兄より優れた弟
厩舎の空気が一瞬、止まった。
三人の巨体が並び立った瞬間、そこにいた全員が思考を一時停止したようだった。
厩務員たちは首を傾げ、調教助手は額に汗を浮かべ、誠は遠くを見ていた。
康成だけが、かろうじて現実を飲み込もうとしている顔で腕を組んでいる。
だが、口は開かない。言葉が出てこないのだ。
その中で、最もはきはきとした声が場を切り裂いた。
「……あっ、すみません。皆さんに紛らわしい思いをさせてしまわないように——名札、作ってきましたから!」
そう言って得意気に胸元を指さしたのは、三つ子のうちで一番声が通る少年。
白い紙に“ジョウ”とマジックで大きく書かれた名札が、胸にどんと貼られていた。
その横には“ガク”、“リツ”という兄弟たち。三人揃ってまるで競走馬の……新馬戦のゼッケンのような馬鹿でかい名札を付けて立っている。
それを見た康成が、やや困惑気味に唸る。
「……なんだぁ? この壮大な自己紹介は……」
苦笑交じりの声が漏れた瞬間、やっと周囲も空気を吸い直した。
だが、誰もが心の中でこう叫んでいた。
(いや……名札とか、見分けられるかとか以前の問題で……“デカさ”……!)
確かにゼッケン風の名札はありがたい。三人は瓜二つで、区別は難しい。
だがその前に、彼らは中学生には到底見えない。180センチを越える長身に、まだ声変わりしていない柔らかな声。顔も手足もまだ子どもらしいのに、サイズ感だけは完全に大人——いや、馬に近い。
そして何より、その三人が全く同じ身長で並ぶことで、威圧感が生まれていた。
誰かがぽつりと呟いた。
「……なんか、馬体検査でも始まりそうだな……」
その言葉に、場がようやくふっと和んだ。
三人はずらりと並び立っていた。
長男の穣は、やはり兄らしく堂々としている。胸を張り、相手の目をまっすぐ見る姿は、誰が見てもリーダー格だとわかる。
次男の岳は、どこかクールで表情が読めない。目線が泳ぐこともなく、淡々と厩舎の設備を観察していた。
そして三男の律は、にこにこと柔らかい笑みを浮かべており、その巨体とのギャップがどこか愛らしい。
三者三様。しかし、三人並ぶと、やはり“同じ顔”の迫力がある。
それに加えて全員が190センチ近いとなると、最早ただの中学生ではない。
それを見ていた誠が、ぽつりと呟いた。
「……13でこれって……仔馬みてーだな。三人いるし、セレクトセールでも始まりそう」
その言葉に、厩舎の関係者たちが一斉に吹き出した。
「ちょ、牧場長に聞かれたら怒られますよ……」
「いや、でも確かに……馬房に並べたら価格表付けたくなるわ」
「"父・ディープインパクト、母・クロノなんとか"ってか?」
「いや、体格いいから父はキタサンブラックがいいんじゃないスか。賢そうだし、良血でしょ」
冗談交じりに笑い合う関係者たち。厳しい調教の現場も、この日ばかりは和やかだった。
だがその輪の中心で、当の三つ子は顔を見合わせて小首をかしげる。
「???」
彼らは“セレクトセール”や“仔馬”が、自分たちのことだとはわかっていない。
けれど、そのわからなさすらも、どこか無邪気で場の空気を柔らかくしていた。
誠はその様子を見て、思わず笑みをこぼした。
「ま、いいや。とりあえずトレセンを案内するよ。ドラクロワは今、調教中だから会うのは後にしよう」
三つ子たちは目を輝かせ、誠のあとについていった。もちろん厩舎を出る時に、スタッフにきちんとお礼を言うのを忘れなかった。
北海道・日高の実力派中堅牧場、黒木牧場の二代目・黒木渉。
クロノドラクロワに会いに、東京からやってきた「もうひとつの黒木家」の三つ子たちを見て、ひとり考え込む。
厩舎やトレセンを見学して回る三人の後ろ姿を、少し距離を取りながらじっと見つめる渉。
——体も、スケールも大きい。
中学生にして190cm近い巨体。けれど、細身で声変わりもまだ。顔つきは年相応の、どこにでもいそうな思春期の少年たちだ。
まるで身体ばかりが先に育った、未完成な2歳馬——若駒のよう。
聞けば、三人は私立の中高一貫・名門男子校に通っているという。なるほど、のびのびとしながらも育ちの良さと聡明さがにじむのは、そのせいか。
長男は将来有望そうなリーダー気質の少年だ。堂々と先頭に立ちつつ、目立ちすぎることはなく、弟たちをさりげなくフォローする。礼儀も行き届いている。
次男は寡黙だが、時折鋭い発言を挟む。観察力に優れた参謀タイプかもしれない。
三男は末っ子らしく天真爛漫で人懐っこいが、自分の魅力をきちんと理解し、それを自然に使っている。侮れない策士だ。
三人の服装はおそろいの、某・国民的ファストファッションブランドのもの。紺のポロシャツに黒のジーンズ。
年齢に不釣り合いな華美な服は避けつつ、きちんと襟のついたものを選んでいる。TPOをわきまえた、親の教育の賜物だろう。
しかも、この猛暑の中でも長ズボンを着用しているとは……
誰に言われるでもなく、肌の露出を避け、安全な服装で馬に会いに来ている。そこまで意識が行き届いていることに、思わず脱帽した。
それにしても……
息子三人を私立の名門校に通わせ、姉もいるとなれば、彼女もまた同様の教育環境だろう。
そのうえクロノアトリエを迎え入れ、高円寺の自宅の敷地内に馬房まで建ててしまうとは。
サラブレッドを飼える家庭など、そうあるものではない。ましてや、子ども四人全員を私立校に通わせられる経済力……
親は、代々の地主か、よほどの資産家か。
そう考えれば、彼ら三兄弟が少年らしさを保ちながらも、どこかスケールの大きさを感じさせるのは、自然なことなのかもしれない。
まるで、その家に流れる「土台の強さ」ごと、彼らの中に根づいているかのようだった。
誠にトレセンを案内してもらう三つ子の穣、岳、律。
普段は関係者しか入れない場所を見学させてもらい、三人は胸を高鳴らせていた。
とはいえ、はしゃぎすぎることもなく、大声を出さないようきちんと気を配っている。
そのとき。
自己紹介と挨拶以外ほとんど喋らなかった岳が、すっと手を挙げた。寡黙だが観察力の鋭そうな彼は、どこか柚木慎平を思わせるところがある。
「栗林さん。僕たち、少し予習をしてきたんですけど……
たとえば、競馬では母親が同じじゃないと“兄弟”とは認められないとか。父親まで同じだと“全兄弟”、違えば“半兄弟”だとか」
「おお、よく知ってるな。俺たちに言わせれば──君たち三つ子は筋金入りの全兄弟だね」
「はい。……それで、アトリエとドラクロワは半兄弟ですよね」
岳は間を置き、視線をまっすぐ誠に向ける。
「……ドラクロワ、お兄ちゃんを超えられますか?
兄より優れた弟になれますか」
一瞬、誠は言葉に詰まった。
三つ子の真ん中、次男の岳は──兄でもあり、弟でもある。その立場ゆえの問いなのかもしれない。
誠は思案する。
たしかに、弟ドラクロワには、兄アトリエにはなかった競走馬らしさがある。闘争心がある。
抜かれたら悔しそうにギアを上げるし、父・シビルウォー譲りのパワーと粘りも持っている。
成長はややゆっくりだが、仕上がればアトリエより上にいく可能性は十分にある。少なくとも──未勝利で終わることはないだろう。
けれど、断言はできなかった。
「……はっきりとは言えないね。
でも、お兄ちゃんよりはずっと負けず嫌いだよ。持ってるものも悪くない。
でもな──ほかの馬たちも、勝つために必死で頑張ってる。今日の見学でも、そういう馬たちを見ただろ?」
そこで少し間を置いて、誠は問いかけた。
「ところでさ。毎年、日本では大体8000頭くらいのサラブレッドが生まれてるんだけど──その中で、デビューして勝ち上がれる馬って、何割くらいだと思う?」
岳は小さく息を整え、静かに答えた。
「……それも調べました。3割です。
勝てるのは、3頭に1頭だけ。7割の馬は、アトリエみたいに……一度も勝てずに終わる。
僕らの中で残れるのが1人だけだとしたら……それって、けっこうシビアですよね」
誠は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな。よく調べてる。
だからこそ、ドラクロワの持ってるものを最大限に引き出すために俺たちがいるんだよ。
みんな、本気で馬を勝たせたいって思ってる。もちろん、この世界には大きな金が動くし、ギャンブルでもある。
けどな──その根っこにあるのは、すごくシンプルな気持ちなんだ。ただ、理想だけで走り抜けられるほど、甘くはないけどな」
その「甘くない世界」を、誠はその時点では全て語ろうとはしなかった。




