【新馬戦①】メイクデビュー・新潟
2025年8月23日、土曜日。第5レース、2歳新馬。芝・外回り1600メートル。絶好の良馬場。
今日は、クロノドラクロワ(牡2、栗林厩舎)のデビュー戦。
体調は万全。毛づやも黒々として申し分ない。
馬体重は510キロ。若駒にしてはかなり大きいが、動きに重さはない。まだまだ育ちそうだ。
枠は大外、8枠13番。一番端っこだ。新馬戦の白いゼッケンに、「13 クロノドラクロワ」と黒い文字が入っている。
これまで幾度となく新馬戦を経験してきたが……やはり、胸が熱くなる。
栗林誠はスーツにネクタイを締め、ドラクロワの手綱を引いていた。通常は厩務員がパドックで馬を引くのだが、今回は思い入れのある馬なので誠の方から引き役を申し出たのだ。
その頃、控え室で柚木慎平は静かに精神を整えていた。8枠の色、ピンクのジョッキーヘルメットを手に目を閉じる。
着ているのは、何度も身にまとってきた勝負服。黒胴に白の二本輪。白袖に、灰一本輪。黒木牧場が開場して今年で50年。変わらぬデザインで受け継がれてきた、クロノレーシング誇りのモノクロの装いである。
夏真っ盛りの新潟競馬場のパドック。東京よりは幾分マシとはいえ、馬にも人にもこたえる暑さ。
ましてや、ドラクロワの馬体は漆黒。太陽の熱をぐんぐん吸い込む。
誠は内心ヒヤヒヤしていた。馬がバテやしないか。観客の鋭い目線より、体温の方が心配になる。
周囲にはまだ落ち着かない若駒たち。
厩務員に甘えたり、そわそわと尻尾を振って頭を揺らしたりしている。デビュー間もない初々しさと、走る前の緊張感が入り混じっているようだ。
クロノドラクロワの新聞での前評判は4番人気。
成長がやや遅く、テンのスピードも遅め——"ズブい"。その辺りが懸念材料だった。
だが現時点での馬体は、成長途上ではあるが申し分ない。1600mを走りきるパワーは、最低限どころか充分にある。それで4番人気なら、まあ、いいだろう。
当日の踏み込みの良さと艶やかな毛並みが目を引いたのか、直前の単勝オッズは5.5倍。2番人気に浮上していた。
新潟は直線が長く、馬群も割れやすい。大外枠でも、そこまで不利にはならない。むしろ、外から自由に動ける利点もある。
人気通りの着順が出やすいこのコースで、今日この状態なら——
デビュー戦で「よもや」も、十分にあり得る。
……とはいえ、浮き足立ってはダメだ。落ち着いて。落ち着いて。
誠はドラクロワとゆっくり歩を進めながら、自分にも言い聞かせていた。
ドラクロワはややそわそわしている。だが、その様子はどこか違って見えた。兄・アトリエのときのような無邪気な浮かれではない。
これは——わかっている。自分が、これから"戦う"のだということを。どこか、凛とした緊張が馬体に張りついている。
と、不意に目をやった観客席の後ろの方。背の高い頭が、三つ。そのうちの一人——長男・穣が、こちらに向かってひょいと手を振った。
東京の黒木家の三つ子だ。周囲への配慮から、一番後ろに立っている。長身という武器を活かして、悠々とパドックを眺めていた。
三人とも、今日はスーツ姿。
穣は落ち着いたワインレッドのネクタイ。
岳は涼しげな淡いブルー。
律はからし色の、やわらかな黄色。控えめながら、個性の出た選び方だった。
パドックの残り時間が少なくなり、2代目牧場長でクロノレーシングの現代表・黒木渉がやってきた。
黒木牧場は、「オーナーブリーダー」だ。競走馬の生産から育成、そして所有する馬主までの全てを兼ねる。だから、牧場長の渉が馬主も務めている。
小さな牧場の場合だと、馬を生産するだけで育成は他の牧場に委託することが多い。また自分では馬を所有せず、馬主に売却することで馬はレースに出られる。
「よう、マコ。あの子らな、特等席——馬主席に案内するよ。何たってドラクロワの名付け親だからな」
「へえ……そりゃ気合入ってると思った。あの服装だもん。
やっぱデカいとスーツ似合いますね。穣くんなんか、あのまま就活行けそうですよ?中学生だけど」
気負いを紛らわせるように、誠が軽口を叩く。
ちょうどそこへ、ジョッキーたちが歩いてくる。柚木慎平も、その中にいた。
静かに、穏やかに。だが、引き締まった勝負の空気をまとって——クロノドラクロワのもとへ歩み寄ってくる。
「慎平、落ち着いていけ。馬はやる気出してくれてる。
余計なことは考えなくていい、いつものお前をしっかり出していけ。
……ま、お前に言うのも釈迦に説法だけどな。安全第一、騎乗が第二、結果はその次。無事に帰ってこいよ」
「ああ」
その返事は、短く、低く。だが、迷いはなかった。
誠が足を支え、柚木はスッとドラクロワの背に跨がる。
その瞬間、パドックにぴりりとした緊張が走った。馬体が軽く揺れ、ぐっと収まりがつく。
——馬も、理解している。今、背中に乗ったのが誰かを。
誘導馬がゆっくりとやってくる。1番ゲートの馬から順に、ゆるやかに歩き出した。まだ慣れない足取りの新馬たちが列を作るなか、大外13番、クロノドラクロワはしんがりを務める。
「……ほら、ドラクロワ。先生たちが来たぞ。ちゃんと付いてけ。
じゃ——行ってこい」
その言葉に、ドラクロワの耳がぴくりと動いた。歩き出すその黒い馬体は、先ほどよりも一段と引き締まって見えた。
馬主席に案内された三つ子。夏でもジャケットにネクタイ、革靴が求められるその特別な空間には、ゆったりとした空気のなかに、ほんの少しの緊張感がスパイスのように紛れている。
三つ子の珍しさ——いや、その「大きさ」に目を引かれたのか、周囲の馬主たちが黒木渉に声をかけてきた。
「これはこれは、黒木さんじゃないですか。……そちらの若い方々は? お子さんは確か、もう大学をご卒業されたとか。甥御さんですか?」
その空気を察したのか、長男・穣がすっと一歩前に出た。
「はじめまして、黒木穣と申します。中学2年生、13歳です。叔父がいつもお世話になっております。
今日は僕たちの我儘で、叔父の手を借りてこのような貴重な空間に招いていただきました。不慣れな点も多く、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、何卒ご容赦ください。よろしくお願いいたします」
言葉遣いも、口調も、完璧だった。
続けて、岳と律も丁寧に自己紹介をし、三人そろってぺこりとお辞儀をする。
角度は斜め45度。型通りでありながらも自然な、礼儀正しい一礼だった。
——さすが、高円寺の寺院跡に建つ大邸宅の住人たち。完璧なアドリブ対応。
偶然とはいえ名字も同じとくれば、周囲の馬主たちもすっかり信じてしまった。
「いやはや、立派な甥御さんじゃないですか。これで中学生とは……楽しみですねぇ」
「羨ましいねえ、黒木さん」
「ああ、まぁ……」
渉は曖昧に笑いながら、三人にそっと耳打ちした。
「今日だけは、"おじさん"って呼んでくれ。
俺も……ちょっと面白くなってきた」
三人は顔を見合わせて、ニヤリ。
馬主席で子供のように結託する、血の繋がらない"叔父"と"甥たち"。
レースは、もうすぐ始まる。




