第3講 そもそもケルト神話って何よ?
1 厳密なケルトの定義
今回はオセアニアから再びヨーロッパに移りまして、ケルト神話についてです。といっても今回の内容は、後に予定しているオガム文字の話をスムーズにおこなうための布石で、扱う情報も、ある程度の見当をつけて探せばインターネット上でも拾えると思います。
昨今はケルトという語をあちこちで耳にします。ケルト神話、ケルト音楽、ケルト紋様……。
ただ、中には、使用者すらその意味する所について漠然としたイメージしか持っていないのではないかと思われる場合もあります。言葉ばかりが独り歩きし、肝心のそれが指し示す対象についての認識が追い付いていない感じです。
「ケルト地方」という言葉を見たことがありますが、どこのことでしょう。ケルトは人ないし言語を指す言葉で、地名ではありません。
ケルトは古代ヨーロッパで栄えた民族の1つです。ケルトと呼んだのはギリシア人で、ローマ人はこれをガリと呼びました。
ガリはバイエルン(ドイツ南東部)やボヘミア(チェコ西部)を故地とし、西ヨーロッパの大部分に広がりました。最盛期は現在の北イタリア、フランス、ベルギー、スイス、イベリア半島、バルカン半島、トルコ、グレートブリテン、アイルランドまでを版図としました。その居住地の中でも、フランス周辺を特にガリアといいます。
一時はローマを圧迫しましたが、次第に逆転し、カエサルの遠征でガリアのほぼ全土が征服されました。
2 一般的なケルトの定義
ガリの言語をゴール語といいます。現在話し手はおらず、解読も不十分です。
ゴール語は英語、仏語、ロシア語などと同じくインド・ヨーロッパ語族(以下、印欧語族)に属します。その中でゴール語に比較的近い言語に、アイルランド語、スコットランド・ゲール語、マンクス語、ウェールズ語、コーンウォール語、ブルトン語(注1)があり、これらをひっくるめてケルト語派と呼びます。
もっとも、ゴール語とこれらの言語の間には確かに系統関係があるようですが、アイルランドやウェールズの人々とガリの間に血縁関係があったのかについては、近年疑義が呈せられていると聞きます。
スペイン北西部のガリシアもケルトの文化が残存します。ただし、ガリシア語は仏語やスペイン語と同じイタリック語派に属し、特にポルトガル語に近いとされます。
それと、かつてスコットランドに住んだピクト人に関しては今も謎に包まれており、ピクト語が印欧語族に属すか否かも不明確です。
現在は、アイルランド、ブルターニュ、ガリシアなどの人々を指してケルトと呼ぶ用例が普及し、それに対する意見も賛否双方の立場から論じられています。
またこれとは別に、ケルトをアイルランドの同義語として用いることも多いです。実質的にアイルランドにしか触れていないのに、「ケルト○○」と銘打つことは結構あります。
もちろん間違いではありません。むしろ、細かな差異を知らないはずがないかたが積極的にこの用法に依ることもあります。
例えば、イギリス・アイルランドのフォークロアの第一人者として知られる井村君江女史はアイルランド神話のみを扱う著作の書名を『ケルトの神話』とされています(注2)。また、ケルティック・ウーマンを筆頭に、アイルランド音楽のみを以てケルト音楽とする例は枚挙に暇がありません(注3)。
かく言う当方も、アイルランド神話では通じにくいと感じたときはケルト神話と呼びます。
3 ストーンヘンジとケルト
ついつい関連づけたくなりますが、ストーンヘンジはケルトが築いたものではありません。
ストーンヘンジは前1900-1500年の間に立てられました。一方、ケルトがグレートブリテンに渡ったのは、ゲール人が前7世紀以降、ブリトン人が前5世紀以降です。
その後、ゲール人はアイルランドからスコットランドとマン島へ広がり、ブリトン人はアングロ・サクソン(注4)に追われてウェールズ、コーンウォール、ブルターニュへ分散しました。
もっとも、ストーンヘンジでは現在も、毎年夏至になると各地から自称ドルイドが集まって儀式を催すとか。
4 ケルト神話の分類
ケルトという語の指す範囲が曖昧ならば、当然ケルト神話も同じです。
当方が今まで見た中で、「ケルト神話」の最も狭い意味での用法は、アイルランド神話のみを指すものです。先述の井村女史の例です。
次に狭いのは、アイルランド、ウェールズ、ガリアの神話に言及するもの。
広義は、以上3つに加え、アーサー王伝説やイギリス・アイルランドの妖精にまつわる民話も含めるものです。
最広義はこれに、スコットランドの『オシアン』を加えます。
コーンウォール、マン島、ブルターニュの神話は聞きません。ですがそもそも、上述の通りこれらの地域はアイルランドかウェールズとルーツが同じです。神話の内容も大して変わらないと思われます。
アーサー王伝説はキリスト教の騎士道物語です。また民話には当然、神様は出て来ません。これらを神話に含めるのは一見、奇妙です。もちろん、十分な理由があります。
これらはいずれも、ケルト神話の影響が濃厚だと言われています。
前者では、聖杯がアイルランド神話のダグダ(注5)の大釜に、モルガン・ル・フェがモリグーに対応するといいます。
後者では、そもそも妖精が神々の成れの果てである、と。例えば、死期が近い人の衣服を浅瀬で洗う妖精バンシーはアイルランド神話のモリグーやバズヴの後身で、ブラック・アニスという妖精の「アニス」の部分は女神ダヌの別名であるアヌが転じたものといいます。
『オシアン』については、ケルト神話かどうかではなく、真贋のほうに争いがあります。
オシアンは3世紀にいたとされるゲール人の詩人の名で、アイルランド語でオシーンといいます。
1760年代、スコットランドのジェームズ・マクファーソンという人物が、オシアンの詩の翻訳と称して発表した作品が当時のヨーロッパに大きな衝撃をもたらしたといいます。
当方もいくつかの文学でオシアンが激賞されているのを見た記憶があります。確か、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』もその1つだったはず。
ですがのちの研究で、大部分はマクファーソンの創作であることが判明したそうな。
以下アイルランド、ウェールズ、ガリアの神話を順に見ていきます。
5 広義のケルト神話
アイルランド神話は広義のケルト神話の中でも特に内容が豊かで、事実上ケルト神話を代表するものとして扱われているように感じます。
登場する事物は、神ではダグダ、ルー、モリグー、人ではク・ホリン、スカサハ、フィン・マクールなどが有名です。
アイルランド神話のテキストには『侵略の書』、『クーリーの牛争い』などがありますが、2017年3月現在、邦訳は存在しないようです。
代わりに日本で紹介されるのは、20世紀以降の作家たちによる創作が多分に加えられたリテイルです。インターネット上で「一部でルーの槍と言われるブリューナクは原典には登場しない」などの記述をしばしば見かけますが、あれなどこの過程で付け加えられたものと想像します。
当方はアイルランド神話関連の情報の大部分を上掲『ケルトの神話』に依っていますが、これには確かにブリューナクは登場しません。
ウェールズ神話は『マビノギオン』とほぼイコールです。
『マビノギオン』は、中世ウェールズの神話や伝説をいくつかの写本から選び出して英訳した書物の題で、1849年に初版が出ました。
当方はいくつもの本でウェールズ神話に関する記述をあまた見ましたが、そのほぼ全ては『マビノギオン』に書いてあります。例外は、「マナウィダンはアイルランドの海神マナナーン・マクリールに対応する」とか「グウィディオンは天空神である」とかいったものだけです。ウェールズ神話についてのテキストはこれ以外に残っていないのではないかとさえ思われます。
ケルト神話の事物で最も有名なのは、月の女神アリアンロードであろうと思います。あれは実はアイルランドではなくウェールズの女神で、『マビノギオン』にも登場します。
ガリア神話は現存しません。我々が読めるのは、カエサルの『ガリア戦記』などに見られる、ガリがどんな神々をどのように崇拝したのかに関するローマ人の記録だけです。これにはテウタテス(注6)、エポナ、ケルヌンノスなどの神々の名が挙がっています。
――脚注――
1 マンクス語はグレートブリテン島とアイルランド島の間にあるマン島の、ブルトン語はフランス北西部の半島ブルターニュの言語。コーンウォールはイングランド南西にある半島の先端。ただしいずれの言語も英語や仏語に圧倒されつつあります。アイルランド語も、アイルランド共和国で第1の公用語という位置付けですが、話者は年々減少しています。
2 筑摩書房、1990・3・27
3 他の地域の音楽も直接日本に届いています。「借りぐらしのアリエッティ」(スタジオジブリ、2010)ではブルターニュ出身のセシル・コルベルが主題歌や挿入歌を歌い、「ゲド戦記」(同、2006)と「星になった少年」(東宝ほか、2005)ではガリシアのカルロス・ヌニェスがサウンドトラックの収録に参加しました。
4 イングランドを建てた人々。ユラン半島(デンマークの大陸部分)や北ドイツから渡りました。
5 ダグザではないのか、と思われたかたもいるかも知れません。同様に、後述するモリグー、バズヴ、ク・ホリンも、それぞれモリガン、バイヴ、クーフリンなどの表記もあります。固有名詞の表記法も本連載で取り上げる予定です。
6 小惑星トータティスの語源。