こう言った何気ない手伝いをして貰うと、倉真の点数が、利知未の中でまた上がる。

「ありがと」

「おお」

 片付け終わり、倉真は風呂へ向かった。

「着替え、出しとくね」

「頼む」

 何時も通り利知未が、倉真の着替えを整える。 今日も、裕一のお古だ。

 近頃すっかり、勉強を頑張る倉真のユニホームと化している。 本人が言うには、気が張り易い様な感じがするらしい。


 倉真が風呂から上がり、二人で勉強を始める。 二時間と区切って、十一時には終わって、晩酌にしようと決めた。

 利知未は、山内婦人から教わった酒の肴を二品、用意していた。 夜勤明け休みか、休日でないと中々、摘みを用意する機会も無かった。


 時間を見て、冷蔵庫から摘みを出して、ついでに冷酒を持ってくる。

「この前、山内さんから教えて貰った、肴。 作って見たんだ。 日本酒の方が合うから、ちょっとどう?」

「偶には良いな。 何だ?」

「山芋と海苔の梅肉和えと、浅蜊のヌタ。 倉真、好きかな?」

「美味そうだな」

 倉真は早速、浅蜊のヌタに箸を伸ばした。

「…どう?」

「美味い。 酒、注いでくれよ」

ホッとして、利知未は倉真の杯に、冷酒を注いだ。

「夏に冷酒も、中々、良いな」

クイッと杯を煽って、倉真が軽く舌なめずりをする。 ソファに落ち着いた利知未の杯にも、勺をしてくれた。

 一口飲んで、倉真の身体に、背中を預ける。

「やっと、落ち着く姿勢になれた」

ニコリとする利知未に笑顔を返して、再び杯を煽る。

「ピッチ、早過ぎない?」

「肴が美味いと、酒も進むんだ」

山芋にも、箸を付けた。

「こっちも、美味いな」

「どっちが好き?」

「そうだな…、ヌタ、だな」

「ちょっと、爺臭いな」

「ショーがネーだろ? 美味いモノは、美味いんだ」

 もう一度ヌタに箸を付け、酒を煽る。

「倉真は、そっちの方が好きだろうと思ったけど。 味、濃い方が好きでしょ? けど、あたしは山芋が良いな」

「どっちも美味いよ」

 倉真が箸を付けた山芋を、利知未が横からパクリと奪った。

「うん、美味い」

「お前なー」

「何?」

ちょっとした悪戯だ。 ニコリとして、倉真を見る。

「このヤロ。 食いモンの恨み、晴らしてやる」

そのまま、利知未の頭を抱え込んで、軽くウリウリとしてやった。

「イタイ、イタイ、止めろよ?!」

じゃれ合いになると、言葉も戻ってしまう。 ジタバタして逃げようとして見た。 倉真の力が緩んだ隙に、脱出した。

「反撃!」

 同じ様に倉真の頭を抱え込んで、ウリウリしてみる。 倉真はビクともしない。 それどころか、喜ばれてしまった。

「柔らかくて、気持ち良いな」

慌てて倉真を開放した。 胸を両手で隠して舌を出す。

「スケベ」

「スケベと来るか。 構わないけどな。 正常な反応だと思うぞ?」

「いいよ。 だったら正常な男には、もうヤらない事にするから。 …お酒で、理性が飛ばなければね?」

 少し意味を含んだ目を、チラリと倉真へ向けてやった。

「飛ぶ程、外で飲まないでくれよ?」

「じゃぁ、倉真が止めてよ?」

「意地でも止める」

「じゃ、五日の夜も安心だ」

 そう言って利知未は、勝ち誇った笑顔を見せた。

「けど、本当に久し振りだな。 宏治や美由紀さんと会うのも。 ……昔に、戻るかも知れないな」

「その方が、俺は安心だ」

「どうして?」

「宏治に、婚約者を寝取られないで済む」

 利知未は倉真の言葉に目を丸くする。 直ぐに、吹き出してしまった。

「バカ言ってる! そんなに、あたしの事、信用出来ない?」

 利知未は、やや色っぽい目をしている。 酒の所為もあるのだが、少し倉真をからかってやろうか、とも思う。

「お前よりも、宏治だな。 随分、逞しくなってたぜ?」

「そっか。 じゃ、力任せに襲われるかも知れないって事だ。 ……有り得ないな。 だって、投げ飛ばしちゃうだろうから」

「情に絆されて、力が抜けたりしないのか?」

「…そうしたら、どうするの?」

利知未に色っぽい目で見つめられて、少し考えて答えた。

「…宏治と、殴り合うな」

「で、あたしが二人を止める訳だ。 歌でも歌う? 昔流行った ♪喧嘩を止めて、とか?」

 少しだけ、歌詞にメロディを着けて、歌ってみた。 そして、また吹き出してしまう。

「そんな事には、絶対にならないから。 安心して」

 真面目な目になって、利知未が倉真を見つめた。

「あたしには、例え、どんなに善い男が、目の前に現れたとしたって、倉真以上の相手には、ならないよ?」

「そう、願ってるよ」

「もっと、自信持って…! この間も、そう、言ったでしょ?」

 小首を傾げて倉真を見た。 倉真は、利知未を引き寄せた。

「言われた、ばっかりだったな。 ……信じてるに、決まってんだろーが」

「うん。 …ね、片付けて、ベッド、行く?」

「…そうだな。 愛情を確かめたくなった」

そっと倉真から身を離して、利知未が言った。

「じゃ、残りは冷蔵庫に入れておくね。 明日の朝、出すよ」

「そうしてくれ」

 倉真も立ち上がり、一緒に片付けてくれた。


 十二時前には、寝室へ引っ込んだ。

 思う存分、抱き合って、二人は朝まで熟睡する事が出来た。




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