(タイトル募集中)
ほんの数週間前のことだ。私は日課の朝の散歩の途中で、かの有名な森蘭丸を拾った。
これは彼自身が名乗ったのだから、ただの戦国かぶれの狂人である可能性も否定はできないが……私は彼を森蘭丸その人だと信じた。
何しろ私が見つけた時、彼は甲冑を身につけていた。写真などでよく見る『南無阿弥陀』の前立てを飾ったものではなく、ごく質素で実用本位としか思えない地味な甲冑を。
なるほど、確かに狭い平屋内をさばいて回るにはこちらの方が実用だ。何よりも気のつく男であったという逸話の多い彼だからこの甲冑の質素さこそが妙に説得力がある。
彼は体に何箇所かの刀傷を受け、瀕死の状態であった。私はこれを連れて帰り、手厚い看病の甲斐あって言葉を話せるほどに回復したのだが……彼は甲冑名前の他には自分の素性一切を失念していた。
今日も私は彼の記憶に記憶のかけらでも戻らぬかと、祈るような気持ちで寝室のドアを開ける。
彼はベッドに身を起こして、レースのカーテン越しに射す光を目を細めて浴びていた。私を見れば、その顔をこちらに向けて柔和に微笑む。
「ああ、薬の時間ですか?」
この柔らかな物言い、これこそが彼を後世まで『美青年だった』と言わしめているものなのではなかろうか。
私は椅子をベッドのそばに引き寄せ、何気ない様子でそこに座った。
「いやあ、気晴らしに雑談でもと思ってね、どうだい、記憶は戻りそう?」
「いいえ、まだ全然。申し訳ないことです」
「ああ、いいよいいよ、そんな恐縮しないで」
「しかし、寝具をいつまでもお借りしていては……」
「別に、あっちの部屋に予備の布団があるし、大丈夫大丈夫」
彼は両手を合わせ、こちらを拝むような仕草を見せた。
私は苦笑いしながらそれを押し返す。
「いや、そういう大げさなの、いらないから」
そんな私の手を、彼の繊細な指先が捉えて包み込んだ。引き寄せられて……私の人差し指の先に彼の唇が触れる。
「ああ、あなたは私の『大切な人』によく似ておられる」
彼の吐息に、指の先がジンと熱くなる。彼の言葉に含まれるわずかな違和感に、私の心臓がドクンとはねた。
「大切な人? 記憶が?」
「いいえ、どこの誰かも思い出せない、ただ、生涯この身を捧げてもと思うほど誰かを愛した、その感覚だけが記憶さえ失った今も消せずにくすぶり続けている……おかしいですかね、こんなの」
「いや、おかしくはないと思うよ、愛する心は本能だから、記憶とは違うどこかに刻まれているんだろう」
「ふふ、その説得力のある声も、本当によく似ている」
「君さ、君が大切だと思うその人って、織田信長って名前なんじゃないのかい?」
彼は私の手を離し、心底不思議そうに大きく首をかしげた。
「誰です、それ」
「ええ、知らないかな、有名な武将でさ……」
言いかけて、彼がその武将と同じ時代を生きていた過去人なのだと思い出す。だから言葉を選びなおして。
「尾張国の殿様でさ……」
ここで私は言葉に困ってしまう。かの武将の多くの偉業を知ってはいても、それは今現在の記録に残る『過去』であって、その過去の中を生きていた彼に語ったところで彼にとっては『未来』でしかない。
きっと理解できないだろう。
言葉に困った私は、逆に彼に問うた。
「その、君の大事な人って、どんな人だったんだ?」
「そうですね、とても大切にされたことを覚えています。記憶ではなく、カラダが覚えているんです」
艶びた微笑みに口元を緩めた彼は美しい。いや、妖艶だと例えるべきか。
「このカラダの隅々、どこ一つ余すことなく、彼の指が触れなかったところはありません。かの人はいつだって、情熱的で繊細な指で私に触れた……そんなことばかり覚えている私を、ふしだらだと嗤いますか?」
「そんな、ふしだらなんて!」
熱い欲情は唾液となって口中を流れ、私は音を立ててそれを飲み下さねばならなかった。
聞かれなかっただろうか、喉仏のあたりで少し引っかかり、ゴクリと鳴った卑猥な音を……
恐れながら顔を上げると、彼は何事もなかったかのようににこやかに笑っている。
「どうなされました?」
「い、いや、別に」
私は椅子から腰を上げ、ベッドの端に坐り直す。少しでも彼の近くへ……
彼の体温が甘く香る。
「他には、何か覚えていないのかい?」
「そうですね、とても繊細な方でした。気難しいほどに繊細……だから、彼の方の本当の心を知るものはそうは多くはおりますまい」
「なんか、友達少なそうだね」
「そんなことはありません。情に篤く、理路と正義を重んじる方でしたし、その心根にふさわしく優秀な方でしたので、これを慕ってくる者も多くいました。でも、ですね、ちょっと言葉足らずなところがあって……それ故に誤解されることも多かったのですよ」
「そんな奴に、私が似ていると?」
「ええ、とても良く似ているのだと思います。だからこんなに……」
「こんなに?」
彼が布団をはねのけ、私にしがみつく。そして大声で泣きだした。
「これは、罰なのでしょうか、あの炎の中で、彼の方は私を生かすことを神仏に祈った。だからこそ私はここにいるのでしょう。なのに……なのに……私は……」
「何を願ったんだい?」
「死んでも……例えこの身が燃え尽きようとも彼の人と一緒にありたいと……彼の人の死を願ってしまったのです」
それは甘美なる愛ゆえの罪状……私の身の内に嫉妬の炎がめらりと燃え上がる。
気がつくと、私は彼をベッドに引き倒し、その可憐な唇を奪っていた。
「な、何を!」
私の体を押し返すその手、その感覚に、私は確かに覚えがある。そして、身を焼く嫉妬の炎の熱さにも。
「ここにきて拒むとは、相変わらずの小悪魔め」
不敵な笑いを浮かべ、彼のうなじに唇を這わせる。彼は少しばかり悶えながらも、私の唇を拒みはしなかった。
ただ、掠れる声で私の名を呼ぶ。
「信長……さま……」
そうだ、この声だ。この声で、いつだって彼は私を呼ぶ。
「お蘭よ、これは神仏が我が願いを聞き届けた……いや、違うな、第六天魔王の願いを聞き届けようなどという物好きな神仏は居らんだろう」
私は布団に身を沈め、彼が逃れられないように足を絡めた。
「そうだな、この願いを聞き届けてくれた者があるとすれば、魔神と謳われた俺自身か」
私が布団に沈めた彼は両手で顔を覆って泣いていた。
「ああ、やはり……やはり……最初にお会いした時から、そうではないかと……」
「お蘭、お前もなかなか策士だな、本当は記憶など、とっくの昔に快復しているのだろう?」
「やはり、気づいて居られましたか」
「この俺を謀った罪、たっぷりとその体に刻みつけてやろうぞ」
懐かしい体に口づけを落として、私は彼のシャツに手をかける。
彼が少しだけ震えているのは決して恐怖などではなく……