特等席でレースを見ろ
馬たちが本馬場入場のためパドックを後にし、ファンたちもぞろぞろとスタンドに向かって流れていく。博は慌ててその波に乗り、馬券購入エリアに急いだ。
購入機の前には、最後まで悩みつつも腹を決めた客で列ができていた。博もリュックから財布を出し、マークシートを握りしめて列に並ぶ。
9番のドンナモンジャイと、10番のクロノドラクロワに100円ずつ、単勝の欄を塗りつぶそうとしたその時。
「ヨーコは何買うの?」
「あたしはねぇ、応援馬券!!ほら、ドンナモンジャイの買うんだぁ」
「え。配当しょっぱくね?もっと穴にしようよ」
「やだよぉ。あたしが出すんだもん。それにあの馬、可愛かったもん」
前に並んでいた若いカップルの声が耳に飛び込んできた。見れば女性の方は、自分と同じ緑色のマークシートを持っている。2人の間に入るのは申し訳ないと思う前に、もう博の口は開いていた。
「あの!すみません。それ……応援馬券って、どう買うんですか」
男の方は一瞬怪訝そうに博を見たが、すぐに丁寧に教えてくれた。
「ここっす。式別の単+複を選んで、馬番号を塗るんすよ。で、金額を決めてください」
博は言われたままに、慣れない手付きでマークシートを塗った。手の上で塗りつぶしたので安定せず、紙に穴が空きそうになった。
「あ、金額は2倍になりますから。気を付けてくださいっす」
そう言うと2人は、1000円札とマークシートを馬券購入機に入れて自分たちの応援馬券を印刷し、博がお礼を言う間もなくさっさとその場を後にした。
博はもう1つのマークシートをドンナモンジャイの単勝で塗ると、急いで馬券購入機に差し込んだ。
すると、画面には——
【合計金額 300円】
「……っあ」
しまった。クロノドラクロワの応援馬券を買えば、単勝と複勝で200円。ドンナモンジャイの単勝で100円。2.2倍オッズのドンナモンジャイが買っても、収支がマイナスになる。
塗りつぶすのに必死で、さっきのカップルの男のアドバイスが耳に入っていなかった。
だが、応援馬券には代えられない。博は財布からもう1つ100円玉を出し、300円で2枚の馬券を購入する。
スタンドに行くと、手前の芝生エリアのところに岳が立っていた。
何しろ185㎝の長身だ。それに加えて父譲りの天然パーマ。ぴょこんと突き出たくるくるの頭は、どこにいてもすぐに見つけられる。
「ほら、買ってきたぞ」
「ありがとう」
岳は珍しく、声を弾ませて馬券を受けとる。
「あ。馬券に"がんばれ!"って書いてある……」
岳の低い声が、また一段トーンを上げたように思えた。
続々とスタンドが人で埋まる。とは言えさすがに2歳の条件戦、話題の馬もドンナモンジャイ以外にはおらず、G1のような満員電車状態ではない。人と人の間には大分余裕があり、前の方も所々空いている。
博は息子の大きな背中をぐいぐいと押した。
「おい岳、今度は真ん前で見ろ。一番前行けよ」
「ちょ、何……押すなって!いや、俺が前行ったら……後ろの人が……」
博はため息をつくと、一気にまくしたてた。
「あのさ、お前さっきも譲ってただろ?あれはパドックだけど、今度はレースだぜ。本番だよ。そんなところまで他人に譲ってどうすんだよ」
「あ、いや。ドラクロワは見たいけど、俺はどこからでも——」
「そういう問題じゃない。クロノドラクロワの名前を考えたのはお前だ。ここにいる誰よりもドラクロワを応援してるのはお前だろ?」
「……そうだけど」
岳は視線をそらしながら言う。こういう煮えきらないところに、父としては時々歯痒さを感じてしまうのだ。博はさらに続けた。
「名付け親が前に行かなくて誰が行くんだ。どこからでも見えるからって、そんなのは言い訳だ。より良い場所で見た方がいいに決まってるだろ。いいから行け!」
父親の渾身の送り出しに折れた岳は、ずるずると前に押し出され、カメラを構えたファンの間に大きく細い体を滑り込ませた。「サーセン……」と小声で何度も言いながら。
岳は最初、背中を丸めて身を小さくし、外ラチに寄りかかって目の前に広がる緑のターフをぼんやりと眺めていた。だが……
突然、スッと体を起こして真剣な眼差しであるものを追い始めた。高らかな入場曲と共に、本馬場入場が始まったのである。
確かに、"良い席"と言うだけのことはあった。5mも離れていない位置に、競走馬がいる。蹄の音や地鳴りのようなものも伝わってくる。しかも、止まっていない。"走っている"——つまり、サラブレッドが最も輝いている状態を間近で見られる。
草食動物とは思えない力強い筋肉に気品。さすが、"走る芸術品"と呼ばれるだけのことはある。
以前新潟でドラクロワの新馬戦を見た時は、馬主席に案内してもらって観戦した。
確かに景色は良かった。前を人で塞がれることも無かったし、高いところから見たため馬群全体が見え、レースの流れまでわかった。あの独特な重厚感と特別な空間は、貴重な経験だったと今でも思う。
だが、臨場感という点では……スタンドには遠く及ばない。馬主席には緊張感こそあったが、全身がぶわっと身震いするような感覚はスタンドならではの醍醐味だろう。
そう思っていたとき、目の前をドラクロワと柚木が走り去っていった。テレビのようにカメラが追っているわけではないので、1秒足らずで2人は岳の瞳からフェードアウトする。迫力はあるものの、何ともあっけない。
(なるほど、三者三様。スタンド、馬主席、テレビ——それぞれの良さがあるのか)
いつも通り冷静に分析する岳の目は、兄の穣とも、弟の律とも違った彼だけの輝きを放っていた。




