前門の尻、後門の牙
「よし、ドラクロワ」
康成は手綱を軽く引き、前方を顎で示した。
「今日はてめぇの、すぐカッカするところを徹底的に潰すぞ。こいつらと一緒に走れ」
クロノドラクロワの前には、すでに4頭の馬が並んでいた。縦一列に並び、静かに待機している。
どの馬も500キロを優に越す筋骨隆々の巨体。血管の浮きも凄まじく、重賞を戦ってきた風格がある。その迫力に、ドラクロワは思わず一歩引いた。
(おいおい……)
(なんだよこのガチムチ軍団)
(俺よりでけぇ)
康成は平然と説明する。
「俺の厩舎を支えてくれている重賞馬たちだ。ドラクロワ、お前は3番目に並べ」
手綱と足の合図が入り、言われるままにドラクロワは列へ加わった。前に2頭、後ろに2頭。巨大な馬体に挟まれる形だ。
(でっっっか)
(前が見えねェ)
康成は満足そうに頷いた。
「今からやるのは——縦列調教だ。馬群の中で揉まれることに慣れる練習だな」
(マジか)
(こんなガチムチの間で??)
ドラクロワの目の前には、はち切れんばかりの筋肉の塊——ムキムキの尻。
先日の苦い敗戦が脳裏をよぎる。
(またケツかよ……)
康成の声が飛ぶ。
「いいか。この調教で一番大事なのはな、自分のペースで走ることじゃねぇ。全員のペースに合わせることだ」
そう言うと、前の馬を指す。
「お前が急げば、前の馬に追突する。玉突き事故だ」
そして後ろを顎で示した。
「逆に、お前がちんたら走れば——」
ニヤリと笑う。
「後ろの野郎にケツを噛まれるぜ。そいつは噛み癖持ちだからな」
『げ……』
ドラクロワの耳がぴくりと震えた。
道理でさっきから、お尻にイヤな汗をかくわけだ。悪い予感がしていたが、想像以上にヤバいヤツが後ろにいるらしい。
「さあ」
康成は、ドラクロワの腹に軽く足をあてる。
「噛まれたくなかったらペースを守れ。馬群の中で我慢することを覚えろ」
そして、少しだけ声を低くした。
「勘違いするなよ。俺はな、見込みのあるヤツしかびしびし鍛えねぇぞ」
先頭の馬から順に馬場へ入り、キャンター(駈歩)を始める。
「よし。そのまま2分だ――始め」
康成の合図と同時に、5頭の馬が走り出した。
ドラクロワの目の前には、でっかい尻。そしてその後ろには――おっかない噛みつき馬。
康成は現役時代と変わらぬ手綱捌きで馬を操りながら、先頭の馬に乗る調教助手へ声を飛ばす。
「あまりスピードを上げるなよ! 新入りが1頭いるからミドルペースで行け」
「了解です!」
5頭の馬は、まるで1本の線のように整然と並び、馬場を駆け抜けていく。ドラクロワは前の馬との距離を保ちながら、なんとかペースを守っていた。
だが――すでに体は白く汗ばんでいる。
その理由は……
(尻に!!!)
(生暖かい風が来るぅぅぅぅ!!!)
(噛みつき野郎の鼻息ぃぃぃ!!!)
(無理無理無理無理!!!)
後ろを走る噛みつき馬――スーパースナップ。
血走った目で、ドラクロワの尻ギリギリの距離を保って追走している。少しでもペースを落とせば、がぶりと尻を噛まれるに違いない。
かといって前に詰めようとすれば、
「押すんじゃねぇ!!バカ野郎」
という怒鳴り声と共に、ムキムキの尻が迫ってくる。
その尻の主――ドラクロワのすぐ前を走る馬が、低い声で言った。
『黒いの。お前、俺のケツの穴にキスする気か?
やめとけ。趣味悪いぞ』
(違います違います違います)
ドラクロワは慌てて首を引っ込める。
その時、前から怒鳴り声が飛んできた。
『どうだ、新入り。我慢しろ!!』
ドラクロワの2つ前――先頭を走る歴戦の古馬だ。
『レースなら、こんなもんじゃすまねぇぞ』
『…………』
ドラクロワは黙る。
古馬は続けた。
『今は嫌かもしれないが、これに動じないくらいになるんだ。そのとき初めて、お前は強くなる。
冷静に脚を溜めて――馬群を割って、自分の進路を切り開けるようになる。俺たちも、そうやって勝ってきた』
少し間を置き、低く言う。
『……ムカつくだろうがな。俺たちのボスのやり方は、確かに正しいんだ』
(た、確かに……)
ドラクロワは必死に走りながら考える。
(無駄なく走れば、もっと直線でパワーを使える)
(この前だって……勝てていたかも……)
だが。
――ぶふっ
次の瞬間。ドラクロワの尻に、熱い鼻息がかかった。
『無理ぃぃぃぃぃ!!!!』
『いやぁぁぁぁぁ!!!』
スタンドから観察していた誠の目に映ったのは――
発汗しながらも必死にペースを守って走る、良いのか悪いのかよくわからないドラクロワの姿だった。
誠は思わず呟く。
「……何だあれ」
「調教は上手くいってんのか?」
その横で、厩務員の桃田が肩をすくめた。
「まあ……大丈夫なんじゃないですか。うちのボスがやってるんですし」
縦列調教は、実際の競走馬の調教でもよく行われている方法です。馬に忍耐力を付けさせるのに非常に効果的な調教で、あのフォーエバーヤングも海外遠征に向けて縦列調教をしていたといいます。
スーパースナップ(Super Snap)
2020年生 牡5 芦毛
父:ダノンシャーク
母:キラーホエール
母父:タートルボウル
生産牧場:下坂部牧場(新ひだか町)
馬主:有限会社海山商事
勝負服:黒、黒袖白一本輪
戦績:18戦6勝(6-2-1-9)




