第9講 オリエントの神話を分類する
1 導入
このエッセイもインド、ローマ、北欧、ケルト(アイルランド、ウェールズ、ガリア)、アステカ、マヤ、ハワイと様々な神話に触れて参りました。今回はオリエント神話です。
オリエント神話はそこそこ有名です。今回の情報も、それ自体はインターネット上で見つかると思います。
ですが、オリエントは地理的にも広く、数千年の間に様々な民族が興亡しました。当然、神話も複数あります。そのため、どの人物や物語がどの神話のものなのか混乱しがちです。
今回はそれを整理するため、オリエントの神話1つ1つについて、それを語り継いだ人や国と、有名な事物を挙げます。一定量の神話を残した地域ということで、本稿はシュメール、アッカド、アッシリア、ウガリットとフェニキアとカナン、イスラエル、イラン、ヒッタイト、フリュギア、エジプトだけに触れます。
2 シュメール
チグリス川とユーフラテス川の間をメソポタミアといい、大部分は現在のイラクに位置します。両川が最も近付く場所にバグダードがあり、そこを境に、上流をアッシリア、下流をバビロニアといいます。後者は更に、北半をアッカド、南半をシュメールといいます。
シュメール人と呼ばれる人々はメソポタミア文明を最初に担ったとされます。彼らは前3千年紀、シュメールにウル、ウルク、ニップールなどの都市を築きました。
用いたシュメール語と他の言語の系統関係は不明で、現在は話者がいません。
彼らの神話はメソポタミア神話と呼ばれ、次のアッカドの神話とほぼ同一のものです。違いは、固有名詞がシュメール語とアッカド語のどちらなのかだけ、と言ってよいかも知れません。少なくとも国内の書籍では、アッカド語の呼称のほうが多用されます。
アッカド語のエアがシュメール語でエンキ、イシュタルがイナンナ、ギルガメシュがビルガメシュとなります。ただし、ニップールの守護神で嵐の神エンリルだけは、アッカド語の名前を聞きません。
3 アッカド
シュメール人の国は都市国家でしたが、アッカド帝国は領域国家です。前2350年ごろ興り、100年余り続きました。版図はメソポタミアのみならず、シリアの地中海岸に達しました。
用いられたアッカド語はアフロ・アジア語族セム語派(注1)に属し、現在は死語です。
先述の通り、アッカドの神話もシュメールの神話も、言語が異なるだけで同じメソポタミア神話です。
有名な『ギルガメシュ叙事詩』は複数の粘土板から復元された物語で、シュメール語で書かれたものもありますが、主軸はアッカド語の12枚の粘土板の記述です。
3 アッシリア
メソポタミアの上流がアッシリアです。アッシュールやニネヴェといった都市がありました。
ここに興ったアッシリア帝国は、前3000年ごろ成立し、初期はアッカド帝国や古バビロニア王国に服属しますが、やがて強国となり、メソポタミア、シリア、アナトリア(注2)南東部、エジプトを支配し、前609年まで続きました。後述のイスラエル王国を滅ぼしたのもこの国です。
用いたアッシリア語は、アッカド語の方言という位置付けです。
アッシリアはメソポタミアの一部のはずですが、メソポタミア神話の本はあまりアッシリアに触れません。
アッシュール市の同名の守護神が国家の最高神とされ、アッカドの天空神アンシャルと同一視されました。
また、同国の伝説上の女王セミラミスは、人魚の姿をした女神デルケトーの娘だという話があります。名前がいかにもギリシア語っぽいですから、実際にアッシリアに伝わっていたのか謎です。
4 ウガリット、フェニキア、カナン
ウガリットはシリア北部にある遺跡と、その周囲に前1200年ごろまであった国の名です。
フェニキアは現在のレバノンとほぼ一致します。
カナンは現在のイスラエルとヨルダン付近の、旧約聖書における呼称です。「ペリシテ人の地」(注3)という意味でパレスチナともいいます。
この3地域は一言でいえば、「西アジアの地中海岸」です。
ここで話された諸言語は全てセム語派に属します。
ここの神話は、ウガリット神話、フェニキア神話、カナン神話などと呼ばれますが、内容は同じです。バール、アスタルテ、ダガンなどの神々が登場します。これらが旧約聖書に名前の見えるバアル、アシタロテ、ダゴンのことで、キリスト教では悪魔とされました。
5 イスラエル
イスラエル人は前13世紀にモーセに従ってパレスチナに入り、前1020年ごろ王国を建てます。間もなく南北に分かれ、北はアッシリア帝国に、南は新バビロニア王国により滅亡しました。
以後、イスラエル人は世界各地に離散しました。これをディアスポラと言います(注4)。以後もアイデンティティや宗教を保ち続け、19世紀よりユダヤ人国家の形成を目ざす機運が高まり(シオニズム)、1948年パレスチナにイスラエル国が成立しました。
用いたヘブライ語はセム語派に属し、現在は同国の国語です。
旧約聖書はユダヤ教の聖典です(注5)が、神話的な記述も豊富です。エデンの園、ノアの箱舟、バベルの塔、ソドムとゴモラは「創世記」、モーセが紅海を割り十戒を授かるのは「出エジプト記」、ソロモン王は「列王記上」です。
当然ながら、本稿とは違い創作の資料ではありませんから、1つ1つの天使やモンスターについて事典的な解説はしません。
リリト、ベヘモット、レビヤタン(それぞれ英語でリリス、ビヒーモス、リヴァイアサン)は名前くらい出て来ますが、意訳されていますし、アダムの最初の妻とか雌雄一対で片方が殺されたとかいう記述はありません。メタトロン、ゴーレム、アスモデウスなどは全く言及されません。
7 イラン
現在のイランの公用語はペルシア語ですが、これが何と同地でアケメネス朝の時代から、つまり前6世紀から用いられました。インド・ヨーロッパ語族(以下、印欧語族)イラン語派(注6)に属します。
イランは「アーリア人の国」という意味です。アーリア人は広義には印欧語族の使い手全体をいいますが、普通は中央アジアからインドやイランへ進出した人々を指します。実際、イラン語派とインド語派の最古のものは互いに酷似するそうです。
ここに興った王朝は概して強力で、全オリエントを席巻したり、ローマ帝国と拮抗したりしています。
元々ミスラ、アナーヒターなどを奉じる多神教の民族宗教がありましたが、前7-6世紀の人とされるザラスシュトラ(注7)がアフラ・マズダ(注8)のみを奉じる一神教を創始し、それがゾロアスター教となりました。しかし民衆に深く根付いていた神々を排除し切れず、アフラ・マズダに仕える陪神として認めました。
ゾロアスター教はイランの歴代王朝で国教とされました。神官をマグといい、これがラテン語のマギや英語のmagicの語源になりました。
ササン朝がアラブ人に滅ぼされたのちイランはイスラーム化し、現在はシーア派の十二イマーム派を国教とします。
ゾロアスター教は消滅した訳ではなく、信徒はインドに逃れ、現在もムンバイなどに住み、パールシーと呼ばれます。
イラン神話のテキストとしては『シャー・ナーメ』が不動の地位にあります。成立したのは11世紀で、ササン朝までの歴代の王や、フェリドゥーン、ロスタムなどの英雄の事績を歌います。
8 ヒッタイト
ヒッタイト帝国は前1800-1190年ごろ、アナトリアを治めた国です。シリアにも進出し、これを巡ってエジプトと争いました。鉄製武器やチャリオットを駆使し、オリエント随一の軍事力を誇ったといいます。
元々ヒッタイトは旧約聖書に出て来る民族の名(日本語訳ではヘテ人)で、彼らがこの帝国を担ったのだろうということでヒッタイトと名付けられました。
用いられたヒッタイト語は印欧語族に属し、現在は死語です。
ヒッタイトの神話には彼らの固有の神々だけでなく、メソポタミアのアヌやエアも登場します。
有名どころはアヌ、クマルビ、テシュブという3代に渡る主神の交代劇で、これがギリシア神話のウラノス、クロノス、ゼウスの話に影響を与えたといいます。
また、テレビゲームでたまに見かけるイルヤンカシュという竜はヒッタイト神話の出身です。
9 フリュギア
フリュギアは地名としてアナトリアの中央よりもやや西をいいます。前1100年ごろから前6世紀にかけここにフリュギア王国が存在しました。
これを担った人々は、一説には「海の民」(注9)と共にヒッタイトの滅亡に加担したともいいます。
フリュギア語は印欧語族に属する死語です。
キュベレという地母神が有名で、これがローマに伝わり熱狂的に信仰されました。
10 エジプト
エジプトには前3000年ごろ統一国家が現れ、以後30の王朝が興亡しました。前7世紀以後、アッシリア帝国、アケメネス朝ペルシア、マケドニア帝国、ローマ帝国と時の世界帝国の版図に入ります。
その後ムスリムが征服しイスラーム化しましたが、人口の約1割はキリスト教徒です。
古代エジプトの言語は時代により異なりますが、古代エジプト語と総称され、全てアフロ・アジア語族エジプト語派に属します。エジプト語派の言語は現在、コプト語が同国のキリスト教の典礼で用いられるだけです。エジプトでは現在、日常語としてはアラビア語が使われます。
エジプト神話といえばオシリス、イシス、セト、アヌビス、トトなどの神々が非常に有名です。
これらは早い段階からギリシアやローマに伝わりました。1世紀ギリシアのプルタルコスの手になる『倫理論集』でも、オシリス神話が詳しく述べられています(注10)。
語感から予想がつくように上記の名はギリシアなどにおけるものらしく、例えば古代エジプト語でオシリスはウシル、イシスはアセトといいます。
日本では近時、猫の頭を持つ女神バステトの人気が異様に高まっているようです。
――脚注――
1 アフロ・アジア語族は西アジアと北アフリカで使われる言語から成ります。昔は、そのうちセム語派以外を全てハム語派とし、ハム・セム語族と呼びました。セム語派の言語は本文で触れるものの他、アラビア語、アムハラ語(エチオピアの公用語)があります。
2 西アジアから地中海に突き出した半島。現在のトルコ。小アジアとも。
3 ペリシテ人は旧約聖書で、カナンの先住民族として登場します。
4 日本に到達したものが秦氏になっただの、皇室の祖先になっただのという主張もあります。興味があれば「日ユ同祖論」をお調べください。
5 旧約聖書はキリスト教から見た呼称です。収録された書物は律法(トーラー。モーセ五書に同じ)、予言書(ネビーイーム)、諸書(ケスービーム)に大別されますが、ヘブライ語ではこれらをまとめて1つの単語では呼ばないようです。この他タルムードという聖典もあります。
6 ペルシア語の他、アフガニスタンのパシュトー語、タジキスタンのタジク語などが属します。
7 独語でツァラトゥストラ、英語でゾロアスター。
8 ミスラはインドのミトラ、アナーヒターはサラスヴァティー、アフラ・マズダはヴァルナに相当します。またミスラとミトラについては、太陽神ミトラスとしてローマに伝わりクリスマスは本来彼の復活の祭りだとか、弥勒菩薩のサンスクリット語名であるマイトレーヤはその別名だなどと言われます。
9 前1200年ごろ地中海沿岸を荒らし回った人々。ウガリットやヒッタイト帝国を滅ぼし、エジプトにも打撃を与えました。様々な人々から成り、中にはギリシア人もいたといいます。ペリシテ人もその一派だったとか。
10 該当部分だけを抜き出した邦訳があります。『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(柳沼重剛・訳、岩波書店、1996・2・16)。




