たけしのウマ講座
12時。
休憩時間に入ったたけしは、モニター前のベンチに親子を案内した。辺りにはたけしや博のような中年男性を中心に、多くのファンが鉛筆片手に真剣にモニターやマークシートを睨んでいる。
「よし。で——第8レースだったっけ。クロノドラクロワか」
「はい。前走が8月の終わりの新馬戦で、僕は現地で見てて。真っ黒で大きい馬です」
たけしはさっきの陽気な顔のまま、鼻唄を歌いながら馬柱を見比べていく。
博にはそれが少し異質に見えた。周りの人間はみんな、怖いくらい真剣に予想をしている。別にたけしが真剣でないと言いたいわけではないが、どこかお気楽そうに見えたのだ。
そっと覗き込むと、新聞にはこう書かれていた。
クロノドラクロワ(牡2/56/柚木) 516キロ(+6)
父シビルウォー
母クロノマキアート
母父マンハッタンカフェ
栗林康成厩舎(美浦)
賞金:750万(1-0-0-0)/重馬場◎
「12頭立てで10番人気か。印もほとんど無し。いやぁ、人気無いね」
いきなりそれを言うか、と思ったが——博はそこまで心配しなかった。息子は厳しいコメントを怖がらない。むしろ"勉強になる"というタイプだ。最近の子にしてはなかなか打たれ強い。
「あ、でも——ヤネが柚木なのは気になるなぁ」
「ヤネって何です?」
「鞍上だよ。騎手」
「柚木さんが乗ってる事がそんなに重要なんですか」
博は焼串をふうふう冷ましながらたけしに聞いた。ついでに受講料と称して1本たけしに渡す。
「そりゃ、騎手はただ乗ってるだけじゃないんだもの。指示を出したり、馬をなだめたりさ。騎手が変わって成績が伸びる馬もざらにいるよ」
「じゃあ、柚木さんだと何がいいんですか?」
岳は真剣な表情で静かに問う。
「こいつは大崩れしない。器用な優等生だな——ま、掲示板には来るんじゃない?それこそヒモにしたら配当が美味しいと思うよ」
「えっ?何だ、勝つかどうかは……運次第ってことですか?そりゃ困りますよ。息子はドラクロワの勇姿を見に来たんです」
「まあまあ、展開に恵まれれば一発あるかもよ。ここ見てみ」
そう言ってたけしは、焼き鳥の串を指し棒のように持って馬柱の左下にある記号を示した。△と▲が並んでいる。
「これはな、"脚質"。馬がレースでどういう戦法——つまり走り方をするか示してるんだ。
ざっくり言うと、三角が上にあればあるほど最初から飛ばす。下にあれば、ラストスパートでごぼう抜き」
「上に印が付いてる馬が多いですね」
「うん。てことは、このレースはどうなる?はい、答えてみて」
たけしはにっと笑い、岳に問いかける。 岳は眉間にしわを寄せながら答えた。
「えー……最初からみんなガンガン飛ばす?」
「そう!」
たけしには人に教える才能があるようだ。いつのまにか岳も博も、この"ウマ講座"に夢中になっていた。食べることも忘れ、どんどん質問を投げかける。
「ドラクロワは下のあたりに印がありますけど、これは?」
「それは"差し~追い込み"だな。先頭を走って飛ばす馬の後ろに控えて、最後の直線で抜き去る戦法」
「豪快ですね」
「うん。でな、ちょっとややこしい話になるけど——走り方の他にペースって言うものがある。例えばみんなのろのろ走ったり、みんなガンガン飛ばしたり——馬それぞれじゃなくて、全体のペースのこと。これによって、勝ちやすい馬が変わってくる」
「え?ただ強いだけじゃ、ダメなんですか」
「どんな展開でも勝つ馬はそうそういないよ。みんながスローペースでのろのろ走ってるとするだろ?そしたら、みんな体力を温存できる。先頭を走っている馬でさえ、余裕を持って逃げられるんだ。その場合だと、最後の追い比べでも先頭の馬は逃げ切ることができるのさ。
反対にみんなが飛ばすハイペースだと、前の馬は一番体力を消耗してバテるから、後ろにいる馬が抜き去ることが多い」
もう博にはわけがわからなかった。こんな気分になったのは30年ぶりだ。外国語学科で受けた、あのロシア語の授業以来。
周りの男たちは、こんなややこしいことを考えているのか。しかも、何レースも。一種の尊敬の念すら抱いた。
だが息子は、そんな父などお構いなしに考え込んでいる。やはり若者の方が吸収力が高いのだろうか。
「じゃあ、このレースは前に行く馬が多いから、ドラクロワが勝つには——ハイペースになるのがいいですね」
「ご名答!!こりゃ飲みこみが早い。ま、そうなるかどうかは始まんなきゃわかんないけど。
2歳馬のレースは、まだ馬のキャリアが浅いからね。データも少なくて能力が完全に予想できないから、上位人気の馬が本当に下位人気より強いかはわからない。人気の無い馬だって来る可能性は全然あるから気にすんな」
岳はそう言われつつも、眉間にしわを寄せてじっと新聞の馬柱を睨んでいた。
「新馬戦で勝ったのに、10番人気か……」
確かに。正直博も、ドラクロワがこんなに人気が無いのは意外に思っていた。
だって、デビュー戦で勝った馬だ。そんなの、エリート中のエリートではないか。
現に兄のアトリエなど、1度も勝てなかったのだから。
でも、たけしは笑いながら現実を教えてくれた。
「おいおい。ここに出るやつはみんな勝ち上がった馬だぜ。新馬戦とはわけがちがう」
「……っあ」




