第4講 神話の固有名詞の発音について――北欧編
1 導入
神話に限りませんが、外国語の単語をカタカナに直す時、訳者によって微妙に表記のしかたが異なります。
地名だと、イタリアのシラクサ、ロシアのウラジオストック、サウジアラビアのメディナは、それぞれシラクーザ、ヴラジヴォストーク、マディーナが、各国の言語に照らせばより正確な発音であると聞きます。
これはどれが正しくてどれが間違っているかを、一概には言えません。訳者の方針の問題ともとれます。
綴りとの発音のどちらを重視するかによって、正解は変わります。ギリシアのように歴史の深い地域だと、いつの時代の発音に準拠するかも問題になります。
当地の言語に照らせば間違いでも他の言語、例えば英語だと正しい場合もあります。上記のメディナがそうです。
間違いが日本語として定着し、もはや変えようとすると混乱を招くだけの例もあります。そもそも日本語に発音が無く、正確なカナ表記のしようが無いことも、です。
また、例えば英語のグローバリゼーション(globalization)は、徹底的に拘ればグロウバライゼイシャンですが……、そう書きますか?
それでも尚、表記揺れの原因に興味を持たれるかたはいると思います。
ニンフとニュンフェとニュムペー、バルキリーとワルキューレとヴァルキュリア、モーリアンとモリガンとモリグー……。なぜ同じものに何通りもの表記があるのか。
どれが正しいかを措いても、何か統一的な指針が必要な場合もあるでしょう。本連載はこれにも可能な限りお答えします。今回は北欧神話編です。
2 どの言語に依る表記か
北欧神話の固有名詞を音訳する時、ほとんどは古アイスランド語、一部は英語や独語の発音に基づいておこなわれるようです。
北欧神話はゲルマン神話とも呼ばれるように、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属する言語の話し手の祖先が伝えた神話とされます。上記3言語は全てゲルマン語派です。
古アイスランド語はエッダ(注1)が書かれた言語です。アイスランド語の中でも概ね紀元1500年以前のものをいいます。
例えば、ヴァルキュリア、ヴァルキリー、ヴァルキューレはそれぞれ古アイスランド語、英語、独語の発音です。オージン、オーディン、ヴォータンやソール、ソー、トールも同様。ただし、独語ではヴォータンをオーディン、トールをドーナルと呼ぶこともあります。
ヴァーグナーの「ニーベルングの指環」というオペラがあります。中でも「ヴァルキューレの騎行」という楽曲が有名です。あれは独語で書かれた作品で、ヴォータンが出て来る他、フリッグ、トール、フレイ、フレイヤ、ロキと思しき神々を、それぞれフリッカ、ドンナー、フロー、フライア、ローゲとしています。
独語におけるこれらの呼びかたにつき、ヴォータン以外を当方は確認できませんでした。フリッグ以下は独語で、それぞれフリック、ドーナル、フライ、フライヤ、ローキといいます。
独語でドンナーは雷、フローは喜んでいる、という意味です。ロージェ(Loge)はロッジのことですが、ローエ(Lohe)ならば炎です。
3 独語の表記揺れ
独語のヴァルキューレやヴォータンは、むしろワルキューレ、ウォータンという表現のほうがよく見かけるかも知れません。これらは、独語のwはvと発音することが日本で知られていないことに起因する誤読です。尚、独語のvは多くの場合fと読みます。
先述のヴァーグナーも、ワーグナーという表記が多く見られます。他、ウィーンはヴィーン、ワルプルギスはヴァルプルギスがより正確です。
また、古アイスランド語ではeiをエイと読みますが、独語だとアイになります。
国内で、エインヘリヤルをアインヘリヤル、ムスペルヘイムをムスペルハイムと表記しているのを見たことがあります。これらは独語に基づく表記と思われます。厳密には、独語だとそれぞれアインヘリアー、ムースペルハイムなのですが、許容範囲でしょう。
4 古アイスランド語の表記揺れ
以下、古アイスランド語(以下OI)に基づく表記揺れの原因を見ていきます。大陸には北欧神話のテキストが全く残っていないため、エッダを有するOIは非常に重要な言語なのです。
5 ザ行とダ行
北欧神話の表記揺れとして、ザ行とダ行の間のものはとても多く見られます。ヴェルザンディとヴェルダンディ、シグルズとシグルド、ミズガルズとミッドガルドなどです。
これらの多くは、OIだとザ行です。
OIには通常のラテン文字に無い文字がいくつかあります。その1つが、英語のfatherやsmoothのthの音を表すもの。英語や独語ではこの文字が無いので、dで代替します。先述のオージンがオーディンになるのもこのためです。
ザ行がダ行になる原因の多くは、古アイスランド語に特有の文字が英語などでdに置き換わり、英語の本を情報源として日本に紹介されたからと思料します。
6 fとv
シヴとシフ、ファーヴニルとファーフニル、ニヴルヘイムとニフルヘイムなどです。こちらはvがOIの発音です。
OIのfは、一定の条件の下vと読みます。独語と逆ですね。これは割と頻繁に起こります。
7 エとオ
ヘズとホズ、ニーズヘッグとニードホッグ、ラグナレクとラグナロクなど。これはいずれも正解。
独語や北欧の言語には、オを言う時のように口をすぼめた状態でエと発音する母音があります。独語だとöで表記します。
OIにはオと読む文字が2つありましたが、うち1つの読みが紀元1000年ごろを境にöに変化しました。よって、ホズなどは古い発音、ラグナレクなどは新しい発音です。
8 フェンリルとフェンリス
OIにフェンリルという表記はありますが、フェンリスはちと不味い。
フェンリスウールヴという表記は確かにあります。ウールヴは狼のこと。古い本にはよくフェンリス狼と訳出されています。が、あくまでフェンリスウールヴで1つの単語です。
――脚注――
1 エッダについては第1講の注1を参照。