灰色の紳士
そのまた翌週――11月3週。
クロノドラクロワは、朝からどこかうきうきしていた。
なぜなら、あのおっかなくて不気味な噛みつき馬。スーパースナップが今日はいないからだ。
小春日和の暖かな昼下がり。付けっぱなしの古いラジオから、パドック中継が聞こえてくる。
《……京都競馬場、本日のメインレースは第42回マイルチャンピオンシップ(G1)です。……年も、秋の彩りに負けずとも劣らない多彩なメンバーが揃いました。
現在の単勝1番人気は15番グリニッジアース。春秋マイル制覇に期待がかかります、オッズは堂々の1.8倍。2番人気は17番ドライスロット、昨年覇者で5.2倍。3番人気は……5番スタンドバイミー……7.5倍。昨年の阪神JF、そして今年の桜花賞を制したマイル女王、古馬に交じって秋の大一番に挑みます……ガガガ》
どうやらスーパースナップは、このレースに出ているらしい。
15番人気で伏兵扱いと聞いているが、同僚の馬がG1に出るとなれば、さすがに気になるのだろう。厩舎で留守番をしている馬たちは、どこかそわそわしていた。
ドラクロワもいつの間にか廊下に首を出し、事務室から漏れるラジオの音に耳をそばだてていた。
そのとき。
『ねぇ!!君、クロノアトリエの弟だろ』
ぴくり、と耳が動く。だが、目線は事務室のドア。
『ぼく、シングインザレインっていうんだ。君の叔母さん――クロノシネマの息子だよ。つまり、君の従兄だ』
『……従兄?』
ドラクロワはようやく声の方向へ顔を向けた。
はす向かいの馬房——そこには、雨雲のように濃い灰色をした芦毛の牡馬が、静かに顔を覗かせていた。
『お前、俺の兄貴を知ってるのか』
『そりゃ、従兄弟同士だもの。当歳の頃はよくアトリエと走ったよ。君も、僕の妹――スターフィーユと一緒に走ってたよね』
『よく知ってるなぁ。でも……俺はお前を知らなかったぜ?何でお前の方は知ってんだ』
シングインザレインは穏やかに笑って答えた。
『まあ、2歳馬は育成牧場にいることが多いからね。厩舎に入る前の準備施設さ。でも、僕はデビューが遅くて、黒木牧場にいた時期が長かったから……君と妹のことは、ちらっと見てたんだよ』
『へぇぇ。そう言うことか』
シングインザレインは、どこか器の大きな馬だった。4歳で古馬になり、気性が落ち着いてきたのもあるだろう。
だが、2歳のドラクロワに呼び捨てにされても怒らない馬は初めて見た。これが他の古馬だったら、罵声と蹴りが飛んでくる。
『あんた、黒木牧場の馬だったのか。わからなかったよ……冠名がついてないから。"クロノ◯◯"って名前じゃないだろ』
『ああ、それは理由があってね』
シングインザレインは、少しだけ遠くに視線を移す。
『僕がデビューした年ってね。ちょうど母さん――クロノシネマが亡くなった年なんだ』
『覚えてるよ。俺とスターフィーユが生まれた年だろ』
ドラクロワは鼻を鳴らすと、少し不機嫌そうに言った。
『……言いたかないがさ。あんたたちのお袋が死んだせいで、俺は幼少期にロクな思い出がないんだぜ。俺の母さんが、"フィーユもあなたと一緒に育てる"とか言い出してさ。生まれたばかりなのに、いきなり"妹"ができた気分、わかるのかよ』
ドラクロワの脳裏に、ある光景が浮かぶ。
放牧地での初めての敗戦。それまで負け知らずだった彼は、"妹"スターフィーユとの勝負で初めて土をつけられた。
あの時、ドラクロワの実母・クロノマキアートは、なかなか打ち解けられない2頭に勝負をするように言った。彼女の思惑が当たったのかは不明だが、それ以降2頭はしょっちゅう放牧地で競走に明け暮れるようになった。そして現在、同じ厩舎に所属している。
『そんなこと言ったって、しょうがないだろ。繁殖牝馬ってのは命がけなんだから』
シングインザレインは静かに言った。
『母さんが亡くなったから、験直しってわけでもないけどさ。"希望を持とう"って意味で、冠名はあえて付けなかったらしいよ』
灰色の馬体を軽く揺らす。
『僕、芦毛で灰色だろ。それに雨の日に生まれたから、母さんの"シネマ"から連想して「雨に唄えば(Singin’ in the Rain)」っていう映画から取ったんだって』
『へぇ……あ、そう言えば、あいつ――フィーユも冠名ないな』
『そうだね。似たような理由じゃないかな。母さんが遺した最後の子だから』
シングインザレインは優しく頷いた。
ドラクロワは再び、ラジオに耳を向ける。
『なあ、知ってるか?あの噛みつき馬、今日のレースに出てるらしいぞ』
『うん、そうみたいだね。朝からスタッフの人たち、おめかしして気合い入ってたもん。何たってG1だもの』
シングインザレインは小さく笑ったが、同時に少しだけ声を落とした。
『……ほんとはね、僕も登録されてたんだ。けど、賞金加算できなくて除外になっちゃってさ……ハハ』
自嘲気味に言うが、その前肢は悔しそうに寝藁を引っ掻いている。
『前走で着順が1つ上だったら……出られてたのに。そしたら、ここにいなかった。僕だって、あの舞台に……』
灰色の紳士は、静かにそう言った。
シングインザレイン(Singin’ ln The Rain)
2021年生 牡4 芦毛
父:ディープブリランテ
母:クロノシネマ
母父:ノールブラック
生産牧場:黒木牧場(浦河町)
馬主:クロノレーシング
勝負服:黒、白二本輪、白袖灰一本輪
戦績:10戦4勝(4-1-1-4)




