スナップ、喰いついた
事務室のラジオから、パドック中継が流れている。
《……1番、悲願のG1制覇へ、アンシャルロット……単勝58.9倍。……2番、一昨年のNHKマ……カップ覇者、シャンパンタワー。2年ぶりに勝利を掴めるか、単……121.9倍……》
『何か、上位と下位で随分人気に差があるんだな』
クロノドラクロワは、ぽつりと呟く。
『G1って、みんな強い馬が出るんじゃないのか……?』
ドラクロワにとって、G1はまだ遠い世界だった。
年末には2歳馬にとって初めてのG1レースがある。だが1勝クラスすら突破できない今の力では、夢のまた夢だ。
《……3番、スーパースナップ。昨年の京王杯スプ……カップを制するも、今年に入ってからは掲示板外と苦戦中。単勝は130.8倍……ガガガガ》
『けっ!』
ドラクロワが鼻を鳴らした。
『あの噛みつき馬、130倍だと。負けるのがわかってるのに、何で出るんだろうな。陣営も陣営だよ。もっと勝負になるレースに出しゃいいのに』
その瞬間。
『ちょっと待てよ』
さっきまで穏やかだったシングインザレインの声が、急に低くなった。
『君、それ……どういうつもりで言ったんだ』
『え、あ……』
ドラクロワは少し戸惑う。
『だからさ、負けるのがわかってるなら……G2とかG3とか、もっと勝てそうなレースに出た方がいいんじゃないかって……』
『勝てる?その確信はどこから来るんだよ。G2でもG3でも、強い馬はいくらでもいるぞ。君はそういうレースに出たことがないのに……どうしてそんなことが言えるんだ』
『…………』
ドラクロワは言葉に詰まった。
『それに』
シングインザレインは続ける。
『スーパースナップをバカにしてるってことは……僕のこともバカにしてるってことだ』
『は?何でだよ』
ドラクロワが慌てて言う。
『ちげぇよ。あいつとお前は別だろ。お前、あいつみたいに気性荒くないし、噛まないし』
『いや、違わないね』
シングインザレインはきっぱり言った。
『僕もスーパースナップも、今日のレースに出るために必死に走ってきた。出走する資格を得るために、勝って自分のクラスを上げた。前哨戦に出て、賞金を加算してきた。そうやって、ステップアップを重ねて……やっとG1の舞台に立てるんだ』
少し間を置いて、シングインザレインは続ける。
『もちろん、すごく強くてポンポン勝ち上がる馬もいると思うよ。運のいい馬だっているだろう。だけど多くの馬は、何回も壁を越えて、ようやく大きなレースに出られるんだ。君は……そこまでしたことがあるのか?』
『……調教、頑張ってる』
ドラクロワは小さく答えるが、シングインザレインはため息をついた。
『そんなの、全部の馬がやってることだろ。規定の時間しかやってないなら、それは頑張りじゃなくて義務だ』
しばらく沈黙してから、ドラクロワは言葉を絞り出した。
『頑張る、頑張るって……そんなに偉いのかよ。結局お前は、G1に出られなかったわけだし。あとで辛くならないのか』
シングインザレインは、静かに答えた。
『偉いわけじゃない。ただ——何もしていないやつに、けなされる筋合いはないよね。やらなかったら、可能性すらないんだし』
ドラクロワは何も言えなかった。
少しして、シングインザレインは首をかしげる。
『……おかしいな。1か月前の君は、レース前に怒って立ち上がってただろ。隣の馬に喧嘩を売られてたみたいだけど』
『あ、ああ……タグタグウマッコ。あいつ……』
『あの時、君は言ってたよね。"10番人気が何だ。俺は俺の走りをしてやる!!"って。あんなに勇ましいこと言ってたのに、どうして……そんなに卑屈になっちゃったんだろう』
ドラクロワは、脚元に落ちた飼い葉に視線を落としぽつりと答えた。
『……上位の馬との力の差を見せつけられたんだ。見ただろ、あのレース。あの完成度の差……あんなに強くて上手い競馬をするやつらと、俺はこの先ずっと争わなくちゃならないんだぜ。1回勝っただけじゃ、何にもならないってわかったんだ』
『そんな、今から落ち込んでてどうするんだよ!』
シングインザレインは、思わず声を上げた。
『まだ2歳だろ?たった2回しか走ってないじゃないか。これから、いくらでもひっくり返せる。それは、先輩たちを——これから始まるレースを見ればわかるはずさ』
『…………』
(ひっくり返す?)
(そんなことできるのか?条件クラスならともかく、G1だぞ。偶然で勝てるようなやつらじゃ……)
ドラクロワは黙ったままだった。
その時、再び事務室からラジオの実況が流れる。
《ガガ……それでは、第42回マイルチャ……オンシップ、発走までもうしばらくお待……くださ……》
それまでざわついていた馬たちが静まり返る。厩舎の空気が張り詰めていた。
◇◇◇
『クソッ!!ラジオの音がよく聞こえねぇ……!!』
ドラクロワは、馬房の柵に首を押し付けるようにして叫んだ。
『何だって、あんなボロボロのやつを買い替えないんだ!!この厩舎、結構稼いでるんだろ!?』
必死に首を伸ばす。
だが、馬房が角部屋なせいで事務室から一番遠い。ただでさえ途切れ途切れの実況が、さらに聞き取りづらくなっていた。
ラジオはジジジ……と雑音を吐きながら続く。
《京都競……第11レース、本日のメインレースは第42回マイ……ャンピオンシップ(G1)。芝1600メートル、コンディションは……ガガガガガ!!》
『おいおいおいおい!!』
ドラクロワは思わず前脚を振り上げた。
『あのラジオ、先代のボスの頃からあるからなぁ』
音をかき消さないように、シングインザレインはそっと囁く。
『もう40年くらい使ってるんだってさ。買い替えようって話も出ないんだよ。最近は若いスタッフ、みんなスマホで見てるよ。映像もあるし』
と、急にラジオの音はクリアになった。
《……各馬ゲートインを終え……さあ、春秋マイル制覇か、前王者か、3歳の乙女か——スタートしました!!
さあ——やはりポンと飛び出したのは①アンシャルロット、ここは宣言通り逃げです。アンシャルロット逃げ!!
その後ろ、1番人気⑮グリニッジアースこれは絶好のスタートを切りました。2番人気の⑰ドライスロットも今日は出遅れありません。
おっと……⑮グリニッジアース早め2番手に付けた!!先頭①アンシャルロットとは3馬身の差!!
それに付いていった3番手は②シャンパンタワー。世代を超え2年ぶりのマイル王に輝くかシャンパンタワー、勝利の祝杯あげられるか!差がなく4番手には⑫ウインカルーセル、半馬身離れて③スーパースナップとベテランの重賞馬が続きます。
さて1馬身離れて中団いきましょうか。紅一点3番人気⑤スタンドバイミー、屈強な男馬に交じっても恐れは全くなし、これが新世代のマイル女王!鞍上は豪州の女傑H・バレット、どこか楽しそうに手綱を操っています。何と……笑っているように見える!
外には⑦アマゾンジャックに④エフテリング、⑬ロードダイナーは少々かかり気味か。その後ろ、2番人気⑰ドライスロットここにいました!ドライスロットすぐには上げません、じわじわ脚を溜める!
白い馬体の⑧ミラガイア、今日は控える作戦。そして⑨フェアルークスが、いま後方集団から抜け出し中団まで上がっていきました。
先頭アンシャルロット、早くも3コーナーに差し掛かり前半800mを通過した、45秒台!!45秒台、リードは広がって5馬身、さらにペースをあげるかアンシャルロット》
ドラクロワは焦れて言った。
『……スーパースナップ、どうなんだ?音だけじゃ全然わかんねぇぞ』
『シッ』
シングインザレインが耳を立てる。
『……今、17頭立てで……先頭から5番目くらいらしい。悪くないと思う』
『何でわかるんだよ』
『実況が何も言ってないから』
『え?』
『スナップ、歯をカチカチ鳴らす癖あるだろ。噛み合わせが悪いんだよ』
『あ、あぁ……あの不気味なやつ』
『あれが出ると実況でも言われる。でも今は言われてない。ってことは——ハミ(馬の口にかませる金属の棒。騎手が手綱を通して馬に指示を出す)受けができてる。レースに集中できてるんだ』
《さあ後方集団、最後方の⑭カルカンを残して全員じわじわ上がり始めました。一気に上がった、中団は大きな団子状態!ちょっとこれは詰まり気味です。
揉まれるのを嫌ったか、押し広げられるように横に広がっている。⑤スタンドバイミー、やや外に回される形になりました!これが吉と出るか凶と出るか、乙女に試練が降りかかります。
4コーナー過ぎて先頭は以前①アンシャルロット!!リードは5馬身、しかしここで先行集団もついに動いた!!
来ました⑮グリニッジアース、満を持して主導権を奪いに来ました!!堂々抜け出した、あっという間に①アンシャルロットを捕らえた!!①アンシャルロットここまでか、明らかに失速しています——
その後ろは明暗分かれた、③スーパースナップまだ喰いつく!!まだ止まらない!!⑫ウインカルーセルと②シャンパンタワーは伸びが悪い!!》
シングインザレインは声を上ずらせる。
『ほら!!まだ先頭集団にいる!!もしかしたら……!』
『マジ……?あいつ、勝つの……』
《残り200mを切って⑰ドライスロットに⑤スタンドバイミー、そのあと⑧ミラガイア!中団の魔窟から抜け出し襲いかかる!!標的は2番手の③スーパースナップ、その差は2馬身を切った!!スーパースナップ危ういか!!喰われるか!!》
ドラクロワは思わず声を張り上げた。
『スナップ!!噛みつけ!!』
『前に噛みつけ!!』
『後ろなんか気にするな!!追え!!』
《先頭は⑮グリニッジアース!!だがスタンドの歓声はそのすぐ後ろ——4頭の熾烈な追い比べ!!
③スーパースナップまだ粘る!まだ伸びる!必死に喰らいつく!!⑮グリニッジアースに届くか!!父ダノンシャークとの親子制覇なるか!!》
《喰うか!!》
《喰われるか!!》
《喰うか!!》
《喰——》
《ガガガガガガガガガ!!!》
ラジオが突然、爆音のノイズを吐いた。
『ええええええ!?!?』
ドラクロワが叫ぶ。
『おぃぃぃぃ!!!ここで壊れんな!!!』
《ガガガ……ビー……》
『このオンボロめぇぇぇぇ!!』




