収支をプラスに
パドックに行くと、最前列には既にカメラを構えたファンが陣取っていた。
その一列後ろには、競馬新聞やビール、スナック片手にマークシートを睨む人々。そのまた後ろにも、ちらほらと人が集まってきている。
岳はなぜか、早く行ったのに一番後ろに立っていた。
「あれ?1列目は取れなかったのか」
「いや。最初は1列目に行ったんだけど、俺デカいから……後ろで写真を撮りたそうな子供がいたから譲った」
「何だよ。そこは譲らなくてもいいのに……お前だって馬を見たいだろ?」
「まあ、俺は基本どこからでも見えるから」
博は軽くため息をついた。もっと自分を優先すればいいのに。こういう変に気を遣う不器用なところは妻の文に似ている。同じ三つ子でも長男の穣や三男の律はちゃんと自分の意思を伝える方なのに、なぜ次男の岳だけは控えめなのだろう。
以前、図鑑を作る部署の同僚から聞いたのだが、一卵性の三つ子は一人だけ利き手が違うことがあるらしい。受精卵が分裂する際に鏡写しのような現象が起こるため、利き手が反転するのだという。
言われて見れば、岳は左利きで穣と律は右利きだ。穣と律は右目が二重まぶただが、岳は左目が二重。となると、3人の中で岳だけが少し違うのも、鏡写しによるものなのだろうか。
しかし身体的な特徴はともかく、性格まで反対になるものなのか……それはわからない。
そんなことを考えていると、馬たちが厩務員に引かれ、続々とパドックに姿を現した。途端に人々がレンズを構え、座り込んでいたファンも立ち上がる。空気が急に変わった気がした。
紅一点で1番人気、9番のドンナモンジャイは落ち着きのある様子だった。踏み込みも良く、首を調子良さげに振って堂々と歩いている。ぱつんと切り揃えたたてがみに、くりくりとした目が何とも可愛らしい。素人の博や岳でも、1番人気の理由がわかる馬だった。
と、風に乗って、ふわりと馬糞の臭いが博の鼻を小突く。
「おっと……」思わず博は深呼吸をした。
「大丈夫?」岳が聞く。
「しっかりしてよ。馬糞の臭いに慣れてない——イコール、アトリエの世話をしてないのがバレバレじゃん」
黒木家で引き取った元競走馬・クロノアトリエの世話は、基本的に息子3人が"厩務員"として担当している。ご飯を用意し、寝藁やボロ(馬糞)を片付け、手綱を引いて散歩をさせるのだ。危険を伴うため、乗馬クラブの職員や獣医の手も借りながら、慎重に進めている。
アトリエは超朝型だ。競走馬は基本的に寒さに強く暑さに弱い。だから現役馬は日も出ないうちから調教を始め、昼前には終わらせることが多い。息子たちも学校に行く前に馬房の掃除や散歩を済ませている。
残念なことにアトリエの生活リズムは、絶望的なまでに博とは噛み合わない。アトリエが寝ている時に博は原稿チェックに追われ、やっと家に帰ってソファで寝る頃には、アトリエは朝ご飯を食べている。
「仕方ないだろ、アトリエを引き取りたいって言いたいのはお前たちなんだから。世話はお前たちがやるって、自分でも言ったろ」
「うん、そうだね」
岳はあっさりと頷くと、パドックに目を移した。そこにはちょうど、10番のゼッケンを付けたクロノドラクロワが出てきたところだった。
「おお……凄い。真っ黒だな。カッコいいじゃん」
初めて生でドラクロワを見た博は、早速カメラを構える。その横で、岳は冷静に呟いていた。
「青鹿毛って言うんだって。黒い毛並みが青っぽく見えるかららしいよ」
ドラクロワはそわそわすることもなく、ゆったりとパドックを周回している。ドンナモンジャイほどのオーラや活力は無いが、その真っ黒な巨体は落ち着いた雰囲気を放っていた。
「あ。忘れてた、これ」
岳はポケットから100円玉とマークシートを出した。
「記念でもいいから、ドラクロワの単勝が買いたい。俺は未成年で馬券買えないから、悪いんだけど父さんにお願いしてもいい?」
「おいおい、そんなのこっちが払うよ。親子なのに水くさいだろ」
「でも、勝つとは限らないでしょ。何かそのために100円使わせるのヤだし」
それもそうだ。お菓子を買うのとは違う。ドラクロワが負ければ馬券は紙くず、何も残らない。
しかも10番人気。何も残らない可能性の方が圧倒的に高いではないか。
だが博は少し考えた後に言った。
「わかった。なら、収支をプラスにするから父さんに出させてくれ。それならいいだろ」
「ええ?父さん、予想なんかできんの」
眉をひそめる息子をよそに、博は得意気にパドックに目をやる。
「ドラクロワと、あの馬。ドヤ顔の馬の単勝を買うよ。たけしさんだってイチオシだったろ」
岳は電光掲示板に表示されたオッズを見た。
1番人気のドンナモンジャイのオッズは2.2倍。単勝を2頭分買うと、最安値でも200円。ドンナモンジャイが勝てば220円お金が返って、プラスで20円。
「20円……」
「お前、ここはガツンといかせてくれよ。とにかく父さんが買うからその100円はしまいなさい」
言われて岳は、軽くため息をついて100円玉を尻のポケットにねじ込んだ。
「止まーれー」
発走委員の号令と同時に、騎手たちが一斉に礼をしてパドックに入ってくる。その中に、先日会った柚木慎平もいた。小柄だが、どこか芯の強さを感じさせる立ち姿だ。
9月の頭に高円寺の自宅に招いたとき、柚木は私服で来ていた。その時は襟の付いたシャツを着ていたのだが、庭に佇む柚木の姿を見て、まるで庭師のようだと感じたことを岳は覚えている。
今日の柚木は、クロノレーシングのモノクロの勝負服に身を包んでいた。
「父さん。柚木さんだ」
「お。ほんとだ、黒い勝負服だな。渋くていいね」
「渋いっていうか……地味でしょ。アトリエの時も思ってたけど、目立たない感じ」
確かに他のジョッキーは、色とりどりのカラフルな勝負服を着ている。1番人気のドンナモンジャイなど、星を散らした派手な勝負服のジョッキーが跨がっているのが見えた。
年齢は30代後半——柚木と同じくらいだろうか。大きな目にうねったくせ毛で、ハーフのような顔立ちをしている。ニコニコしながら馬を撫でているが、顔の濃さもあってかミステリアスな雰囲気が漂う。俳優の染谷将太に似ている、と博は密かに思った。
「他の人たちは晴れ着みたいな色使いじゃん」岳が口を開いた。
「でも何て言うか……クロノレーシングって、晴れ着って言うより式典で着る服装みたいなんだよね。黒紋付きみたいな。堅いんだよ」
岳の言葉に賛成する気持ちもあったが、博は静かに自分の考えを話した。
「いや、黒紋付だって晴れ着だろ。だって父さん、母さんと結婚式したとき着たぞ。神社で」
その言葉は息子を納得させるとともに、思春期の複雑な心を不機嫌にしてしまったらしい。
「ヤだぁ……親のそういう惚気」
岳はあからさまに顔をゆがめると、口直しでもするかのようにおもむろにスマホを取り出し、柚木とドラクロワの姿を撮影した。




