表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

勝利の美学について



柚木(ゆのき)慎平。


37歳。騎手歴19年。

安定した騎乗で、淡々と仕事をこなす職人型のジョッキー。

負けることはあっても、大敗はしない。どんな馬でも、なにかしらの"結果"を出してくる——そういう手綱を持つ男だ。

だが、そのキャリアにおいて、今も消えない"心の傷"が二つある。


ひとつは、治ってもなお痕が残る切り傷。10年前、未勝利牝馬・ウイングノアの予後不良。

もうひとつは、痛みこそないが、しつこく現れては消えるニキビのようなもの。消えたと思えばまた浮かび上がってくる。

……1年前。そのノアに生き写しとも思えた、クロノアトリエとの8戦。


ウイングノアの時、自分は珍しく「勝ちたい」という感情を持ってしまった。

普段の自分なら、そんなものは邪魔になるだけだと切り捨てていた。

淡々と、正確に、丁寧に。

無駄なく乗る。それが最優先。

気負わず、焦らず、自然体で。


結果なんてものは、全て"その先"に付いてくるものだと、そう信じてやってきた。

事実、それで十分やってこれた。

毎週、何かしらのレースで勝ち鞍を挙げ、通算1300勝。重賞も70勝あまり。

これだけ勝っておいて何故かG1だけは獲れていないが、それで侮られる立場ではない。

リーディングでも常に上位にいる。周囲も己も、その安定を誇ってきた。


……なのに。


ウイングノアだけは、違った。

「勝たせてくれ」と言われた。馬主の気持ちはわかっていたし、責める気など微塵もない。

だが、自分はそこで流儀を曲げてしまった。

勝たせようとした。勝ちにいった。余計な感情が、いつもの自分を鈍らせた。

そしてノアは、ターフに散った。


それからというものの、「勝ちたい」という気持ちに対して、これまで以上にブレーキがかかるようになった。


だから——それが完全な言い訳だとわかっていても、クロノアトリエを見たときには心臓がキュッとなった。


こんなに気持ちが揺れるのは、10年ぶりだった。

胸がざわつき、自分らしさが遠のくのがわかった。

だからこそ、怖くなった。


勝たせようとも、勝たせたいとも、最後まで思えなかった。

結果、掲示板までは運んだが……勝つことはできなかった。勝たせてやれなかった。


自分はこれまで何度も、「未勝利馬の初勝利」に立ち会ってきた。

リステッド、重賞目前の馬をあと一押しで勝たせたこともある。

引退間際の馬に、最後の花を咲かせてきたことだってある。

大穴を掲示板にねじ込んでみせたことも一度や二度じゃない。

多少"勝てない"馬なら、自分の流儀で勝たせることができた。


……なのに。

アトリエだけは、どうしても勝たせられなかった。


ドラクロワは——ありがたいことに、兄よりも"勝つ気"がある。

だから、自分が変に気負う必要はない。余計な感情を持ち出さず、ただいつも通りに乗ればいい。

無駄なく、丁寧に、正確に。


そうすれば——

今度こそ、自ずと"結果"は、あの馬の背に舞い降りてくるはずだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ