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#1

 私はただダウンライトの橙の光に照らされている、カウンターに立てられたスプーンを狂ったように見つめていた。周りの誰もその行為に大して気にも掛けなかっただろうし(たと)えふと気になったとしても狂人が妙な事をしているな程度の事でやはり直ぐに興味をなくすであろうが正に私は狂人であった。光を反射するスプーンの何処が気になったのかは当の本人の私ですら既に定かではないが間違いなくその"光を反射しているスプーン"がひどく綺麗に見えて仕方なかったのだろう。フォークでもグラスでも光を反射するものならば何れでも良かったのかもしれないがその時目に留まったのが偶々スプーンであった。スプーンをじっと見ていたらそれでなければいけないような気がしてきて、スプーンの掬うための歪みがこの世界全てを歪ませているのだと錯覚してしまうほどだった。終わりも唐突なもので不意に心の中からスプーンがスッと居なくなって何故スプーンを見ていたのか分からなくなり綺麗だと思っていた心も風に吹かれるままに何処へといってしまったのである。すると今度はアイス珈琲を飲み終えた後のグラスの中で溶け始めている氷が無性に気になり始め、それをじっと見ておこうと思った時に限って電話がかかってくるものだから、電話に出ると「すいません間違いました」と若い声が言い電話を切るものだから、嗚呼ハイハイと既に途切れた言葉に返答して、すっかり気分が流されて遂には私は喫茶店を出ることにした。紅茶一杯でこんなにも長く居座って良かったものだろうかと時計を見るとまだ一時間も経っておらず丁度良い暇潰しとなっていたので私としてはまぁいいやと軽く考える事にした。六百円を渡して主人がお釣りの四十円を渡してそれを受け取るとそそくさと外に出た。

 湿った空気と暑苦しい日差しが照してくる夏はやはり嫌いだと呟き歩いた。どうにも躰にまとわりついて離れない。外は相変わらず伽藍堂のように沈黙していて人などだぁれも居ないようなので今此処が夢であるのか(うつつ)であるのか判らなくなり私には認識の境界線すらも夏の日照りが溶かしてしまったのではなかろうかと感じられた。ジリジリと焼き付けるコンクリートの上に一人立ち竦む私を遠くから三匹の猫がじぃっと睨んでいるが彼らが見飽きるころには私は元の街へと帰っているのでそう思うとやはり現なのだろうが彼ら即ちこの世界の住人が現実のもののようには思えないのである。私が初めて迷い込んでから幾度か此処へ来ることがあったがその思いは頭から離れることはない。彼奴らの視線から足早に歩き去ると私の頭の中に突如として初めてここに来た際のことが思い出された。

 夏の賑わいに中てられて持病の頭痛がひどくなり意識も定かでないまま喧噪を彷徨っていた私は半ば当然のように祭りの蚊帳の外へと足が向いていていつの間にやら見慣れた街とは全く異なる世界へと辿りついていた。祭囃子も遠くから聞こえるばかりで殆ど音を成さなかった。辺りから沸き立つ様々な無音はこの場所を特に神聖なものにしており永遠に流れる時間の中から此処を切り離さんとしている。しかしこの幻想の内側にも現があった。暗がりの中ぽつりと佇む一軒の店から漏れ出している一筋の淡い明りにまるで小虫のように吸い寄せられ私はガラス越しにそぉーっと店内を覗いた。テーブル席など無く数席のカウンター席があるだけで人の気配など全く感じられずそれでいてしっかりと店内に明かりはついており珈琲のものと思われる独特のいい香りが外までも漂っている。祭りの熱気に当てられた私はこの店に入ってみようかなという気がほんの少ししてきた。どうしようかと判断に困っていたところ店の奥の扉から主人と(おぼ)しき人が出てきたので思い切って入ってみようと心に決め店の扉を開けた。「今晩は。」声を掛けると主人は驚いたようで此方へ素早く顔を向けたがその顔に私は酷く狼狽した。主人の顔は全て狐面に覆われており表情はおろか感情も感じることは不可能であった。私はこれまでの人生において狐面を被っている人を初めて見たしまたお面を被ったまま接客する人に会うことも初めてであったのだから驚くのは無理なかったと思っている。しかし私と同じくらいに主人も驚いたようで接客するのも忘れただ立ちすくんでいた。店内で立ちすくむ二人の姿はあまりにも滑稽であったが先に動き出したのはやはり店主の方であった。長い沈黙の後「今晩は」と店主は遅い返答をしてカウンターへと数歩歩くと手動の珈琲ミルを手に取り私に対して座るように促した。私は一言も発せずに一番奥の席に座りカウンターテーブルのほうを向いたまま顔を上げられなかった。気恥ずかしさからだろうかはたまた奇妙さからだろうか。当時の私ですら分からないのだが間違いなく言えるのはこの時少なからずこの店の主人に対して警戒心を抱いていたということだ。主人も私と同じように私のことが気になるようで何度もこちらを瞥見しては私が主人の方を見る素振りを見せると珈琲ミルに視線を戻すといった様子だった。主人が珈琲豆をごぉりごぉりと挽く音だけが(だんま)りを決め込んだ二人の間に流れ沈黙の中で妙に大きく鳴り響き私の耳に焼き付くようで実際このとき主人がどのくらいの速さでミルを挽いていたか主人はどのくらいの頻度で手を止めていたか主人の珈琲豆を挽く音はどのくらいの高さであったか思い出せる程に珈琲を挽く音だけが店内を支配していたのである。暫くして主人が珈琲豆を挽き終えると一瞬ではあったが我々の間には今度こそ耐え難い沈黙が落ちた。主人はそこから珈琲を淹れることで逃げだしたが私はと言えばただ顔を下げているだけで逃げることも出来ずなんだか申し訳ない気持ちが込み上げてきた。主人が珈琲を淹れ始めると店の中に果実的な酸っぱさを含んだ深々とした薫りが溢れ私は「えっ」と声を上げ驚いた。普段缶珈琲しか飲まない私にとっては嗅いだことのない珈琲の薫りであったのだ。思わず主人に目をやると丁度狐面の下に隠された目と合った気がした。主人は狐面の下でくつくつと笑いそして珈琲を淹れながら「この店は初めてですか」と私に問いかけた。

この作品は高校の文芸紙に掲載したものです。

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