狐と葡萄
夜の8時を回っていた。
「…終わらないね」
「終わりませんねぇ」
クラスティと高山三佐は、ギルドキャッスルの執務室で書類の山に埋もれていた。
ゴブリン族の城〈七つ滝城塞〉へと侵攻に出掛ける前に前倒しでしている仕事がやってもやっても終わらないのだ。
「留守中の決定権は誰に委任するか、決まったのですか?」
「シロエ君と相談して、〈円卓会議〉に委任することになったよ。そのほうが、他のメンバーも考える機会があっていいだろう、とね」
もともと、クラスティが議長として立てられているのは形式的なものだった。だがしかしイースタルと通商条約を取り結んだ今となっては、〈円卓会議〉にかけなくてはならない案件も増えた。会議にかけた上で最終的にクラスティが決定事項を記した書類に目を通し、万全を期した上でサインをするのが慣例となってきていた。
元の世界でどんな仕事をしていたのかはいまだに謎だが、クラスティの判断力と事務処理能力は高く、シロエと双璧をなしていた。
「うーん…あと少しで一区切りでしょうかね」
「ええ。一時間くらいかと」
「いったんお茶でも入れましょうか」
そう言うと、クラスティは立ち上がって執務室の隣に備え付けられた給湯室に消えた。
(トークン、ですか)
高山はすぐにそんな風に考える自分も困ったものだと思った。
保育園の仕事に携わっていた頃、教育心理学は必須だった。その中で"オペラント条件"という概念がある。
望ましい行動(保育園ならきちんとお昼寝をしたり、砂場で遊んだあとには手を洗うといった行動)をすることができた場合、"トークン(代用通貨)"を与えることによって、「次もこの"トークン"をもらえるよう頑張ろう」と自発的な行動をうながす手法である。
保育園の園児に対しては"がんばりましたシール"などが使われる事が多い。一般企業の場合は一ヶ月間休まずに皆勤した場合にQUOカードを渡したり、壁に貼り出した社員全員の一覧表に"皆勤賞シール"を貼り付けたりする手法があると聞く。
(まあ、書類作成が苦手な営業マンがちょくちょくスイーツを事務職の女の子達に差し入れて、交通費の精算の伝票を作るのを手伝ってもらう、とか。そういうのですよね)
おやつも、"トークン"として有効なもののひとつだった。
「カラシン君から差し入れでね。秋葉原洋菓子店のシフォンケーキだそうだ」
しばらくして銀盆を片手に戻ったクラスティは、高山の前にケーキを載せた白磁の皿と紙ナプキン、フォークを手際よく並べ、湯気の立っているティーカップを置いた。
「すみません、ありがとうございます」
「いや、いつも手伝ってもらっているからね。助かっているんだよ。ありがとう」
やっぱり、彼はよく時宜をわきまえて"トークン"を使っている、と高山は思った。
もちろん、人としての気遣いは素直に嬉しい。ありがたいとも思う。クラスティにもあんがい優しいところがあるのだ、と解釈したくもなる。
だが、日々側近のように共に過ごす時間が長いと、クラスティがさまざまな相手に対して有形無形の"トークン"を駆使する姿を見る機会が多くなってしまうのだ。
そうなってみると、クラスティの行動の意味の解釈は非常にむずかしくなった。いつも"トークン"を使っているわけではないこともわかるからだ。
高山は、ケーキの意味を考えることを放棄した。差し入れがあり、その数が多かったのでたまたま自分にまで回ってきたのだと思うことにする。
間違った解答を出すのはクラスティにとって迷惑だろうと思ったからだ。それならば、素直に感謝するのが最良の選択と思われた。
「甘さが控えめでいいですね」
「そうですね。ふわっと軽くて、何個でも食べられそうです」
クラスティと高山はシフォンケーキを一口食べて、その味わいについて感想を述べあった。
「まだありますが、おかわりしますか?」
「いえ!そこまでは結構です」
ケーキのおかわりを固辞する高山を見て、クラスティは茜色の目を細めてくすりと笑った。
その表情は、いたずら坊主のようだ。
(…困った人ですね)
高山は思った。
たまに、彼は人を試すようなことをする。試薬を使って化合物の反応を見るように。
まだこの人は遊んでくれるのだろうか、と、こちらの様子を見つめてくる子供に近いのかもしれない、と思った。
高山は、クラスティの人心掌握術は非常に洗練されていてバランスが良いと評価していた。相手につけこむ、といった下卑たところはない。かなり先まで見通して、互いの利害や心情を勘案し、これならば納得しやすいだろう、というラインまで持ち込むのが上手いと思う。
それは、よくある「相手を自分の思い通りに操作する」たぐいの手法ではなかった。かなりドライに「納得の上で共存共栄する手段を追及する」姿勢を貫いている。その潔さは賞賛に値する、と思う。だからこそ、〈D・D・D〉はここまで大きくなることができたのだろう。
(とはいえ…自分よりもはるかに演算能力が高い人というのは)
恐ろしい、と思う。
機知に富んだ会話は興味深く、軽妙にからかったりユーモアのある話をしたかと思えば、急に哲学的な話をしたりすることもある。
その面白さに惹かれ、夢中になって話しているうちに、いつの間にか"この人に評価されたい"という気分になり、〈D・D・D〉の運営にのめりこむようになってしまうのだ。
「高山女史。だいぶ疲れているようだが、大丈夫かい?」
クラスティの声で、高山は現実に引き戻された。
「ええ。大丈夫です」
甘いものを食べて、淡い眠気を感じながら高山は返事をした。
「ここのところ、忙しい日が続いたからね。ようやく明日はオフになるし…あと少しだね」
クラスティは盆に皿とカップを戻すと大きく伸びをした。
「皆で温泉にでも行ければいいんですが…人数が多すぎて無理ですしね」
高山は、昔もっと〈D・D・D〉が小さかった頃を思い出して言った。
「ああ。〈クサツ・スプリング〉のイベントだね。あれはみんなで無茶苦茶がやれて、面白かったなあ」
入浴剤のメーカーとタイアップしたイベントだった。浴衣姿のノンプレイヤーキャラクターが配ったアイテムは、パーティークラッカーの形をしていた。モンスターに向けて紐を引くと、10秒間まるでスプリンクラーのように回転して、七色の電撃魔法を繰り出しながら大ダメージを与えることができた。
ひとつ持っていれば24時間の間は何度でも使うことができた。〈D・D・D〉のメンバーはモンスター退治には使わず、マウスでアバターを高速回転させながら回転ナイアガラの滝ごっこをして遊んでいた。
「浸かる温泉の種類によって、キャラクターの服装が浴衣になったり、髪型が変わったりしましたね」
「温泉まんじゅうを食べると元の設定に戻ったり」
「ありましたね」
クラスティは、たまにはあの頃のように馬鹿がやりたいと思うんですが…と、少し困ったような顔で言った。
「ちょっとギルドが大きくなり過ぎてしまいましたしね」
確かに、そうだった。
2千人近い規模にまで膨れ上がり、しかも〈円卓会議〉発足後はクラスティに向けられる周囲の目が以前とは違ってきている。
まるで、本物の常勝将軍を見るような、尊敬や憧れ(人によっては嫉妬や嫌悪感)を宿した目で見る者が増えつつあった。
まだゲームの頃から〈D・D・D〉にいた古参プレイヤーは大きく変わらなかったが、〈大災害〉以降に加入してきたプレイヤーや、他のギルドのプレイヤーからの視線が大きく変わってしまい、クラスティは当惑しているようだった。
(〈大災害〉が起こってから、おそらく皆不安だったのでしょう。そこへ、とても強そうでカリスマ性のある人が現れたら、過度な期待を寄せるのも仕方のないこと)
「今は、ギルドを分割する時期には不適当ですし…」
「もう少し早めに、対処しておくべきだったかもしれないね」
高山がケーキを食べ終わると、二人はまた書類仕事に戻った。
甘いものの効果は絶大で、仕事がはかどり、40分ほどで今日のノルマを終えることができた。
「お疲れさま。おかげで助かったよ。今夜はゆっくり休んで」
「ええ。隊長もあまり無理せぬよう気をつけて下さい」
では、と、高山は執務室を辞した。
自室のある階へと階段を登りながら、高山はリーゼのことを思った。
(りっちゃんは…勇猛果敢ですね)
クラスティのことを、怖がりもせず、まっしぐらに追いかけてゆく。若さゆえの一途さがうらやましかった。
(まあ、私は狐ですから)
艶やかに実っている葡萄をただ見上げているだけだ。その幹をよじ登り、必死に手を伸ばす勇気がなかった。
葡萄はひどく甘いだろう。だが、毒があるかもしれない。
(意外に、すごく美味しいだけの、害のない葡萄かもしれませんが)
今は、美しい縦ロールの乙女の努力を、後ろからそっと応援すると心に決めていた。
「…申し訳ない…高山女史」
クラスティが執務室の窓を開けると、古代樹のみどりの匂いを含んだ夜風が流れこんできた。
仕事など、本当は古参メンバーに割り振ってしまえばすぐに終わったものもある。だが、クラスティは高山と話す時間をとりたくて、わざと仕事をキープしておいたのだ。
ずいぶん、自分は高山三佐に負担をかけているのだと思った。甘えていると言ってもいい。
(もう、十分です…済まないことをしました)
ケーキを差し出したとき、高山の表情はひどく複雑だった。不信感がちらりとよぎるのが見えた。
それは〈大災害〉のあと、時折、高山が見せる表情だった。
クラスティは、高山にそんな表情をさせてしまう元凶は自分であることを承知していた。
自分は、日々、たくさんの嘘をつき、八方美人を通している。いくら優しげな口調で語りかけたところで、その裏に隠れている思惑は計算高い。
高山には、とうに見透かされている。ケーキなど出しても、日々の中で降り積もった不信感は取り除くことなど不可能だ。そう解った上で、クラスティは高山にケーキを振る舞った。
(まあ、日頃の行いが悪すぎて、信頼されなくなってゆくのはよくあることです。…ケーキを出したのは密かな罪滅ぼしなのですが…)
クラスティは自嘲気味に唇の端を吊り上げた。
友人、なのだ。
高山とクラスティでは決定的に元々持っている資質が違った。クラスティは見た目よりはずっと大雑把で、面倒なことが苦手だったが、高山は几帳面で潔癖だ。
今のこの距離感でこそ互いの長所を生かせる。今よりも近づいたら生真面目な高山がクラスティの生きざまの犠牲になって磨り減ってしまうのは目に見えていた。
クラスティは嘆息し、窓辺に寄りかかると、しばらくの間、天空で震えている星々の間にシリウスを探した。だが、秋のシリウスはまだ地平の下に隠れているようだった。
クラスティは蒼く冴え輝くシリウスが好きだった。見上げていると、気まぐれな思いつきや願望を満足させることに日々を費やしてきた自分にまで、分け隔てなく澄んだ輝きを投げかけてくれる。
その輝きに照らされているわずかな間だけ、いくぶんかは血の通った人の子らしい自分に、戻れるような気がするのだった。
end
ここまで読んで下さって、誠に、誠にありがとうございますm(__)m
できるだけハードボイルドというか、ストイックな感じのお話にしたくて頑張りましたが、ここまでしかできず…(泣)
書いている間、ずっと『inner universe』と『Lithium Flower』を聞いていましたが…少しでも雰囲気が出ていたらなあと思います。
このお話のクラスティはわりあい腹黒設定となっておりますが…もう完全に私個人の独自解釈でお届けしております。ままれ先生の書かれる公式作品のクラスティとは全く違いますのでどうかご注意ください…!
アニメ版ログホラも残すところあと二話になってしまいましたが、アニメが終わっても『小説家になろう』でひっそりと二次創作を続けてゆくことができましたら嬉しいです…!
ひな祭りを終えたのに、まだまだ寒い日が続きますが、どうかくれぐれも体には気をつけてお過ごしください。