手をつないで話そう 音声編
「手をつないで話そう」はダブル主人公制の短編小説です。
『行方一』が主人公の『音声編』と、『桜早紀』が主人公の『映像編』の二本がありますが、両方とも同じ時間に起きたことを別々の視点で書いており、前後はありません。
お互いがお互いを補完する形になっているので、どっちか片方でも完結した小説になっているし、両方読めばストーリーがより良く分かるようになっています。
ただ、音声編を先に読むか映像編を先に読むかでちょっと印象が違うと思います。なぜなら二人の主人公は並んで歩きながら全然違うことを考えているからです。
というわけで、音声編と映像編、好きなほうから読み始めてください。
みなさんこんにちは。俺の名前は行方一。ユキカタハジメと申します。
今日は言いたいことがあってやってきました。
駅前の、黄色い点字ブロックの敷いてある道。駐輪禁止なんだけど、そこに自転車をたくさん置いて行ってくれる人がいるよね。あ、あんたもそう?
いつもありがとうございます。自転車パクられろ。
杖の先に当たる感触を確かめながら、俺は頭の中で悪態をついた。このカタいが弾力のある感触は間違いなくゴムタイヤ。こっちを叩くと金属製のフレームのカツンという音。よって今俺の杖の先にあるのは自転車だと言える。
立ち止まる俺の脇を、少し余計に距離をとりながらいくつもの足音と衣擦れの音が通り過ぎていく。この道はそんなに広くないので突っ立っている俺は邪魔で仕方ないだろう。しかしそれは俺のせいではない。立ち並ぶ自転車が悪いのだ。
頭より高いところから電車の通る音が聞こえた。前方にあるホームへと向けて速度を落としていくようだ。人々が急いでいるのを感じる。さっさと通り抜けなければ。
目が見えなくたって点字ブロック無しで道を歩くことはできる。慣れた道だし。ただブロックがあった方が安心できるので、邪魔されると腹が立つだけだ。まあそんなことにいちいち文句を言っていたらきりが無い。諦めて自転車をよけながら進もう。
自転車トラップゾーンを抜ければいつもの待ち合わせ場所はすぐそこだった。表通りよりも人通りの少ない、駅の裏手の方で俺たちは会うことになっている。
あいつに会いさえすれば俺はもういちいち杖で地面を叩かなくても歩けるし、人ごみの中でも自由に歩きまわれる。奴は優秀な盲導犬だ。盲導犬よりもよく食うが。
待ち合わせ場所に着いた時、奴はすでにそこで待っていた。行きかう人々の中から俺に近づいてくるその足音と呼吸音を聞き分けることができる。待たされたので怒っているらしい。トゲトゲしたその足音が目の前まで来たとき、最初にされたことはスネ狙いのローキックだった。痛い。しかも二回、三回と連続して蹴ってくる。スニーカーで。
一応言っておくが目の見えない人の足元を攻撃することは道徳に反する行為であり、悪い奴になりたくない人にはお勧めできない。
「あああ、分かった、遅れて悪かったから」
こいつが聞いてないのは分かっているが、一応謝っておいた。
さて、俺たちの間には挨拶が済んだらやらなければならない儀式がある。
俺が右手を上げると奴が少し身構えたのがわかった。その手をそっと前に出すと、いつもどおりの高さに頭がある。こいつの身長は高くないので頭が俺の肩ぐらいに来るのだ。
髪の感触を確かめる。短くて柔らかい毛。それから手の位置をずらして顔の凹凸を確かめる。鼻が低い。睫毛の長さやほっぺたの肉付きも変化なし。
間違いない。こいつの名前は桜早紀。風流な名に反して凶暴な小娘だ。
「よしよし、今日もよろしく頼むぞ」
俺は普段相手の声を聞くことで個人を判別しているのだが、サキにはそれがない。だから少し前までこの『顔確認の儀式』が必要だった。手で触るまで目の前にいるのが本当に桜早紀なのかどうか確信が持てないのだ。
しかし今はもう慣れたのでこんなことをするまでもなく、音や匂い、雰囲気などから直感的にこいつの存在を感じることが出来る。例えサキが特に身動きせずに立っていたとしても、目の前にいればほぼ確実に分かるだろう。
つまり本当はもうわざわざ頭を撫でる必要など全くないのだが、いつの間にか出会いがしらにこれをやらないとなんとなく落ち着かないようになってしまった。だからこれは必要な手続きなのだ。
というわけで今日も俺たちの時間はスネを蹴られて頭を撫でることから始まる。
サキがなぜ口を利かないのかということだが、その理由はこいつの耳が聞こえないことにある。生まれたときから音を知らないので、音声言語を学べなかったというわけだ。
とはいえ喉や舌には問題がないので、サキと同じ状況の人でも訓練次第で言葉を話すことは出来る。サキもその訓練というのを受けたことがあるらしい。口と舌の動きを練習して自分には聞こえない発音というものを習得するわけだが、どうも思うようにはいかなかったらしく、不恰好な発音を友達に馬鹿にされてからは訓練を諦めたのだとか。お陰で今もサキは一言も言葉を話せない。
サキが俺の手を取って歩きはじめた。今日は俺をどこへ連れて行く気だろう。そういうことは一切サキが頭の中で決めるので、事前に文句を言うことは出来ない。連れて行かれた先が下水処理場だろうと女性用下着売り場であろうとコイツの決定には逆らえないのだ。何かの気まぐれでひょいと車道に突き出されたとしても観念するしかない。笑えるお話だ。
俺とサキは今こうして手をつないで歩いているが、実は全く違う世界にいる。
例えば、草と水の匂いでわかるのだが左手前方に花屋がある。その花屋にならんでいるであろう花の種類が俺にはわからない。だが、花屋の前でおばさん達がしている会話の内容はわかる。加藤さんの息子が塾をサボったらしい。
さっきから政治家のおっさんが拡声器を使ってうるさく演説しているが、その内容はサキには伝わらない。だが演説をする人聴く人の表情を見ることが出来る。
俺は音の世界。サキは映像の世界。俺たちの間にはそういうすれ違いがある。
気にするほどのことではないが。
前方からカンカンカンと踏み切りの遮断機が下りる時の警告音が聞こえてきた。遠くからは接近する電車が線路を震わせる音がかすかに響く。しかしサキは電車の接近に気づいていないのか、ずんずんと俺の手を引いて歩き続けた。
危ないので手を引っ張り返して立ち止まらせた。……いてっ! 蹴られた。何故だ。
ただ大人しく手を引かれるままに歩いているかに見える俺だが、実はそうではない。目の役目を果たすサキに対して俺は耳をやる。これによって五感全てを備えた人間並みの能力を発揮できるわけだ。まるで比翼の鳥のような美しい共生関係。
何よりお互いに頼りあっているというのがいい。健常者に手を引かれるのは迷惑をかけているみたいで気が引けるが、サキが相手なら後ろめたさを感じることなく手を握ることが出来る。対等な関係。これが重要だ。
しばらく行くと俺の手を握るサキの手が不意に離れ、がしゃん、と自転車を持ち上げて移動させる音が聞こえてきた。そういえばここも点字ブロックの敷かれた道だ。
停まっている自転車をどけることなどサキにとっては朝飯前。でも今は二人でいるんだから、わざわざどかさなくてもさっさと避けて誘導してくれればいいんだがなあ。
時間が勿体無いので早く行きたいのだが、サキは続けていくつも自転車をどかしている。遠慮も配慮もなく乱暴に脇へのける。おいおい壊すなよ。さっきは朝飯前だと思ったが、体の小さいサキには疲れる作業のはずだ。
ていうか、恥ずかしいからやめて欲しい。気のせいか視線を感じる気がする。
「あ、ごめーん、邪魔だったあ? 俺の自転車」
その時出し抜けに若い男のだらけた声が聞こえた。……マズい。持ち主の登場だ。
サキが自転車を動かす音がお構いなしに続く。
「怒んないでよ。今ヒマ?」
「お詫びにどっか連れてってあげるよ」
声が二種類聞こえたから相手はどうやら二人いる。声のイメージからして片方は多分背の高い男で、もう一人は小太り。
サキは返事の代わりに、投げつけたのかと思うほど乱暴な音を立てて自転車を置いた。その対応に男二人の雰囲気が急激に悪くなったのを感じた。よくない状況だ。
サキのことだから何かされる前に自分から噛み付いたりしかねない。ヤツは盲導犬のように厳しいしつけと訓練を施されていないのだ。仕方ないので俺が話をつけることにした。
「いや、すいませんね、そいつしつけがなってないんスよ」
なるべく柔らかい物腰で話しかける。
「何? あんた彼氏?」
サキに話すのと露骨に違う口調で背の高い方の男が俺に声を投げつけてくる。それに対して曖昧な笑みを返すと、男は続けて何かを言うことはしなかった。
おそらく俺の目を見たからだろう。相手に視力があるかどうかは目を見た瞬間わかるものらしい。俺の目は焦点が合っていないのだとか。気味悪がられるので普段は目を閉じているのだが、今はあえてそうしていないので半開きの目が相手に悪印象を与えたことだろう。ついでに、用がなくなって腰に吊ってある白い杖にも気づいたはずだ。この沈黙はつまりそういうことだと思う。
「あ、いや、彼氏がいたんならいいんだ。邪魔したねえ、ハハ」
「気を悪くしないでくれなあ」
急にへりくだった態度になって、男二人は逃げるように去っていった。やはり誰でも悪い奴にはなりたくないらしい。こういう時は盲目が逆に有利に働く。
というか、去っていったということは、あいつらは別にあの自転車の持ち主ではなかったということだろうか。悪い奴らだ。
サキの機嫌が悪くなった。歩き方や手の引っ張り方がさっきまでと全然違う。多分、さっきの二人組のせいだ。
誰だって感情の動きが態度に現れるものだが、サキはそれが特に顕著だ。言葉を話さないぶん全身で感情を表現しないといけないらしい。俺はこいつを無口だと思ったことは一度もない。
でも頼むからもっとゆっくり歩いて欲しい。手を引かれる方にとってはペースが早いと不安感がある。もちろんこいつはそんなの承知でやっているのだろうが。
しょうがないな。どうやって機嫌をとってやろうか。手っ取り早いのは何か食べ物を与えてやることだが、こいつは際限なく食うからな。特に甘いものならそれこそ現役力士のように食う。一体その小さな身体でどこにそのエネルギーを使っているのか。
食べる眠る蹴るがコイツの三大欲求であるわけだが、眠ってくれそうにないなら奢るか蹴らせてやるかしかないだろうか。どっちもイヤだ。
困っていると、神様はちゃんと見てくれているもので、俺の元へ助け舟を遣わされた。
「おーい! サーッキー!」
後ろの方からサキを呼ぶ女の子の声と、かけて来る数人の足音が聞こえたのだ。この声は何度か聞いたから知っている。サキの高校のクラスメイトたちだ。
声はサキの名を呼んでいるわけだが、実際は俺に対してサキを振り向かせるように促しているわけだ。その通りにしてやる。
痛! また蹴られた! この小娘考える前に足が出るなホント。
足をさする俺の所へ五人組の若い男女が追いついてきた。男子三名女子二名。俺が会うときはいつも同じメンバーで、サキを入れて丁度男女の人数が合うようになっている。
彼らがサキを取り囲んで喋り始めると、今日も確かにいつものメンバーの声が揃っていることが確認できた。
「まーたデート? あんたはもっと友情を大事にしなさい」
「あ、通訳さんチワッす」
俺は彼らに『通訳さん』と呼ばれている。こいつらはどうも『手話』というモノを使えないらしいので、サキとの意思疎通には俺による通訳が必要だからだ。
俺はサキと繋いでいた手の組み方を変えた。お互いの指先がお互いの手のひらに来るような組み方だ。中世騎士がお姫様の手を取るときの手の重ね方という分かりやすいかも知れない。この変な手の合わせ方こそが、俺たちの独自の会話方法だ。
俺は手話が出来ない。相手の手の動きが見えないからだ。もちろん筆談も駄目。声による会話はサキの方が聞こえないから使えない。そこで、色々と考えた末に発明されたのがこの方法だ。相手の手を指で叩いたりなぞったりして、モールス信号の要領で文章を作る。
例えば、「中指で一回叩き、人差し指も一回叩く」は「あ」。「中指で一回叩き、人差し指は縦に線を引く」は「い」。「中指で叩いてから横線を引く、人差し指は二回縦線を引く。最後に薬指で縦線を引く」は「ぽ」となる。
二人で独自に作り上げたこの暗号は『握手語』と名づけられた。始めは苦労したが、今ではそこそこの速度でやりとりできる。長い間会話すると指が疲れるし、汗ばんで気持ち悪いのでそう頻繁に使えないのが欠点だが、これのお陰で劇的に世界が広がった。媒体がなんであろうとやはり言葉は偉大なのだ。
重ねた手の中で無音の会話が始まった。俺は友人の話を簡潔にサキに伝え、サキはそれに返事をする。
「今度は俺たちとも遊びにいこうぜ」
つくづく思うがサキはいい友達を持っている。俺にはこういう風に誘ってくれる友達の当てはない。色々と面倒くさがられるからな。サキは俺に構っているヒマがあったらもっと友達と遊ぶといいと心底思う。
サキの指が俺の手の平でもぞもぞと動いた。
(そんなに ひまじゃ ない)
バチ当たりめ。
「サキはなんて?」
「ああ、遊びたいのは山々なんだけど色々忙しいんだって」
短い文章を良心的に補完して伝えてやるのも通訳の役目だ。
「もー! 高校生なんて遊ぶのが仕事なのにさっ!」
「まあまあ、サッキーは通訳さんと一緒の方がいいんだよ」
「ぶー。私達もサッキーとラブラブしたいしー!」
友達が口々に騒ぐのを全てサキに伝えることはさすがにできない。俺が伝えたのは(ともだち たいせつにしろ)の一言だけだ。
それにしても、この人達にとって俺はすっかりサキの恋人という位置づけにされてしまっているな。かつてさんざん否定しても無駄だったのでいまさら言わないが、俺たちは決してそういうつもりではない。ただお互いにお互いしか頼るべき相手がいないだけだ。
サキは俺と違ってこれだけ友達がいるんだから、そのうちに俺以外にも頼れる相手を見つけて欲しい。五感の揃った相手に手を引かれるのは気が引けるなんていう、女々しいことを言っているのは俺だけでいい。
「そろそろ行かない?」
気がつけば結構しゃべってしまった。いつまでも路上にたむろしていると迷惑だ。
「それじゃあ通訳さん、サッキーをよろしく」
「俺たちこれからカラオケ行くんすよー」
「じゃ、またメールするからね〜サッキー」
友人たちに応えて手を振りながら、そういえばこの人達は携帯のメールというのを使えるんだなあと当たり前のことに気づいていた。俺にとって携帯電話は文字通り電話するためだけのものだが、サキと電話はできない。俺たちは手をつながないと会話できない。
サキが俺の手を引いて別れの言葉の通訳を催促してきた。俺はメールのことには触れず、彼らがこれからカラオケに行くことだけを伝えていた。
多分それは失敗だった。
どうせ省くのならカラオケも省いてサヨナラの挨拶だけ伝えていればよかったのだ。
サキが言った。
(わたしたちも ついていこう)
「は?」
俺は思わず声に出して驚いていた。歩き去りかけていたサキのクラスメイトたちがそれに気づいて立ち止まるのが足音で分かった。
サキ、お前は何を言っているんだ。カラオケなんて俺だって行ったことないんだぞ。字幕も目録も読めないからな。しかし俺はまだいい。おまえ自身はカラオケBOXに行って何をする気なんだ。 恐ろしい。この小娘、何を考えているのかわからん。
指を動かすまでもなく俺のNOの意思を感じ取ったのか、サキは俺のスネを強烈に蹴ってきた。それでも飽き足らずにヤツは両手を振り回して胸やら腹やらをどこかしこかまわず殴りつける。さっきまでつないでいた手が、俺たちのか細い絆だった通信機器が鈍器として振り回される。先刻の男二人組との悶着がそんなに気に食わなかったのか。
いや、違うな。
サキは羨ましかったに違いない。カラオケに行くみんなが。自分抜きで友達が未知の娯楽に興じるのが我慢できなかったに違いない。仲間はずれにされたと感じただろうか。
仕方ない。
俺にはどこだろうとお前が手を引く先へついて行くことしかできないからな。
一緒に行こう。そして何か聞こえてきたら教えてやろう。
俺はサキのクラスメイト達を呼び止めた。
少しの戸惑いと相談のあと、申し出は明るい声で聞き入れられた。
俺はサキに手を引かれて、サキは友達の後に続いて、カラオケBOXと呼ばれる所へやってきた。
受付ではすでにどこかの部屋から音楽が響いている。サキの友達が簡単な手続きを済ませた。
しかし俺は今まで人前で歌ったためしなどない。出来るだけ目立たずにサキの相手をしていよう。みんなの歌を聞きながらその上手下手なんかをサキに伝えてやればいい。
まもなく小さな部屋に通された。扉を閉じると今までに感じたことのない奇妙な雰囲気の密室が出来上がる。
俺はサキと並んでソファーの端に座った。もう移動は終わったので手をつないでいる必要はなくなったが、サキはまだ手を離さなかった。こいつの目には今何が映っているのだろう。意識してソファーに深く座ると、隣でサキもそれに倣った。
「ドリンクはどれになさいますか?」
店員の声。歌うだけかと思いきやなんと飲み物を注文できるのか。緊張した喉に水分はよさそうだ。メニューさえ分かれば。
(わたしは こーら きみは じんじゃーえーる)
誰かに質問するまでもなく、サキがメニューを見て俺の分まで注文を決めた。サキは大体俺の好みを把握しているので文句を言う必要はないだろう。言われたとおりに注文した。
俺たち二人を除いたメンバーは楽しそうに騒ぎながらこれから歌う曲をあれやこれやと話し合っている。その声がいかにも楽しそうなので俺の緊張はいくらか緩和された。そうだ。聞きに徹する限り案ずる事はない。
いよいよ音楽が流れ始めた。知らない曲だ。一人が歌い始める。
「最初はやっぱこれだろー」
「まーたー? あんた好きだねー」
激しい曲調の洋楽で、マイクを手にした男子は声を張り上げて歌った。歌唱力うんぬんよりとにかく大声を出せば勝ちという感じの歌い方だ。しかし決して下手ではない。下手ではないが……。
甘かった。音楽も歌声も、扉の外で聞いて想像していたよりもずっと大きな音だ。振動がびりびりと肌に感じられる。周りの人間がそれに合いの手を入れたり笑い声を上げたりしているが、殆ど聞こえない。全てかき消されてしまう。
耳がキンキンして他の物音が少しも聞こえない。音が狭い部屋に反響して右も左も分からなくなってしまう。俺は聴覚を乱されると弱い。
だめだ。混乱していないでサキに歌について教えてやらなくては。俺はサキの手を握りなおした。しかしこの音を表現してサキに伝える文章が思いつかない。
俺よりも先にサキの指が動いた。
(すきな うた なに)
好きな歌?
サキと音楽について話したことは今までなかった。当たり前だ。俺は人並みに音楽を聴くがそれをサキに話したところで虚しいだけだ。
しかしサキが俺の好きな歌は何かと訊く。応えなければ。脳を動かすことが渦巻く音の奔流から逃れる道でもある。
以前から好きだった歌手の名前を伝えた。俺は静かで落ち着ける音楽が好きだ。
(じゃあ それでさがす)
サキの言っている意味がよくわからなかった。探すとは何のことを言っているのだろう。俺の好きな歌手を? 探す? どこから?
サキの手が目録のページをめくる音は、大音量の音楽のために俺の耳には入っていなかった。もしそれが聞こえていたら間違いなく止めていただろう。俺がサキのやろうとしていることに気づいたのは、他の人間がサキの行動に気づいて声を発してからだ。
「え? サッキーそれ誰が歌うの?」
その声は俺に向けて発せられた。俺にとってその発言は理解不能だったし、鳴りつづける音楽の中でそれは遠い叫びでしかなかったのだが、俺が通訳するまでもなくサキは相手の質問を理解したらしい。
サキの細い人差し指が、俺の頬に突きつけられた。
状況についていけなかった。少し遅れてようやく俺は、サキが何かの曲を予約したらしいことと、どうもそれを俺が歌わされるらしいということをおぼろげに理解した。
おい。冗談じゃないぞ。
こいつまさか俺が普通に歌えると思ってるんじゃないだろうな。
サキが「大丈夫」と言うように俺の肩を叩いた。ついさっきまでお前だって緊張して縮こまっていたくせに、その行動力はどこからくるんだ。
長い付き合いだが、いまだにこいつは俺の予測が遠く及ばないことをする。
俺がサキと初めて会ったのは、高校に入学したばかりの頃だったろうか。
最初、桜早紀は無言で背後をついて回る小さな足音として俺の人生に登場した。ある日歩いていて、ふと気づくとそれはぴったりと俺の後ろに張り付いていた。
俺が立ち止まると足音も止まる。歩くとまた着いてくる。「何か用ですか」と声をかけても返事はない。だが確実に人間の気配がそこにある。
不気味だった。振り切ろうと思って足を早めると、やはり足音もそれにあわせてきた。杖で足元を確かめながら歩いているので走ることは出来なかったが、足音に追い立てられて、気づかないうちに思っている以上のペースで進んでいた。
足元に段差があった。歩道と車道の境目にあたる段差だ。いつも通る道なので普通に歩いていれば引っかからないのだが、急いだのがいけなかった。足を踏み出した場所の地面は俺の予想より少し下にあり、突然道が消失したように感じた。
次の瞬間、大きく体勢を崩した俺を細い腕が支えた。足音だけの存在が俺の中で二本の腕を供えた人間に進化し、また、それが自分より年下の女の子であることもその時にわかった。俺は戸惑いながらも礼を言ったが、やはり返事はなかった。
それから、謎の足音はたびたび俺の背後に現れるようになった。そいつは遠慮がちについてきて、時々俺の前の障害物をどけたり、横断歩道を渡るタイミングを教えてくれたりした。
相変わらず言葉を交わすことはなかったが、それは相手が声を持っていないからだとわかってきた。足音の主を他の人間と区別するために、会うたびに頭を触るようにした。足音と手の存在に髪の毛が追加された。
ある時、足音の主は俺の手に一枚の厚紙の切れ端を握らせた。紙の表面には鉛筆で開けたような小さな穴が並んでいて、どうやら点字になっているらしかった。
――ワタシノ ナマエハ サクラ サキ
こうして、桜早紀という名前を持った一個の人間が俺の中で成立した。
後ろをついてくるばかりだったサキは、やがて並んで歩くようになり、そのうちに手をとって先を歩くようになった。足音と手と髪にやがて顔が、肩や背中がついていき、彫刻を刻むように少しずつ桜早紀という人物が形作られていく。
小学生の時に視力を失って以来あらゆることに積極性を失っていた俺にとって、行動力にあふれるサキの存在は救いだった。あいつの手を握っていればどこへでも行けるのだ。この手がなかったら今頃俺はほとんど家から出ない生活を送っていたに違いない。
体温でぬくもった金属の棒を手渡された。それがマイクだということぐらいはわかった。
サキが俺の手を取って立ち上がる。曲が流れ始め、周りの人間から拍手が起こった。
人前で歌ったことがなかろうが、喉があれば歌うことぐらいできる。サキの指先が俺の手に、握手語でモニターに表示されているであろう歌詞を教えてくれた。
深く考えるな。今は歌うのだ。
半分ヤケクソで歌った。サキが歌詞を読み、俺が歌う。我ながら上手くない。しかしとにかく大声を出せば勝ちだ。そのうちにだんだん気分も良くなってきた。
その時ふいに手拍子が止んだ。みんなが何かに驚いたように一瞬黙り込む。それと同時に、俺のすぐ隣からサキの友達五人の誰でもない声が聞こえた。初めて聞く声だった。
なんだ? この声は誰だ?
手拍子はすぐに再開した。さっきまでよりも熱の篭った声援と共に。初めての声はそれに負けないように今も大声を出している。それがサキの声だと気づくのに時間がかかった。
サキはなんと歌っているのだ。俺の歌にあわせて。もっともそれは聞き取れる言葉にはなっていなかった。ただ大きな声を出しているだけだ。音程も何もない。
(しゃべると ばかにされる)
(だから しゃべらない)
以前にサキと交わしたやり取りを思い出した。サキがもう音声言語を覚える気がないということを俺は残念に思った。サキの声が聞いてみたかった。しかしサキを傷つけるとよくないと思って俺は長い間そのことには触れなかった。
今そのサキが歌っている。声を出して歌っている。
……カラオケBOXを出る頃にはもう夕方だった。人の足音の減った街で、少しの寂しさをはらんだ風に吹かれながら、サキの友人たちと笑って別れを告げた。
俺もサキも歌い手としては赤点だったが、それでも楽しい時間を過ごすことが出来た。実はまた来たいとさえ思っている。
今、俺とサキは公園のベンチに並んで腰掛けていた。
どこかでカラスが鳴いている。遠い昔、まだ視力があった頃に同じベンチで見上げた夕空を思い出した。あの頃は夜が怖かった。
サキはやっぱり黙っていたが、満足そうだった。
一つの試練を乗り越えて、哀愁と開放感が心を満たしていた。こういう気持ちになるといつも考えてしまうことが一つある。それは考えたって無駄なことなのだが、ふとしたはずみに心に隙ができると蛇か何かのようにぬるっとそこへ入り込んでくる。
隣にいるサキにむけて、わざと口に出してそれを言ってみた。
「なあ、サキ。もしも俺の目が普通に見えて、お前の耳も聞こえて、喋ることもできていたら……」
もちろんサキの耳にこの言葉は届いていない。
「そしたら今頃、俺たちはここでこうしていないのかな」
こんなことを考えてしまうことも、聞こえないのを知っていて声でそれを告白するのも、なんだか後ろめたかった。
サキが俺の頭に手を置いた。そしてまるで全てお見通しと言うように撫でる。その手は頭から顔に下りて来て、いつも俺がサキにするみたいに、顔面の凹凸を確かめた。
こうされるとなんだか本当に目の前の少女に全てを見透かされているような気持ちになる。くだらないこと考えてないで、明日どこに遊びに行くかを考えなさい。と言われた気がした。蛇はどこかへ去っていった。
サキに手を引かれて立ち上がる。そろそろ帰る時間だ。また杖に頼って歩かなければ。
別れ際に、サキの爪先が俺のスネを蹴る。なんで蹴られるのか分からない。多分なんとなくだろう。なんとなくじゃあしょうがない。
これから先もこうやって、お前に連れまわされてスネを蹴られる生活が続くといい。
頼れる盲導犬よ、明日もよろしく頼むぞ。