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まゆはランドセルをがちゃがちゃ言わせながら、走っていました。そして、商店街の路地をそっと抜けて、細い小道に出ると、目の前にある木の扉を開きました。そこの両方の壁にはたくさんの小ビンが並んでいて、その突き当り、その奥だけがほんのりオレンジ色に染まっています。
「……」
開けたものの、うす暗い店内に向かって何を言えばいいのかが分からないまままゆが立っていると、はっきりした声がそのオレンジの明かりの奥から聞こえてきます。
「かぎっ子か。いいかげん、あいさつくらいしたらどうかね?」
まゆはその言葉づかいとは、ちぐはぐな若い声を聞いて、ほっと微笑みました。ミサさんです。ミサさんはまゆのお母さんよりも少し若いくらいに見えますが、その年齢は1154才というとんでもないものでした。そのためか、言葉づかいは、物語に出て来るようなおばあちゃんのようなものでした。そして世界一の魔女らしいのです。
「ねこはここにいるよ」
そう言われ、まゆはまるで猫になったかのように足音をしのばせながら、ミサさんの足下で眠る黒猫のそばにしゃがみました。黒猫はまゆを眩しそうに眺めると、また再び眠り続けます。そして、いつもその頭を静かになでてやるのです。
艶やかな黒い毛並みを撫でている手は温かく、まゆはとても幸せな気持ちになります。
そして、ミサさんはまゆにいろんな匂いの詰まったお茶を出してくれ、そのお茶を飲み終わるまで図鑑のような分厚い本をずっと眺めているのです。その間にまゆも宿題を終わらせます。宿題が分からなくてまゆが止まっていると、ミサさんはまゆを気にして眺めているようでしたが、声は絶対にかけてきません。ミサさんが声をかけて来るのは決まって最後。まゆが帰らなければならない時間でした。
「飲んだら帰りな」
ミサさんがそう言うと、まゆは素直に帰ります。ミサさんがそう言うと、帰らなければならないのです。そうして、まゆが帰ると、お母さんかお父さんが帰ってくるのです。まるで帰ってくる時間を知っていたかのようでした。
まゆのお父さん、お母さんは二人とも働いていて、うちにはいません。小さい頃は学童くらぶにも通っていたまゆでしたが、三年生になった頃から行かなくなりました。仲よしのお友だちはみんな塾に行ってしまうし、おしゃべりが得意でないまゆは、一人でいることが多かったからです。お母さんもそのことをよく知っていたので、まゆは「かぎっ子」という者になりました。
この「かぎっ子」という言葉もミサさんがまゆに付けたものでした。
まゆがミサさんに会ったのは、夏休みが終わってすぐのあつい秋でした。帰っても宿題くらいしかすることのないまゆは、ぼんやりとゆっくりと歩いていました。一人で帰るということもなれると大したことではありません。空にある雲を見て、雲の物語を作ったり、アスファルトのかけらをけってみたり、外で昼寝をしている犬をなでてみたり。もちろん、吠える犬には近付きません。そして、ミサさんの黒猫に出会い、その後を追いかけたのです。
それはまゆにとって特別なことではありませんでした。
ミサさんの猫には最初名前がありませんでした。ミサさんは「ねこ」と呼ぶので、それが名前なのかと思ったこともありましたが、そうではないようです。そして、ミサさんの猫だと思っていたその猫が実は、ミサさんの猫ではなかったことに、まゆはもっとびっくりしてしまいました。だから、まゆは黒猫のことをくろちゃん、と勝手に呼んでいます。
くろちゃんはへいの上をしっぽを立てて歩いていました。そして、付いて来ているまゆに気付いても、まったく気に留めることもなく、ずんずん歩いていきました。その上、くろちゃんはまゆが付いてこれるような道ばかりを選んで歩いているようでした。猫を追いかけている時はいつも置いて行かれるのですが、くろちゃんは全くまゆを置いて行こうとしませんでした。
そして、くろちゃんは商店街の魚屋さんでしらすをもらい、路地を通り、あの木の扉の前で「にゃあ」と鳴いたのです。ミサさんが扉を開けた時に、まゆはちょうどその目の前にいることになりました。
「変なもの連れて来たもんだねぇ」
ミサさんは、まゆを見下ろし、困った顔でため息を付いていました。
それから毎日、学校のある日はミサさんの家に帰ることにしているのです。
ミサさんの家の玄関先には、まゆの家にはないような葉っぱがたくさん植えてあり、ミサさんはそれを薬草だと言いました。「ゲームみたい」とまゆが目をキラキラさせて言うと、ミサさんは恥ずかしそうに笑って、「これはおなかの調子が悪い時に飲むと良い。こっちは風邪のひき始めなんかによくきくんだ」と教えてくれました。まゆはうれしくて、一つずつ名前を尋ねて覚えていきました。それに、薬草の話をしている時のミサさんは楽しそうでした。