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部屋の中は本当に静かでした。いつもはお父さんやお母さんの足音、台所の音、水の音などが聞こえてくるのですが、もしかしたら、マンション全部の人たちがいなくなってしまったのではないか、と思えるほどに静かでした。少し心細くなってきたまゆは、ぎゅうっと掛け布団を引き上げて、頭の上まで持ってきました。真っ暗な布団の中、まゆの耳だけがしっかりと働いています。
「にゃあうう」
猫の声が聞こえました。5階に猫が来ることなんてありえません。でも、くろちゃんだといいな、とまゆは思い、目をぎゅっとつぶりました。眠たくないのに眠るということがとてもむずかしく感じられました。
「にゃあうう」
また猫の声。
そして、お腹の上に衝撃を感じたまゆの顔の前にくろちゃんがにゅうっと現れたのです。くろちゃんはざらざらの舌でまゆのあごをなめた後、「にゃ」と鳴きました。
「一週間も来ないから心配したんじゃが、大丈夫な様じゃなぁ」
ゆらりと黒い影がベッド脇に立ったすぐ後に、いつものミサさんの声が聞こえてきました。
「まったく人間は弱っちぃのぅ」
そう言いながら、まゆの枕元に立ったミサさんは、にーっと赤いくちびるを横に引き、ほほえんでいました。そして、その肩には大きな茶色のカバンが下げられていました。ミサさんはそのカバンをガシャリと言わせ、まゆのベッドに乗せました。
「まゆは、かぜか?」
「なら……」とカバンに手を突っ込むと、ミサさんは一つのビンを取り出していました。
「これを飲めばすぐに良くなる」
きっとミサさんの薬を飲めば本当にすぐに良くなるのでしょう。しかし、まゆはそのビンを受け取りませんでした。
「まったく困った子じゃわ」
そして、ベッドに腰をかけてくろちゃんを乗せたミサさんは、遠くを見たまま、まゆに質問を始めました。
「学校に行きたくないんじゃな?」
まゆはミサさんを見つめたまま小さくうなづきます。
「あのいやな奴らか?」
同じくうなづくまゆに、ミサさんが続けます。
「私が殺してやろうか?」
「だめ」
まゆは突然の提案に思わず叫んでいました。ミサさんが笑います。
「じゃあ、まゆをそんな風にしたあの先生か?」
「ちがうよ。殺したらだめ」
今度はまゆの顔をじっと見つめて、ミサさんが最後の質問をしました。
「じゃあ、まゆはいったい何が嫌でここに閉じこもってるんだい?」
まゆは答えられません。何が嫌か。それは、怖いからです。一条さんみたいにからかわれるのも、毎日頑張っている指編みを解かれるのも、まゆの場合、図書室で借りた本や、国語の教科書がゴミ箱に入ってしまうことが。
まゆの瞳の奥を見つめたミサさんは、ぱちん、と指を鳴らしました。
「まゆでも使えるいい武器をあげよう」
そこには白い毛糸玉が浮かんでいました。
「まゆには白が似合いそうじゃからな」
ミサさんは笑っていません。そして、さらに言葉を付け足します。
「まゆ、人間は弱い。じゃがな、何人も束になるとな、おそろしい力を生むこととなる。まゆは、私のようになりたいと言っていたが、きっと、偉大な魔女になる方が性に合ってる」
まゆは、ミサさんの顔をじっと見たままでした。
「まゆ、いいかい。私にはその呪文は分からんが、まゆは知っているはずだ。私はすぐそばで見ててやるからな。全くお前は変なもんばかり連れてくる」
にやぁと笑ったミサさんがすっと立ち上がると、くろちゃんがぴょこんと床に飛び降りました。そして、ミサさんの顔を見て、「にゃ」と鳴きます。
「一つ訂正じゃ。サンタクロースは妖精じゃからな。信じてやらんと現れられん。まゆは信じてやれ」
そう言うと、ミサさんはベッド脇に座ってにやりとしました。
「さぁ、おやすみ」
まゆにそう言ったミサさんの手がまゆのおでこにあてられます。ひんやりと冷たい手が心地よくて、まゆもにっこりほほえみました。すると、あれだけ眠たくなかったはずなのに、目がどんどん閉じられて、すっかり夢の中に入ってしました。
夢の中でミサさんはカラスに身を変え、空を飛んでいました。まゆが「ミサさーん」と叫びますが、ミサさんは「カー」と鳴くだけで戻って来ませんでした。
お母さんの「ただいま」の声に目を覚ましたまゆの枕元には、薬のビンと、白い毛糸玉が置いてありました。