お母さんより、お父さん、娘をお願いします
家の中が、静かになった。
テレビの音もない。食器の触れ合う音もない。洗濯機の回る音もない。奈緒がいた頃は、いつだって何かの音がしていた。鼻歌とか、ひなを呼ぶ声とか、麦茶を注ぐ音とか。どれも小さな音だったのに、全部なくなると、家はこんなにも静かになる。
けいはソファに座ったまま動けなかった。
葬儀は三日前に終わった。親族が帰り、近所の人が帰り、奈緒の友人たちが帰り、最後に奈緒の母親が泣きながら帰った。そのあとのことを、あまり覚えていない。
時計だけが動いている。
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朝が来ても起きない。夜が来ても眠らない。
冷蔵庫には奈緒が作り置きしていた煮物がまだ残っている。日付のラベルが貼ってある。几帳面な字。丸っこい「け」の字。けいが好きだった筑前煮。
食べられなかった。
仕事場から電話が来た。出なかった。もう一度来た。出なかった。三度目で電源を切った。
ひなが学校から帰ってきた気配がした。玄関のドアが開いて、「ただいま」と小さな声がして、しばらく間があって、足音が廊下を通り過ぎていった。
けいは何も言わなかった。
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酒を飲むようになったのは、五日目くらいからだった。
眠れないのだ。目を閉じると奈緒の顔が浮かぶ。最後の日の顔。病院のベッドで、痩せた手で、けいの手を握って、何か言おうとして、結局言えなかった顔。
飲めば少しは止まる。止まっている間だけ、呼吸ができる。
台所のテーブルに缶が並ぶ。流しに食器が溜まる。床にコンビニの袋が散らばる。奈緒がいた頃には考えられなかった光景が、数日で出来上がった。
カーテンを閉めたまま、昼も夜も分からなくなった。
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「お父さん」
ひなが声をかけてきた。リビングの入り口に立っている。中学二年生。奈緒に似て、目が大きい。
「ご飯、食べてないでしょ」
「……うん」
「作ろうか。お味噌汁くらいなら」
「いい。今は……いい」
「でも」
「今は無理だ」
ひなの顔がこわばった。けいはそれを見ていられなくて、顔を背けた。
足音が遠ざかる。ドアが閉まる。
最低だ、と思った。思ったが、体が動かなかった。
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ひなは一人でご飯を食べていた。
台所でインスタントの味噌汁を作り、冷凍のご飯を温めて、一人で食卓についた。奈緒が使っていた箸立てから自分の箸を取って、手を合わせて、食べた。
正面の椅子には誰もいない。隣の椅子にも誰もいない。
ひなは途中で箸を置いた。
泣いてはいなかった。ただ、口が動かなくなった。味噌汁が冷めていく。窓の外で犬が鳴いている。
お母さんがいたら、「ひな、冷めるよ」と言っていた。お父さんがいたら、「まずそうな顔するな」と笑っていた。
誰も何も言わない。
ひなはしばらくして、また箸を持った。冷めた味噌汁を飲み込んだ。
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十日目の夜だった。
けいは台所で缶ビールを開けていた。三本目だった。テーブルの上は汚れたままで、流しには鍋が三つ重なっていた。
ひなが来た。
「お父さん」
「…………」
「お父さん、もういい加減にしてよ」
「…………」
「ちゃんとしてよ。お母さんがいなくなって、お父さんまでいなくなったら、私、どうすればいいの」
声が震えていた。
けいは缶を置いた。何か言おうとした。言えなかった。頭の中が重くて、言葉が出てこない。奈緒がいない。奈緒がいない。それだけがずっと鳴っている。
「お母さんだってこんなの望んでない。こんな――」
「うるさい」
自分でも驚くような声が出た。低くて、硬い声。
ひなが黙った。
「お前に何がわかる」
言ってしまってから、後悔した。ひなの目に涙が溜まるのが見えた。唇が震えて、何かを言いかけて、飲み込んで、そのまま背を向けた。
足音。階段。ドアが閉まる音。
けいは缶を握りつぶした。中身がテーブルにこぼれた。拭かなかった。
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それから、ひなはリビングに来なくなった。
学校へは行っているようだった。朝、玄関のドアが開いて閉まる音がする。夕方、また開いて閉まる音がする。足音は廊下を通り過ぎて、二階へ上がっていく。
けいはソファにいる。あるいは台所にいる。あるいは布団の中にいる。どこにいても同じだった。
何もできない。何もしたくない。奈緒がいない世界で、何かをする意味が分からない。
ひながいるのに。
分かっている。分かっているのに、体が動かない。
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二週間が経った頃、けいはふと立ち上がった。
理由はない。ただ、目が覚めたとき、天井の染みが気になった。奈緒が「いつか塗り直そうね」と言っていた染みだ。
立ち上がって、部屋を見回した。
テーブルの上に、奈緒のエプロンが畳んで置いてある。誰が畳んだのか。ひなだろうか。洗って、畳んで、置いたのだろうか。
冷蔵庫に貼ってあるひなの小学校の写真。奈緒が選んだマグネットで止めてある。花の形の、黄色いマグネット。
食器棚の奈緒のマグカップ。取っ手にヒビが入っていて、「買い替えようよ」と言ったら「愛着があるから」と笑っていた。
棚の上の家族写真。三人で撮った。ひなが小さくて、奈緒が抱いていて、けいが横で笑っている。
全部、残っている。奈緒だけがいない。
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遺品を整理する気にはなれなかったが、奈緒のクローゼットの前に立った。
開けると、奈緒の匂いがした。柔軟剤と、少しだけ甘い、奈緒だけの匂い。
服の間に手を入れると、奥に紙袋があった。引っ張り出す。中にノートが数冊と、封筒が一つ。
封筒の表に、奈緒の字で書いてあった。
「けいへ」
手が震えた。
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封筒を持ったまま、リビングに戻った。
テーブルの上に置いて、向かいの椅子に座って、見つめた。
奈緒の字だ。丸くて、少しだけ右に傾いている。病気が分かってからも、奈緒の字は変わらなかった。最後の方は少し震えていたけれど、丸さは最後まで同じだった。
開けられない。
読んだら、終わる気がした。奈緒の最後の言葉を受け取ってしまったら、本当に終わる。奈緒がもう何も言わないことが確定する。
今はまだ、この封筒の中に奈緒がいる。
けいは封筒を置いたまま、椅子に座って、一時間以上そうしていた。
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夜になった。
ひなの部屋から微かに明かりが漏れている。起きているのだろう。
けいは深呼吸をして、封筒を開けた。
中には便箋が五枚。奈緒の字がびっしり詰まっている。ところどころ、インクが滲んでいた。
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手紙は、こう始まっていた。
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> けいへ
>
> この手紙を読んでるってことは、私はもういないんだね。
>
> 変な感じ。自分がいなくなった後のことを想像しながら書いてるんだけど、実感がなくて、なんだか他人事みたいな気持ちで書いてます。でも、書かなきゃと思って。書けるうちに。手がちゃんと動くうちに。
>
> 何から書けばいいのか分からない。
>
> たくさんあるんだよ、言いたいこと。ありすぎて、全部書いたら便箋が足りなくなると思う。でも頑張って書く。だって、もう直接言えないんだから。
>
> -----
>
> まず、ありがとう。
>
> けいと過ごした時間、全部よかった。全部。付き合い始めた頃、けいが初めてうちに来た日、玄関で靴を揃えてたの覚えてる? 私あれで「この人だ」って思ったんだよ。言ったことなかったけど。
>
> プロポーズの日のこと。あのレストランで、けい、緊張しすぎてスープこぼしたよね。ウエイターさんが走ってきて、けいが真っ赤になって、私笑いすぎて泣いて。指輪出すタイミング完全に失ってたのに、そのまま「結婚してください」って言ったよね。スープの染みがテーブルクロスに広がってる横で。
>
> 最高だった。あの瞬間が一番好き。
>
> -----
>
> けいの好きなところ、書いていい? 恥ずかしいけど、もう恥ずかしがってる場合じゃないので書きます。
>
> 朝、起きてすぐに私の分の珈琲を淹れるところ。自分の分と同じ濃さなんだけど、私のほうだけミルクを入れてくれるところ。
>
> 嘘がつけないところ。サプライズしようとしても顔に全部出てるところ。ひなの誕生日ケーキ隠してたとき、冷蔵庫の前に立つたびにニヤニヤしてたの、バレバレだったからね。
>
> 怒鳴らないところ。どんなに疲れてても、声を荒げないところ。私がイライラして当たっちゃったとき、少し黙って、それから「そうだな」って言うところ。あの「そうだな」に何度救われたか分かんない。
>
> ひなを抱っこするとき、必ず頭の後ろに手を添えるところ。もう中学生なのに。でかくなったなーって言いながら。
>
> 私が入院してから毎日来てくれたこと。仕事のあとで疲れてるのに、毎日。帰り際にいつも「明日も来るから」って言ってくれたこと。あの言葉がどれだけ支えになってたか。
>
> けいは気づいてないかもしれないけど、私、あの言葉を聞くためだけに夜を越えてた日がある。何日もある。明日けいが来る。それだけで朝まで持った。
>
> -----
>
> 正直に書くね。
>
> 悔しい。
>
> まだ生きたかった。ひなの卒業式に出たかった。成人式に着物を選んであげたかった。結婚式でたぶん泣くんだろうなって、想像だけで泣けてくる。
>
> けいと歳を取りたかった。白髪が増えたねって笑い合いたかった。腰が痛いとか言いながら、一緒に散歩したかった。退職したら二人で旅行しようって言ってたよね。北海道。約束、覚えてる?
>
> 行きたかったな。
>
> 悔しい。悔しくてたまんない。なんで私なんだろうって、何度も思った。何度も。神様がいるなら文句言いたい。もうちょっとだけ、もうちょっとだけ待ってくれたらよかったのに。
>
> -----
>
> でもね、しょうがない。
>
> しょうがないんだよ、けい。
>
> どれだけ悔しくても、どれだけ嫌でも、しょうがないものはしょうがない。これは私が引いたカードで、私の体に起きたことで、誰のせいでもない。けいのせいでもない。
>
> もし「もっと早く気づいていれば」とか「もっと何かできたんじゃないか」とか思ってるなら、やめてね。それは違う。本当に違う。けいは十分やった。十分すぎるくらいやった。
>
> 病院で、先生の話を聞いてるけいの横顔を見てたの。必死にメモしてたよね。治療法を調べて、セカンドオピニオンの予約を取って、食事療法の本まで買って。
>
> 全部見てた。全部うれしかった。
>
> だから、自分を責めないで。お願い。
>
> -----
>
> ごめんね。
>
> 一人にしてごめんね。
>
> 洗濯の仕方、ちゃんと教えとけばよかった。柔軟剤の量、いつも入れすぎてたでしょ。あと、ひなの冬服のしまい方。あと、ゴミの日。水曜が燃えるゴミで、金曜がプラスチック。間違えないでね。
>
> ……こんなこと書いてる場合じゃないのに。でも心配なの。本当に心配。けいは一人になると何もしなくなるから。ご飯作らなくなるし、部屋片づけないし、缶ビールばっかり飲んで寝落ちするでしょ。
>
> 分かってるんだよ、全部。何年一緒にいたと思ってるの。
>
> -----
>
> ここから先は、一番大事なこと。
>
> けい、お願い。ちゃんと読んで。
>
> つらいのは分かってる。もしかしたらこの手紙を読む頃には、もうボロボロになってるかもしれない。何も食べてなくて、何もしてなくて、ひなの顔も見れなくなってるかもしれない。
>
> 分かるよ。だってけいだもん。全部抱え込んで、一人でどうにかしようとして、どうにもできなくて潰れるタイプ。結婚してすぐの頃からそうだった。
>
> でもね、けい。
>
> ひなはまだ子供なの。
>
> 中学生で、見た目はしっかりしてるけど、まだ子供なの。お母さんがいなくなって、怖くて、寂しくて、でもたぶん泣けなくて。けいの前では強がってると思う。私に似てるから。
>
> あの子を、お願い。
>
> 完璧じゃなくていい。ご飯だって買ってきたものでいい。洗濯だって多少変でもいい。お弁当なんか冷凍食品でいい。そんなのどうでもいい。
>
> ただ、そばにいて。
>
> ひなの話を聞いて。朝、おはようって言って。夜、おやすみって言って。たまに頭を撫でて。それだけでいいから。
>
> けいにしかできないの。もう、けいしかいないの。
>
> -----
>
> 最後に。
>
> もし何年か経って、新しく誰かを好きになったら、好きになっていいからね。
>
> 怒らないよ。むしろ安心する。けいが一人で生きていくのは、見ていてつらいから。見えないけど。見えないけど、たぶんつらいから。
>
> ひなのことを一緒に大事にしてくれる人なら、私は大賛成です。ひなにはちゃんと説明してね。「お母さんがいいって言ってた」って言っていいから。使っていいから、私の名前。
>
> -----
>
> 長くなっちゃった。
>
> まだ書きたいことあるんだけど、手がちょっと疲れてきた。握力がもうあんまりなくて。ペン持ってるだけで手が震える。情けないね。
>
> 最後にひとつだけ。
>
> ひなのこと、よろしくお願いします。
>
> 簡単な言葉でごめんね。でも、この言葉に私の全部が入ってると思って。
>
> 大好きだよ、けい。
>
> ありがとう。
>
> 奈緒
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便箋が濡れていた。
奈緒が泣きながら書いたのか、自分の涙なのか、もう分からなかった。
けいは手紙を握ったまま、声を上げて泣いた。テーブルに突っ伏して、顔をぐしゃぐしゃにして、声を殺すこともできずに泣いた。
何をしていたんだろう。
奈緒が最後まで心配していたのは、こういうことだったのだ。自分がこうなることを、奈緒は分かっていた。分かっていて、手紙を書いた。手の震えるペンで、握力のない指で、全部、書いた。
缶ビールの並んだテーブル。散らかった台所。閉め切ったカーテン。何も食べていない冷蔵庫。
そして、二階で一人きりのひな。
全部、奈緒に見えていた。見えていて、それでも怒らずに、「お願い」と書いた。
けいの嗚咽が、静かな家に響いた。
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どれくらい泣いたか分からない。
目が腫れて、頭が痛くて、鼻が詰まっていた。台所の時計は午前一時を過ぎていた。
けいは顔を洗った。冷たい水で、何度も。
それからテーブルの上の缶を全部捨てた。袋を縛って、玄関に出した。流しの食器を洗った。三日分の食器を、一枚ずつ、丁寧に。
手が震えていた。涙はまだ止まっていなかった。でも、手は動いた。
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階段を上がった。
ひなの部屋のドアの前に立つ。明かりは消えている。もう寝たのかもしれない。
ノックした。小さく、二回。
返事はない。
もう一度、ノックした。
「ひな」
声がかすれていた。
「……ひな。起きてるか」
沈黙。
「ごめん」
ドアに額をつけた。
「ごめんな。ずっと……ごめん」
声が震えて、ほとんど形にならなかった。
沈黙が続いた。長い沈黙だった。
諦めかけた頃、ドアの向こうで布団が動く音がした。足音が近づいてくる。
ドアが少しだけ開いた。
隙間から、ひなの顔が見えた。目が赤かった。泣いていたのだ。ずっと。
「……お父さん」
「ああ」
「お母さんの手紙、読んだ?」
けいは頷いた。声が出なかった。
ひなの目からまた涙がこぼれた。唇を噛んで、顔をくしゃくしゃにして、ドアを大きく開けた。
けいはひなを抱きしめた。中学生のひなはもうずいぶん大きくて、けいの肩に頭が届いた。でも、泣き方は小さい頃と同じだった。声を押し殺して、肩を震わせて、しがみつくように。
奈緒の匂いが、少しだけした。同じシャンプーを使っているのだろう。
けいは目を閉じた。
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どれくらいそうしていたか分からない。
ひなが少し身体を離して、けいの顔を見た。
「お父さん、顔ひどい」
「お前もな」
二人とも鼻が赤くて、目が腫れていた。
ひなが少しだけ笑った。笑ったと思ったらまた泣きそうな顔になって、けいの服を掴んだ。
「……お腹、すいた」
「おれも」
「なんか作って」
「味噌汁くらいしか無理だぞ」
「いい」
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台所に並んで立った。
けいが湯を沸かして、ひなが冷蔵庫から豆腐を出した。味噌はどこだ、と聞いたら、ひなが「そこ」と棚を指さした。奈緒がいつも使っていた味噌。
二人分の味噌汁を作った。
テーブルに向かい合って座る。湯気が立っている。
「いただきます」
「いただきます」
味噌汁を一口すすって、ひなが言った。
「薄い」
「うるさいな」
けいも一口飲んだ。確かに薄かった。奈緒はいつもちょうどよかった。
「――お母さんの手紙、なんて書いてあった?」
けいは椀を置いた。少し考えて、言った。
「お前のこと、よろしくって」
ひなは黙った。しばらくして、鼻をすすった。
「……そっか」
静かな台所に、時計の音だけが響いている。
けいは味噌汁をもう一口飲んだ。薄い味噌汁が、喉を通っていった。
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食器を洗い終えて、ひなが二階に戻ろうとしたとき、けいが呼び止めた。
「ひな」
「ん?」
「明日の弁当、いるか」
ひなが振り返った。少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「いる」
「冷凍食品だぞ」
「いい」
ひなが階段を上がっていく。途中で振り返って、言った。
「おやすみ、お父さん」
「おやすみ」
足音が遠ざかる。ドアが閉まる。
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一人になった台所で、けいは手紙をもう一度広げた。
最後の一行を読む。
「ひなのこと、よろしくお願いします」
便箋を畳んで、封筒に戻した。
――よろしくなんて、簡単に言うなよ。
口の中でそう呟いて、封筒を胸ポケットに入れた。
明日は早く起きなければならない。弁当を作る。冷凍食品でいい。奈緒がそう言っていた。冷凍食品でいいと。
台所の電気を消す。暗くなった部屋に、窓から月の光が差している。
奈緒のエプロンが、椅子の背にかかっていた。
けいはそれを手に取って、少しだけ顔を近づけた。柔軟剤の匂い。奈緒の匂い。
エプロンをきれいに畳んで、棚にしまった。
明日の朝、使う。




