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第13講 神話の固有名詞の発音について――ギリシア・ローマ編

1 導入


 第4講では北欧神話について、ラグナロクとラグナレクや、ヴァルキュリアとワルキューレといった表記揺れがなぜ起こるのかという話をしました。第2弾はギリシア・ローマ神話です。

 なぜ同じものがアフロディテになったりアプロディーテーになったりするのか。ペガソスとペガススとペガサスではどれが正しいのか。それが今回のお題です。


 例えば1つの作品に、ハルピュイア、ケンタウルス、タイタンが登場したとします。

 それぞれ古典ギリシア語、古典ラテン語、英語の読みです。古典ギリシア語に統一すればハルピュイア、ケンタウロス、ティタンです。英語だと、ハーピー、セントール、タイタン。

 バラバラでも間違いではありませんが、何だか節操ない印象です。なるべく揃えたいものです。



2 ギリシアかギリシャか


 まず手始めに、ギリシアとギリシャについて考えてみましょう。どちらが良いのか、疑問に思ったことありませんか?

 当方の見解は、日本語としてはどちらもOK、他の言語だと両方不正解、です。


 日本語としては、広辞苑とブリタニカ国際大百科事典(注1)の見出し語はギリシアになっています。一方、帝国書院の地図帳(注2)はギリシャとします。

 ギリシアと覚えたほうが、検索の際は何かと便利だと思います。しかし、一般書籍で用いられる頻度は半々です。


 彼の国をギリシアないしギリシャと呼ぶ言語は、当方の知る限り、ありません。古典ギリシア語はヘラス、現代ギリシア語はエラス、古典ラテン語はグラエキア、教会ラテン語はグレチア、英語はグリースです。ギリシアは、グラエキアに由来する呼称だそうです。



3 ギリシア語とラテン語


 先ほど古典ギリシア語、現代ギリシア語、古典ラテン語、教会ラテン語という言葉が出て来ました。それぞれ、前4世紀ごろのギリシア語、現在のギリシア共和国で用いるギリシア語、後1世紀ごろのラテン語、カトリックの典礼で現在も用いるラテン語です。以下、それぞれCG、MG、CL、MLと呼びます。


 どの言語も時代や地方によって変化します。発音も例外ではありません。

 今日我々がよく目にするギリシア語の単語はほぼ全てCGの発音に基づいてカナ表記されています。MGはβ(ベータ)をv、η(エータ)をiと読むなど、ちょっと勉強しないと想像もつかないような発音です。尚、ギリシア語にはこの他ビザンツ帝国で使われた中世ギリシア語もあるようです。

 ラテン語の入門書はほぼ全てCLを扱い、MLの存在に触れないことも多いです。ローマ神話の固有名詞は大概、時代からしてCLの発音に依拠してカナ表記されます。が、クラシック音楽のレクイエムなどはMLで歌われるので、MLの発音も知っておくと便利です。



4 長音符


 ギリシア語の表記揺れで最頻出なのが、長音符「ー」の有無です。プルトンとプルートーン、アテナとアテーナーなど。


 CGに照らせば、長音符のあるほうが正確です。

 CGは母音の長短を厳密に区別します。例えば、ε(エプシロン)は必ず短い「エ」、ω(オメガ)は長い「オー」です。

 ですが、長音の都度「ー」を補っていては、日本語としてリズムが悪いですし、紙面や容量を食います。従って、長音符を省略することが多くなっています。広辞苑もブリタニカもこの方式です。


 上記はCL、MLでも言えます。因みに、MGに母音の長短の別はありません。

 以下、本稿では原則としてCG、CL、MLでも「ー」を省きます。ただし、ムーサ、テーバイなど例外的に残す場合も僅かにあります。



5 サ行とタ行


 θ(シータ)はCGではtですが(注3)、MGでは、英語のthank(サンク)bath(バス)のthです。ラテン文字に置き換えるとthとなります。

 CGのθを音訳する場合、タ行で記すのしか見たことがありません。が、英文学にギリシア神話の人名・地名が出て来ると、英語の発音に準拠して音訳され、それでサ行が出現します。

 例えばシェイクスピアの『真夏の夜の夢』。舞台はアセンズで、シーシアスという人が治めています。アセンズはアテネの、シーシアスはテセウスの英語の発音です。テがシやセに変わっているでしょう?



6 pとf


 φ(ファイ)はCGではp(注4)、MGでfです。

 θと異なり、φはCGの音訳でもpになったりfになったりします。広辞苑とブリタニカは、θはtなのにかかわらず、φはfとします。

 pならばアプロディテ、オルペウスとするところ、fならばアフロディテ、オルフェウスです。こちらのほうがより一般的と思います。



7 イとアイ


 ι(イオタ)はCG・MG共にイです。ラテン文字だとiになり、iを英語ではアイと読むことがあります。

 ティタン、イリスがCGの、タイタン、アイリスが英語の発音です。



8 ユとイとアイ


 υ(ユプシロン)はCGでユ、MGでイと読みます。対応するラテン文字はyで、英語ではこれをイまたはアイと読みます。


 該当か所をユと表記する場合、十中八九CGに忠実な発音です。

 アイとしていれば、英語に忠実です。ヒュドラをハイドラ、キュクロプスをサイクロプスとする類です。kがsになったのは、CGのκ(カッパ)が常にkなのに対し、英語・仏語のcはe、i、yが後続するとsになるためです。

 イとする場合、英語の発音である場合もありますが、誤読の可能性もあります。ニンフは英語の発音として正確ですが、オリンポスはCGでオリュンポス、英語でオリンパスです。



9 エイとイとアイ


 ε(エプシロン)ι(イオタ)はCGでエイと読みます。これをラテン文字に置き換える時、何故かeiではなくiとします。また上述のように、iは英語ではアイとも読みます。

 ケイロンはCG、キロンはCLです。セイレンはCG、サイレンは英語です。このように表記されたのを見たことがありませんが、ケイロンは英語でカイロン、セイレンはCLでシレンです。



10 オとウとア


 ο(オミクロン)はCGでオと読みます。ラテン文字だとoではなくuです。uを英語ではアと読むことがあります。

 ペガソス、ケンタウロスはCG、ペガスス、ケンタウルスはCL、ペガサスは英語です。ケンタウロスは英語だと、最後のusが脱落してセントールです。

 ラテン語に基づく表記が見られるのは天文学くらいです。ペガススやケンタウルスは星座の名前になっています。



11 ウーとユー


 ο(オミクロン)υ(ユプシロン)はCGでウーと読みます。ラテン文字だとoyではなくuです。uを英語ではユーと読むことがあります。また、CGのほうで長音符を省いて単にウとすることも多いです。

 ムーサ、メドゥーサ(メドゥサ)はCG、ミューズ、メデューサは英語です。



12 ルが長音符に変化


 英語は母語として話される国によっても若干発音が相違します。イギリスだと、母音の直後にあり、かつ別の母音の直前でないrを発音しません。また英語では、rの前の母音は伸ばすことが多いです。

 結果、CGに準拠した表記でρ(ロー)をルとした場所が、英語に基づく表記で長音符になります。

 ゴルゴン、ハルピュイアがCG、ゴーゴン、ハーピーが英語です。ハーピーについては、ハルピュイアの最後のiaが脱落しています。



13 アイとエ


 α(アルファ)ι(イオタ)はCGでアイと読みます。ラテン文字だとaiではなくaeで、CLでアエ、MLでエと読みます。

 ギリシアの首都アテネは、ことギリシア神話ではアテナイと呼ばれます。前者がML、後者がCGの発音です。テーベとテーバイも同じ関係だと思います。

 尚アテネとテーベは、MGや英語では綴り自体の変化やθ(シータ)をthと読むなどの関係で、MGでそれぞれアシナ、シヴァ(注5)、英語でアセンズ、シーブズとなります。



14 ムとン


 これは日本語の問題です。


 鼻音(注6)は主なものにm、n、ngの3つがありますが、日本語だと鼻音は、直後に母音が無ければ全てンと認識されます。トンボ、サンマ、カンパの「ン」など、b、m、pの前の「ん」は、nではなくmの発音です。ヘボン式ローマ字ではmと綴ります。

 現在では、欧語のbなどの前のmはンと表記するのが普通です。Hamburgはハンブルク、hammerはハンマー、tempoはテンポです。

 が、どうも昔はこれらのmをムと表記していたようです。「む」は歴史的仮名遣いだと「ん」と読みますから、誤りとは言えません。ただ、テ()ポなどと書かれるとついte・mu()・poと読みそうです。


 CGでμ(ミュー)の発音はmですが、これをカナ表記する際、直後にβ(ベータ)があろうとπ(パイ)があろうと、一律にムと書くことがあります。他の言語と比べ、CGが特に多く感じます。当方が見たのは、アンブロシアをアムブロシアとした例、オリュンポスをオリュムポスとした例、ほか多数です。



15 ギリシア語の各論


 アイギスはCG、イージスは英語です。

 前述の通り、αιはCGでアイで、ラテン文字だとaeになります。英語でaeには何通りか読みかたがあり、その1つがイーです。

 CGのγ(ガンマ)がほぼ常にgなのに対し、イタリア語のgはeとiが、英語、仏語では加えてyが後続するとjになります。それでギがジになります。


 オイディプスはCG、エディプスはMLと英語です。

 ο(オミクロン)ι(イオタ)はCGではオイと読みます。ラテン文字だとoeとなり、CLではオエ、MLではエと読みます。英語でoeには何通りか読みかたがあり、その1つがエです。



16 ローマ神話


 第7講で触れたように、ローマ神話の内容はギリシア神話とほぼ同じです。

 ローマ人はギリシアの神々と自分達のそれを同一視し、例えばアフロディテをウェヌス、アレスをマルス、ゼウスをユピテルと呼びました。

 他方、元々ローマに対応するものがいない神や人間などは、ギリシア語の名をラテン語に借用します。この過程で若干発音が変化するのは、これまで見てきた通りです。すなわち、ケイロンがキロン、ペガソスがペガススです。


 ローマ固有の神の名は、英語に準拠した発音でカナ表記されることもあります。ウェヌスはヴィーナス、マルスはマーズ、ユピテルはジューピターです。それぞれ金星、火星、木星のことですが、これは惑星を神とみなした結果です。

 某少女漫画の影響か、天王星はウラヌスという呼称が知られていますが、これはCLとMLの発音です。英語ではユラナスですが、ユレイナスのほうが好まれます。また、ウラヌスはあくまでギリシア神話のウラノスをラテン語に移したもので、これと同一視されたローマの神はCLでカエルスといいます。



  ――脚注――


1 Britannica Japan Co. , Ltd / Encyclopaedia Britannica, Inc.、2007


2 新高等地図(帝国書院編集部、平成17・1・25)


3 τ(タウ)よりも破裂音の度合いが強まりますが、大きな差は無いといいます。


4 θと同様、π(パイ)よりも若干強くなります。


5 当然ながらインドの破壊神とは無関係ですし、シの発音も異なります。


6 口の中をどこかで閉じ、鼻から息が抜けることで生じる発音。

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