強くなるためのお勉強
2025年11月、第1週。
前走・百日草特別(1勝クラス)を8着で終えたクロノドラクロワは、ひとまず美浦の栗林厩舎へ戻っていた。体調を整え、年末あたりにもう1戦。それで2歳シーズンを終える予定である。
そして、その次の戦いに向けて——陣営はすでに動き出していた。
事務室の古ぼけたローテーブルを囲み、タブレットを睨む。そこに映し出されているのは、先日の百日草特別のレース映像だった。
「あ、ほら。ここですよ。……あー、完全にかかってますね」
厩務員の桃田が、レース開始から35秒ほど——600m地点のところで映像を一時停止させる。
画面には、獅子舞のように首を振り上げて走るドラクロワと、腰を高く浮かせて手綱を引く柚木慎平の姿。その凄まじい暴走っぷりに、栗林誠は軽く頭を抱えた。
「道中の折り合いが、まるでなってないな」
厩舎のボス——栗林康成が低く言う。
「興奮したせいで、無駄に体力を使ってる」
言葉どおり、ドラクロワの馬体は汗で白く泡立っていた。口元からはアブクも噴き出している。
「でも、最後の直線でちょっぴり伸びてましたけどね」
桃田が画面を見ながら言う。
「人気よりは上の着順に来たわけですし。って言っても、10番人気で8着ですけど」
「そこだよ」
康成は桃田の方へ体を向けた。
「根性はやたらとある。だが無駄が多すぎるんだ。もったいない走り方なんだよ」
そして、画面を指差す。
「これだけひどい走りでも、しんがり負けしなかったのは——柚木が、とにかくロスなく走らせることに徹したからだろう」
今度は康成がパトロールビデオを再生する。斜行や妨害の判定に用いる、馬群全体の動きを記録したレース映像だ。
「見てみろ。ほとんどの馬の走りは、ちょこちょこ左右によれてるだろ」
確かに、他の馬たちは体を揺らしながら走っている。細かく左右にぶれ、コース取りにも微妙なロスが生まれていた。
しかし——ドラクロワだけは違った。
大きな黒い馬体が、一本の線をなぞるように真っ直ぐ走っている。まるでレールの上を走っているかのようだった。
誠は思わず息を吐いた。
「……そうか。慎平は位置取りが上手いから——
ドラクロワが出遅れた分と、興奮して無駄に体力を使った分を、他の馬より"無駄なく効率よく走らせる"ことで取り戻そうとしたんだ」
康成は静かに頷いた。
「そういうことだ」
そして、不適な笑みを浮かべて腕を組む。
「つまりだな。この馬がまともに折り合うようになったら——もっと面白くなるぜ。鍛えがいがある」
タブレットの中では、真っ黒な巨体が矢のように真っ直ぐターフを駆け抜けていた。
翌朝——早朝6時。
空気が冷たい。夏の間なら眠くてしょぼしょぼしているドラクロワの目も、さすがにしゃきっと覚めていた。
馬房の窓から外に顔を出すと、木の葉が散り始めているのが見えた。
もうすぐ、冬が来る。
そんなことをぼんやり考えていると、厩舎の通路の向こうから小柄な男が歩いてきた。 だが、いつも自分に乗っている柚木ではない。
目の前に現れたのは、小柄で筋肉質な男。厩舎のボス——栗林康成。
「オウ、ドラクロワ。今日の調教のパートナーは俺だ、直々に乗ってやるから覚悟しろ」
『…………???』
ドラクロワはいぶかしげに、目の前の豆タンクを見下ろす。
元ダービージョッキーとはいえ、康成が騎手を引退し調教師に転身したのは20年近くも前だ。騎手時代の鋭い眼光こそ変わっていないが、さすがに体にはガタが来ていることをドラクロワは知っている。
なぜならこの男——先日厩舎の隅でこそこそしていると思えば、鏡を見ながら腰に湿布を貼っていた。
(けっ。大丈夫か、このオッサン)
ところが康成は、そんなドラクロワのなめ腐った態度など気にも止めず——ひらりとその背に飛び乗る。
『ぐぇっ』
ドラクロワは思わず声が出た。そこまで痛いわけではないが、何やらとんでもない圧を背中から感じる。柚木とは全く違う、"馬を自分の支配下に置く"という強固な意志が鞍越しに嫌というほど伝わってきた。
『…………』
観念したのか、ドラクロワは静かに常歩で歩きだした。康成は満足そうに頷き、軽く手綱を動かす。
「ようし、いいぞ。今日からお前には沢山お勉強をしてもらうから覚悟しやがれ」




